張り詰めた日々の中で自分の食事がいい加減になるのは私の癖である。
そんな中、玄関口の椅子にズシリと重いTさんからの紙袋。
といっても、玄関のチャイムを鳴らさずに品物だけを置いて行ったのだ。
「忍びの術で、椅子の上に置いてきました。見てください」のラインが届く。
「チャイムを鳴らそうか迷ったけど時間が時間だから忍びの術で置いてきました。Mちゃんの庭きれいでした」と。
中身は全て県内産の老舗の食料。
物産展でお気に入りを手に入れたのでと桜模様の美しいカードにメッセージが書き込まれていた。
朝方、急に目が覚めた時、タンパク質タンパク質と呟く私の声。
食事を作ろう、自分のために。
と思い立ったのはTの心使いからに違いなかった。
食事をのんびりしながらボーッとしていると、これも急に父が浮かんできた。
将棋をさしている姿である。
その姿を深層に焼き付けている私は多分ものすごく幼い頃だと思う。
場所は父の通う町の床屋さん。
父がバイクで行ける範囲である。
「ヨネトコ」「ミノスケサン」ミノスケサンという将棋相手は父より相当年上に見えた。
明治の人間である。
時代考証によりテレビドラマに出てくるような上は縞模様の着物に下はモンペのようなものを身につけていた気がする。
子供の記憶なので断言はできないが私の目に映ったミノスケサンは明治人である。
子供の私に話しかけるでもなく顔をチラリとも見るわけでもなく将棋盤に向かう2人はニコニコしながら駒を揃えていた。
ミノスケサンという名前はよく父の口から聞いていた。
将棋の遊び相手だった。
ミノスケサンがとても幸せそうに店の一段高くなっている畳の上で将棋盤に向かう姿と、何か言いあいながら将棋を指している姿が子ども心にとてもおもしろかったのか奇異に思えたのか。
その時私は笑っていなかったように思う。
笑いもせずいろいろ感じていたんだな〜と思う。
そしてなにより、勝っても負けても「いやいや何とかかんとかと」相手の事を褒めあったり自分の負けを笑ったり、いちいち嬉しそうで楽しそうなのだ。
ヨネトコには父親と青白い顔の息子が2人で床屋をしていた。
父親はまだ若い息子に仕事を任せ、将棋を指しているミノスケサンと父の将棋盤をのぞいている。
床屋に行くのが目的なのだが、遊びに行くのが凄くうれしいと分かるほど将棋で遊ぶ大人の様子が記憶に残った。
そこにはのんびりとした時間が流れていた。
一度だけ父親と行ったヨネトコであり、町に3件ぐらいあった床屋の中で母に連れられて行ってる間は「サイトウトコヤ」
1人で行けるようになってからが「オオツトコヤ」だった。
苗字が付いたトコヤが多い中「ヨネトコ」。
「ヨネトコ」の響きに遊びの楽しさが加わったヨネトコ=父の床屋であった。
ヨネトコだけは奥さんが床屋をしていない。
「男の床屋」の雰囲気があった。
まだテレビも多くは普及していない時代、戦争体験もした父が、のんびりと将棋を楽しめた昭和20年代後半のことである。
でこぼこ道で時々3輪トラックが土煙りを出して通り過ぎた時代である。