大きい方のクマのぬいぐるみは息子が2歳だった頃に買ってあげたもの。
ずいぶん歳をとった。
ぬいぐるみも歳を取るんだと感じた今日。
今日はとても穏やかな1月28日である。
今から43年前の今日は、雪がちらつく朝であった。
お腹を「ドンドン」と突く音に驚いて目が覚めた私。
「何?」息子との初めてのコミュニケーションだった。
予定日が過ぎてものんびり、ぐっすり眠っている私に呆れていたのだろうか。
「これから生まれるよ」のサインだったに違いない。
まだ明けきらない薄暗い朝に夫の運転で病院へと向かった。
それからは急かされた。
雪の白さが鮮やかに記憶に残っている。
雪がフロントガラスに吹き付けてきたのが吹雪に見えた。
陣痛というものがあったのだろうが、およそ車で40分ほどの距離を走った。
まだ人気のない朝の病院に着き、エレベーターを使う事なく早く早くと自分に急かされて3階までの階段を駆け上った。
夫の存在すら覚えていないが手ぶらではないはずと夫に聞くと「そんな昔のこと覚えていない、エレベーター無かったのかな」なんて言っている。
3階に着くや否や、急いで分娩室の寝台へと上がる。
脱いだものに重さを感じた。
車の中で破水したという。
病院側の順番に寄らない余裕のない分娩のスタートだ。
「消毒なしに」という声が聞こえた。
消毒する間も無くしなかったという意味だと悟った。
そのうちに、お腹の上に2人ぐらいの助産婦さんが上がり、騒然とし始めた。
赤ちゃんがなかなか顔を出してくれない。
お腹を押し、胎児を押し出している。
するとまたさらに騒然さが増した。
その時の私は痛さも苦しさも重さも感じてなかったように思う。
ガヤガヤする中3、4人の専門家にただただされるがまま、身をゆだねていた。
不安も何もなく「無」の状態だったのではと振り返る。
長く感じたが何分かの出来事だったに違いない。
赤ちゃんがこの世に出て、シーンとした一瞬があった。
生まれたらすぐに鳴き声が聞こえるのではという瞬間の不安がうまれた。
「泣いた」
今でもハッキリと記憶に残るのは、初めて対面した息子の顔である。
大きな黒目は血で縁取りされていて、赤い顔のなかにうっ血のための紫斑が顔中に出ていた。
そしてとにかく大きな赤ちゃんでズシリと重かった。
助産師に抱かれている赤ちゃんをみて即座に思ったこと。
「誰かに似てる、会ったことがある」
だった。
顔の酷さを見て、大変だったねとも頑張ったねとも思わないうちに「この子に会ったことがある」というのが第1印象だった。
夫の姿が見えた。
「居たんだ」と思った。
夫にしてもあれよあれよという間の出来事で帰る時機を逸したのだろう、赤ちゃん室を廊下からのぞいている姿が見えた。
我が子を確認し、勤め先に直行したものと思われる。
さて私は、分娩より何よりその後の処置の方が我慢できないほど痛かった。
息子は、大きく生まれたために右手分娩麻痺が現れた。
新生児黄疸もあり、私は退院できたが息子だけは入院して保育器に入っていた。
母乳を数回運んだようにも記憶している。
ほどなくして退院許可がおり、家に連れ帰った日のことである。
2歳だった娘の息子への対応が忘れられない。
寝ている赤ちゃんの枕の周りを囲むように自分のおもちゃを並べ始めた。
突然の侵入者である弟赤ちゃんに何でも自分のおもちゃを貸してあげるという興奮に似たものがあり、
それは少し辛そうにも見えた。
右手分娩麻痺のため、しばらく通院した。
添え木をしていた右手の包帯がとれる日、看護師さんが不思議なことを呟いた。
「あんまり赤ちゃんがきれいなので記念にこの包帯と板をもらっておきましょう」と。
看護師さんの言葉にポカンとしていた私は、ただ、あかちゃんがきれいと褒められてうれしがっていた。
その頃、アトピー性皮膚炎というのが世の中で注目されていた。
例に漏れず、その兆候が赤ちゃんである息子にも現れた。
息子の産院となった日赤病院の小児科の先生が「お母さん、これはアトピー性皮膚炎ですから薬は出しませんからね」
という言葉に出会った。
もともと医者嫌いの私である。
何でも薬に頼ろうとしている風潮に疑問を抱いていたのでその先生の言葉を信じた。
それで私が息子にしたことは、ガラス越しの日光浴である。
まいにち裸にして日光浴を続けた。
今考えるとだいぶ先生も私も勇気あることをしたものだと感心する。
冬の日でもお天気のいい日はガラス越しの日光がとてもあたたかい。
息子のアトピー性皮膚炎は、すっかり影を潜め、今では、孫娘に住みついている。
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