a green hand

レオナール・フジタとモデルたち -素晴らしき乳白色の肌-




昨日、夫を誘いいわき市立美術館へ行った。
前日の即断である。

いわきまでの道のりは車で約2時間ほどかかる。
滅多に行かない土地である。

帰ると息子の奥さんがMちゃんときていた。
図録を見て彼女が言った。

「お母さんはこの人の絵のどんなところが好きなのですか?」

「?・・・」と思った。

どんなところと言うと藤田がパリで認められるに至った「乳白色の裸婦」だったわけでもない。

自分に問うてみた。
「パリの中の日本人であること」
「日本人嫌いの日本人画家」
「何か変な人であること」
「ピカソやモジリアーニとその時代の人々の中で生きた日本人であること」
「戦争画を描いた人」
「当時の日本の体質に合わなかった人」
「5回も結婚をした人」
こう書いてみると私は絵から入ったのではなく「人としての藤田嗣治」への好奇心から入ったと言える。

彼に関する本を数冊読んだ。


全く日本人が描いたとは思えない画風にますます興味を持ち、色々な展覧会の中で「フジタ」の絵の前でじっと観いるようになった。

彼の絵は異質といえば異質と私には感じとれた。

昨年秋、府中市立美術館へ行った。
そこで3時間も1人で過ごした。

そして昨日 いわき市立美術館へと追っかけ状態である。

さらに5月には、藤田の作品を多く持つポーラ美術館を 目指しているのだ。

昨日は1人ではないのでゆっくり観ることはできなかった。

「全部観たから、駐車場の車の中で待ってるから」と夫が不満そうである。

そんな嫌な態度をとられても5月も夫と一緒である。
イマイチ夫を理解できないでいる。

思いやりのすれ違いなのではないだろうか?とふと思ってみたりする。

私が誘わない限りどこにも行かない夫である。
夫は夫で興味のない音楽や美術に私を思って一緒に行ってくれる。

全く興味が無かったら断るのだろう。
それにしても夫のへそ曲がり的思考に私は混乱するばかりである。

私はあまりにも素直でバカすぎるのである。

写真は図録の表紙と裏である。
「アンナ・ド・ノアイユの肖像」

私はフジタの子供の絵が一番好きかもしれない。

5回も結婚しながら子供がいなかった。
最後の妻、君代・嗣治夫妻が彼らの子供を想定して描いたという一枚一枚の子供の絵が一番好きな気がする。

今回の「モデルたち」には関連のない感想になってしまった。

敢えてモデルたちに戻るなら29歳という若さで亡くなり日本の墓地に眠るという
4番目の妻マドレーヌを描いたものが好きだ。

フジタの女性像の原点となったという22歳の日本の女性を描いたもの これは府中で観ることができた。
今回のいわきでは写真が飾られていた。

最初の妻「鴇田とみ」ということだ。
この絵が 初々しく当時の日本人の美が描かれていて好きな作品である。
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