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a green hand

災害から1週間が過ぎた

金曜日、美容室に行った。
いつもより大分時間がかかり、帰り道になった。
もう少しで家というところで地面が揺れだし、収まらない。
近くの駐車場にいるとその家の人が子どもを抱っこして外に出てきた。

長い揺れに、咄嗟に出た言葉は、震源地はひどいことになってるかもしれないだった。
私の住む地域は粘土質で、今までもさして被害の少ない方と知っていたからである。

少し、収まり家に急いで行くと母がオロオロしていた。
アンティークのランプが落ちて壊れていた。
部屋は散乱していた。ビールが投げ出されていた。

飲まないビールをサイドボードに入れておいたのだ。
高く積み重ねておいたDVDは床に落ち、アッシジで買った天使の絵皿も割れていた。

自分の部屋は最悪だった。
築35年ぐらいの家の方は、大分揺れが大きく、絵本棚の絵本はバラバラに落ちていた。

そうしている間にも余震と言えないような地震が次々と起こり、そのたびに外に出た。
即、電話回線に異常が出てインターネットが繋がらなくなった。

電気も消えた。
水道が出ているのが不思議であった。

テレビも見られなくなり、今世の中で何が起こっているのかさっぱり解らない不安。
そして、貴重な充電を気にしながら電話をかけてもだめで、メールならつながるということで
娘がきっと心配していると思い、メールをした。
何度も電話をしたが繋がらなかったと心配のメールだった。

暗い夜は、余震が収まらない中、電気もないまま、コート、マフラー、手袋までして、
母とダイニングテーブルの下で寝た。

夫は、公務員の仕事に専念し、帰ってくることもなく電話での連絡もできないまま過ごした。
しばらくすると、懐中電灯を持った人の影が、安否確認に来た夫だった。
無事を確認するとすぐに帰っていった。

夜、娘から、県北地区は明日断水になるから、水を汲んでおくようにとメールが来た。
それから、空だったバスタブにたっぷりの水とペットボトル6本ぐらいに飲み水を確保した。

案の定翌日から断水になった。
トイレが困った。

バケツ1個分の水をトイレに置いた。
息子が二日目の夜から、家に来た。

断水なので、それぞれに分散したらしい。
夫もいないので、息子がいるだけで頼もしかった。

息子に卵と挽肉を買ってきてくれるよう頼んだ。
その中には赤ちゃんのおしりふきを所望した。

水洗に慣れていると数日すると大変な事になるのを経験で知っていた。
からだを甘やかすとやはりしっぺ返しがある。

気づくと、ガスが出ない。
プロパンガスなので、店に注文に行くと、よその町からガソリンを求め、
電気が通じている地区のガソリンスタンドへと客はなだれ込んでいて、
プロパンガスを配達してくれる人も車も出払っているという。

しかし、店に85歳のおじいちゃんがいて、車にプロパンを載せ、
自分を乗せてくれたら大丈夫という。
若い時からの経験は十分あり、今は息子たちにすっかり任せているが、
役立ちたいという気持ちで助けてくれた。

85歳で男で生きてるのは自分だけだといい、帰りの道すがら、ここも死んだ、
ここも死んだとすでに無くなった同年齢の人の在りし日を惜しむのと
自分は生きているという複雑さで指差す仕草がなんとも形容出来なかった。


三日目、ガソリンが残り少ないので息子は会社に行けず、休暇になったという。
電気が通じ、ポンプで汲み上げる井戸が使えるようになる。

バスタブの水を入れたり病院からもらってきた、精製水を入れる大きな容器に、飲み水を息子が井戸から汲み上げたり
して役にたってくれた。

4日目、原発危険区域に指定された、孫のハルとそのママに、夫の意見も聞かず、非常時態であるので、家に避難して
来るようにと即決断した。

元妻と息子と3人は6年ぶりに同じ屋根の下に過ごすことになった。〈続き〉
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