a green hand

気持ちは清々しい



庭に出た。
今回はかなりしつこいぎっくりに、もうすっかり嫌気がさしていた。

庭に置かれた椅子に腰を下ろした。
健康な時は滅多にそこでのんびりすることはない。

ただ今日はとても風の美しい時を迎えていた。
小鳥の声、風の音、花の微かな香りまでが私に届いた。

こんなにいい日はそうあるものではない。

瞑想にもってこいの条件である。

その場所からの庭は、満足を超えていた。
小さな花々が揺れ、第2弾、饗宴の時期とも言えた。
ここに誰か来てくれたら……。
たくさんの誰かが浮かんでは消えていく。

連絡すれば喜んで来てくれる人がたくさんいるのに、なぜかそういうことができない。
瞑想どころか一緒に感動をしてくれる人を物色してる自分がいる。

自己満足の部類である。

果ては、夫がこの場所で私と同じような感動を得てくれたらどんなにいいだろうと思い、そのことを伝えるため、朝食のパンを食べている夫のところへ行く。

一向に乗ってこない。

それどころか「木の芽が吹く頃におかしくなる人はいるけど、あんたは花が咲くと気が立ったようにおかしくなる。だからそうやってぎっくり腰になるんだ。」の一撃。

ハハハ、その通りだ。

最も近い家族でさえままならない。

そのうち庭は静けさを超え、生活音に変わった。
洗濯機の音、畑に伸びた草を刈るモーター付きの草刈機の音。
鉄骨を叩く音。

いつもの生活だ。

諦めた私は咲き終わったバラの花がら摘みをすることにした。

早く動けるようになりたいが、動けないから得たものがたくさんあった。

これが「足るを知る」ことかとしみじみする。

指が動くこと、息ができること、話せること、目が見えること、などなど数えたらキリがない。
私は数が苦手なので数えないことにした。



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