私は「待つ」ことが苦手。待たされるということは、私にとって最大のストレスかも。…と、自己分析を続けていく中で、改めて気づいた。
ちょっとした信号待ちも耐え難いことが多いし、スーパーやコンビニのレジの人がゆっくりペースの人だと、「早くして、早くして、早くして、」と、心の中で念仏のように唱えてしまう私。
行列ができる店なんかには、ぜったーいに並ばないし、並んだことない!
それでも、TV番組や映画などは、ゆる~~い内容を好むし、スピード感溢れる大都会より、田園風景が広がるようなローカルエリアが好きだったりするのは、矛盾があるな。
結局、待たされる時間、というのは、私からすると、「無駄」に感じるからストレスになるような気もしてきた。
ゆっくりすることが、癒しにつながるような場面では、そのゆっくりした時間は決して無駄ではないのだから。
かといって、私は待たされること以外には、無駄な時間を費やしていないわけではなく、意味もなく、ダラダラしてしまうことは多いし、無駄な動きもかなり多い気がする。
ダラダラしたり、無駄な動きをしている自分に対しては、「早く早く!」というストレスは感じない。
我ながら、かなりの自分勝手ぷりにあきれる。考えれば考えるほど、矛盾が多いな。
↑ 2008年の頃の記事です。
2022年現在の私も、相変わらずせっかちでイライラしてしまうことも多いですが、「待つ」という時間の流れは人生において、決して無駄な時間などではない、ということに気づけました。
それはなにか得たいものがあるなら、それを十分に価値あるものへと熟成させるためには必要な時間であったり、問題解決や障害物を取り除くためには必要な時間であったり、良いひらめきを生み出すのに必要な時間であったりするのではないかなと思います。
待たされていたからこそ、最良なタイミングで出来事はやってくる、ということを、私はこの記事を書いてから後、なんども体験しました。