チャーリーは中学3年の夏から地元にある臨済宗の専門道場に顔を
出すようになりました。背景には登校拒否・高校受験などなど自分
と学校、自分と家庭との関係がギクシャクし、その関係修復の一つ
の方法として親が考えたのが切っ掛けで、最初は自分の意思で通い
はじめたのではなく、「寺にでも行き、そこで何日か生活すれば勉
強嫌いも治るだろう。」とバカな親が勝手に思いこんだのが始まり
です。
まぁ、家の宗旨が臨済宗妙心寺派であった事、祖父母の代からが信
心深く当時から実家が旅館を営んでいたので托鉢の途中の坊さん達
の休憩所とし食事や風呂を施していた関係で程度の高い宗教的環境
が身近にあっ背景があり中学三年の夏から居士として寺に出入りす
るようになりました。ですから一般の人よりは禅宗の空気は知って
いるつもりでいます。
そんな家庭ですから結構厳しい教育を受けて思います。父親も気が
短いほうで、しかも昭和ヒトケタ生まれ、青年時代を軍国主義の中
で育った人間から口より先に手が出るほうが早かったから結構教育
的指導で殴らていました。でもって、家は禅宗。当然理屈より行動
「考える暇あったらさっさと体を動かせ!動かしながら考えろ。」
静中の動・動の静を実践しろ!と怒鳴られたものです。
そんな禅宗の空気にどっぷり浸かってしまった自分はいつも自分を
追い込んでいました。緩めることは不可。弱音を吐かずに総ては自
力で解決。自で道を開く。といった生活信条で日常を過ごすわけで
すが当然世のそんなにイージーではない。壁にぶつかるたびに「オ
レはダメだナー。」と事あるごとに落ち込むのです。
で、その解決手段としては「こりゃ無だわ」といってさっさと尻尾
を巻いて逃げる。物心ついてからそんな事の繰り返しでここまで来
ちゃいました。
禅の教え自体は素晴らしいものです。そこには仏教が根底に持つ自
然と調和した清貧の美学があり、分かち合う精神があります。
ただ、一旦禅の「行」に入り哲学的な探求に自分を置いた時に性根
玉を掴み、絶対の主体性を追求する過程においては他に頼る物は何
もないのですその事自体は全く正しく、これは絶対に間違いのない
ところです。
一方に浄土宗・浄土真宗の教義である「本願他力」又は「他力本願」
という言葉があります。よく間違われるのですが、これは他人の力を
頼る・当てする。という意味意味ではなく「他力」とは仏の力・阿弥
陀如来の力事を指し、「本願」とはすべての人が救われる。すべての
人が仏になしめようとする事です。臨済宗の中興の祖「白隠禅師」の
座禅和賛にあるように、「衆生本来仏なり」と謳われています。同じ
事を説いいるのです。
この辺は最近になって、安富歩教授のお話を聞いて気が付いたわけで
して・・・何が言いたいのか?というと、チャーリーが思うに昭和の
初期から終戦までは日本の仏教界もプロパガンダに利用されて、「欲
しがりまん、勝つまでは・・・」自己を殺し欲を捨て「滅私奉公の精
神」で身を捧げ国に殉じる。といった国策に仏の教えが全く違った形
で利用されたでしょう。
たぶん、昭和の初期から敗戦まで「自力」と「本願他力・他力本願」
が世情に合わせて勝手に中身を変えて使われたのでしょうね。
さらに言うならば戦後の復興とそれに続く高度経済成長に合わせ政府
官僚と大企業が同じようにを利用したのです。人に頼ることはよくな
い。自分のは自分でやれ。我慢、忍耐を美徳として「とにかく頑張る
ニッポン人を造り上げてしまった。
形を変え、「サービス残業」など未だに同じ事が行われています。
ここからはチャーリーの勝手な解釈です。
「自力」と「本願他力・他力本願」。まずこの二つの言葉は同一に並
べられる事・比べられる事の出来ない全く違う言葉です。一つの概念
を別方向から論じものならば比べようがありますがそうではない。
混乱してしまうのは、「他力」という言葉に二つの全く違う意味があ
るからで普段我々つかう「他力」には、「自分以外の他人の力」「他
人の助力」と意味があり、その意味で仏教用語の「他力」を解釈する
と全く違うのになってしまうからです。
「他力」とは仏の力・阿弥陀如来の力・絶対的な力・全宇宙的な力・普
遍的な力の事を指し、「本願」とはすべての人が救われる事を指します。
すべての人が「仏」ならしめようとする事です。絶対的な力です。
それじゃ「自力」は?これは仏教の各宗、浄土宗・浄土真宗・禅宗など
仏教における修行・行いを実践する姿の事です。南無阿弥陀仏と口にし
一心に念仏を唱える姿。心を鎮め座禅を行う姿。これみんな自力です。
禅宗は座禅を実践しその結果を求めるな。「只管打坐」ひたすら座禅し
何も考えず没頭しろ。その結果は求めるな。なぜならば、「衆生本来仏
なり。」と説いています。
一方の浄土宗・浄土真宗は 南無阿弥陀仏 と一心に唱えればその先は
阿弥陀様がお救いなさる。この場合も結果は求めなくていい。としてい
ます。どちらも自力で実践する「行」を行った結果を求めてはならない。
求めなくともいい。 まぁ、言い方の違いこそあれ同じ事なんです。
チャーリーは間もなく58歳になろうとしています。毎日の仕事の中では
自分の為に「自力」を実践し、汗して精一杯暮らしています。幸せです。
若い頃はいろんな事を考え楽しい夢を描いていましたがその形は全く違
うものになています。が、幸せです。で、これからは「本願他力」のこ
とばを信て片の力を抜いて暮らしてみようかと思っています。
自然体で、天然で・・・
有露地より無露地へかえる一休み
風吹けば吹け 雨降らば降れ
一休宗純
出すようになりました。背景には登校拒否・高校受験などなど自分
と学校、自分と家庭との関係がギクシャクし、その関係修復の一つ
の方法として親が考えたのが切っ掛けで、最初は自分の意思で通い
はじめたのではなく、「寺にでも行き、そこで何日か生活すれば勉
強嫌いも治るだろう。」とバカな親が勝手に思いこんだのが始まり
です。
まぁ、家の宗旨が臨済宗妙心寺派であった事、祖父母の代からが信
心深く当時から実家が旅館を営んでいたので托鉢の途中の坊さん達
の休憩所とし食事や風呂を施していた関係で程度の高い宗教的環境
が身近にあっ背景があり中学三年の夏から居士として寺に出入りす
るようになりました。ですから一般の人よりは禅宗の空気は知って
いるつもりでいます。
そんな家庭ですから結構厳しい教育を受けて思います。父親も気が
短いほうで、しかも昭和ヒトケタ生まれ、青年時代を軍国主義の中
で育った人間から口より先に手が出るほうが早かったから結構教育
的指導で殴らていました。でもって、家は禅宗。当然理屈より行動
「考える暇あったらさっさと体を動かせ!動かしながら考えろ。」
静中の動・動の静を実践しろ!と怒鳴られたものです。
そんな禅宗の空気にどっぷり浸かってしまった自分はいつも自分を
追い込んでいました。緩めることは不可。弱音を吐かずに総ては自
力で解決。自で道を開く。といった生活信条で日常を過ごすわけで
すが当然世のそんなにイージーではない。壁にぶつかるたびに「オ
レはダメだナー。」と事あるごとに落ち込むのです。
で、その解決手段としては「こりゃ無だわ」といってさっさと尻尾
を巻いて逃げる。物心ついてからそんな事の繰り返しでここまで来
ちゃいました。
禅の教え自体は素晴らしいものです。そこには仏教が根底に持つ自
然と調和した清貧の美学があり、分かち合う精神があります。
ただ、一旦禅の「行」に入り哲学的な探求に自分を置いた時に性根
玉を掴み、絶対の主体性を追求する過程においては他に頼る物は何
もないのですその事自体は全く正しく、これは絶対に間違いのない
ところです。
一方に浄土宗・浄土真宗の教義である「本願他力」又は「他力本願」
という言葉があります。よく間違われるのですが、これは他人の力を
頼る・当てする。という意味意味ではなく「他力」とは仏の力・阿弥
陀如来の力事を指し、「本願」とはすべての人が救われる。すべての
人が仏になしめようとする事です。臨済宗の中興の祖「白隠禅師」の
座禅和賛にあるように、「衆生本来仏なり」と謳われています。同じ
事を説いいるのです。
この辺は最近になって、安富歩教授のお話を聞いて気が付いたわけで
して・・・何が言いたいのか?というと、チャーリーが思うに昭和の
初期から終戦までは日本の仏教界もプロパガンダに利用されて、「欲
しがりまん、勝つまでは・・・」自己を殺し欲を捨て「滅私奉公の精
神」で身を捧げ国に殉じる。といった国策に仏の教えが全く違った形
で利用されたでしょう。
たぶん、昭和の初期から敗戦まで「自力」と「本願他力・他力本願」
が世情に合わせて勝手に中身を変えて使われたのでしょうね。
さらに言うならば戦後の復興とそれに続く高度経済成長に合わせ政府
官僚と大企業が同じようにを利用したのです。人に頼ることはよくな
い。自分のは自分でやれ。我慢、忍耐を美徳として「とにかく頑張る
ニッポン人を造り上げてしまった。
形を変え、「サービス残業」など未だに同じ事が行われています。
ここからはチャーリーの勝手な解釈です。
「自力」と「本願他力・他力本願」。まずこの二つの言葉は同一に並
べられる事・比べられる事の出来ない全く違う言葉です。一つの概念
を別方向から論じものならば比べようがありますがそうではない。
混乱してしまうのは、「他力」という言葉に二つの全く違う意味があ
るからで普段我々つかう「他力」には、「自分以外の他人の力」「他
人の助力」と意味があり、その意味で仏教用語の「他力」を解釈する
と全く違うのになってしまうからです。
「他力」とは仏の力・阿弥陀如来の力・絶対的な力・全宇宙的な力・普
遍的な力の事を指し、「本願」とはすべての人が救われる事を指します。
すべての人が「仏」ならしめようとする事です。絶対的な力です。
それじゃ「自力」は?これは仏教の各宗、浄土宗・浄土真宗・禅宗など
仏教における修行・行いを実践する姿の事です。南無阿弥陀仏と口にし
一心に念仏を唱える姿。心を鎮め座禅を行う姿。これみんな自力です。
禅宗は座禅を実践しその結果を求めるな。「只管打坐」ひたすら座禅し
何も考えず没頭しろ。その結果は求めるな。なぜならば、「衆生本来仏
なり。」と説いています。
一方の浄土宗・浄土真宗は 南無阿弥陀仏 と一心に唱えればその先は
阿弥陀様がお救いなさる。この場合も結果は求めなくていい。としてい
ます。どちらも自力で実践する「行」を行った結果を求めてはならない。
求めなくともいい。 まぁ、言い方の違いこそあれ同じ事なんです。
チャーリーは間もなく58歳になろうとしています。毎日の仕事の中では
自分の為に「自力」を実践し、汗して精一杯暮らしています。幸せです。
若い頃はいろんな事を考え楽しい夢を描いていましたがその形は全く違
うものになています。が、幸せです。で、これからは「本願他力」のこ
とばを信て片の力を抜いて暮らしてみようかと思っています。
自然体で、天然で・・・
有露地より無露地へかえる一休み
風吹けば吹け 雨降らば降れ
一休宗純
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