庭に出て、育てたダリアを3本摘み、供えた。
面白い祖母だった。
父は、とても優しい息子であり、祖母は末っ子の父に晩年をみてもらいたいと
願い、気持ちよく承知した母のお陰もあり、私たち3人姉妹は、祖母との暮らしを
経験できた。
77歳という年齢を覚えていて、亡くなったのが81歳ぐらいだから、4年ぐらい
の同居だったことになる。
今、考えると77歳という年齢には、現在との年齢感覚に10年の開きはありそうだ。
ヨロヨロしていたし、目もよく見えていなかった気がするし、病弱だった気もする。
それによく横になっていたのを思い出す。
私も大分、普段はゴロゴロしているが。
祖母とは、言うなら、きかなく、面白く、涙もろく、情け深く、笑いの多い、
昔をたくさん知っている人。
苦労した話しを面白く語り、それを懐かしむ人だった。
飲んべいで会津生まれの夫に手を焼きながらも強く明治・大正・昭和を生きた人。
祖父という人には、会ったことがない。
のんべいで偉い会津気質魂の祖父に一度でも会ってみたかった。
箱枕にガーゼを当て頭を載せ、うちわで仰ぎながら遠くを見つめる姿、
タンスの奥にしまい込んだ真っ白なハンカチから取り出した鮮やかなグリーンの財布。
そこにに入っているお金を取り出しては数えている姿を思い出す。
覚悟のある人で、葬式代だといったグリーンの財布の中身だが、
どこに収入源があったのかわからない。
まだ同居をしていない頃、家に訪ねてきた祖母に、私は時々、小銭を貯めては、
差し上げていた。
そんな自分を思い出す、小学低学年だと思う。
困った人には、たとえ乞食であってもお金を上げて、助けている姿をみたことがある。
家族は、ばっぱちゃんは乞食とも友達なんだと言ってその行為を笑った。
最近とても不思議に思うことがある。
それは私の名前である。
もしかしたら、父は、父と祖母の名前で私の名前を作ったのではないかと。
父から聞いていた話がある。
仕事に行く途中で考えた、とても生まれるのを待っていたからM子と付けたと。
なんということはないのだが、なんとなくその言葉はしっくりこなかった。
私の名前だけ、父が付け、妹たちの名前は人任せである。
あとは待っていなかったということにはならないのだが・・。
祖母との思い出はたくさんある。
暗い私を笑わせてくれる、なんとなく好きな祖母だった。
友人が、私の祖母の写真を見て、M子さんはおばあちゃんに似てるねと
言ったとき不思議と嬉しかった。
ながーく垂れたおっぱいを子ども心にしみじみと眺めたこともあった。
祖母の手の甲の皮を引っ張り上げてはおもしろがったりもした。
頬のシワを
まんじゅうの皮と言って笑って怒らせたり、入れ歯をとった時、祖母の笑う
顔をおもしろがり、何度も笑わせようとしたこともあった。
笑いながら私に水をかけてかまっていた祖母の顔を思い出す。
まるで小さい子どものように祖母と遊び合った。
ヨロヨロしている祖母と柱を中心においかけっこもした気がする。
いつも自分のマイナスを笑い飛ばす、自分を笑える人であった。
娘たちが来ると喜び、帰るときには泣いて見送った。
祖母の当時の年齢より、10歳以上も若いはずの私なのに、
自分で自分の手の甲を引っ張ってみて、あの時の祖母の手だと思うようになった。
幸いかな、それを笑う、私のように変で、意地悪な孫は、私にはいない。
ハルもこんな風に、いつか私を思い出し、懐かしんでくれることがあるんだろうな
と・・。
しかし、私の祖母は決して自分の死後に孫の私がこうして祖母を懐かしんでいるなどと
考えたりはしなかったろうなと思う。
久々に祖母を偲ぶ命日のきょう。
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