過ぎ去ったことの記憶は、時を遡ればさかのぼるほど、断片的なものしか残っていないものですね。
残っているものを分類してみると、
楽しかったことや嬉しかったことなど、ポジテイブな強い感情とともにある出来事。
そして、辛かったこと、後悔していることなど、ネガティブな強い感情が絡んでいる出来事。
その他、「なぜこんなどうでもいいようなことをいつまでも覚えているんだろう?」、と思えるような、過去の何気ない生活の一場面などがあります。
感情を伴った記憶は残りやすいと言われています。
楽しかった出来事や感動体験が記憶としてしっかり残っていてくれることは大歓迎ですが、逆に、思い出したくない過去の記憶も、強い感情が絡んでいればいるほど、残りやすくなってしまうようですね。
一方で脳は、いま目の前にある現実世界に対しても、すべてをありのままに捉えることは不可能で、処理しやすい形に修正を加え捉えると言われています。
わかりやすい例えで言えば、視野が欠け始める緑内障の人は、初期段階では欠けた部分(実際には見えなくなっている部分)も、すべて見えているかのように脳が勝手に修正を加えてしまい、緑内障であることに気づきにくいとも言われています。
脳は自分にとって関心のあるものしか認識せず、無関心なものであれば、たとえ目の前に巨大な何かが現れても、その世界には存在しないも同然!
このことから考えると、今私が漠然と思い出せる断片的な記憶は、自分にとって都合のいいようにかなり修正されている可能性は大きいと思います。
私は10歳の頃から日記を書き続けてはいますが、自分の感情を細かく綴った部分は少なく、その日の出来事や食べたもの、見たテレビ番組の記録などが中心になっています。
なので、過去の感情の記憶に関しては、かなり今の自分の感覚で修正を加えているような気がします。
いずれにせよ、過去の記憶や感情を、そっくりそのまま今に蘇らせるのは不可能なこと。
もちろん、思い出すたび「ああ。あのときは辛かった」と感じるもの、「あの人には悪いことしちゃったかな」という自責の念を感じるものはあります。
しかし、それを思い出すことで今の私が苦しくなることはありません。
だけど、この世のどこかには、過去の私に傷つけられ、その記憶をいつもでも残している人は意外と数多くいるかもしれない。。とこの頃考えるようになりました。
傷つけられることには敏感だけれど、傷つけてしまうことには、人って案外鈍いのかもなぁ~。。と。
自覚なく相手を傷つけ、傷けられた相手もその様子を隠していたら、というパターンだと、一生涯傷つけた罪には気づけない。
こちらに悪気なく、自覚もなく、人を傷つけたり不愉快にさせることは十分にある、ということを、常に心にとめておこうと思っています。
私が習慣にしているホ・オポノポノには
「ごめんなさい」「許して下さい」
というフレーズがあるのですが、これを私が過去に傷つけたであろう人に向けた気持ちで唱えるようにしています。