日曜美術館は常に録画状態にしてある。
しかしこのなんだか読めない名前が気になり、消そうかなと何度も思った。
でもこの読めない文字に何か引っかかる。
それで、久しぶりの英語仲間とのランチに行く前に付けっ放しで見るともなくみていた。
出かける時には出かけることしか頭になくテレビは上の空であった。
画面を横切るある一冊の「絵本」が気になった。
そこで上の空は、出かけることの方になってしまった。
あれ?この絵本、長いこと不思議に思いながらも私の興味のない「絵本」だ。
うちの子どもたちがこの絵本のどこが面白くて何度も見ているのだろうと印象に残っていた。
奇妙な絵は多分大人にはわからない。
絵本の研究など頑張った私でさえ、先日処分しようと思い手にとったばかりである。
処分されなかったのは、うちの子たちが見ていたと言う、ただその1つの理由からだった。
もしかしたらこの絵本は2人の孫たちも気になったものかもしれない。
が、確信はない。
とりわけ息子の方がこの絵本は好きだった気がする。
「とうもろこしおばあさん」という全体的に黄色い絵の本である。
出かける前なのに、本棚から探し出した。
月刊誌「子どものとも317号」福音館書店。
1982年8月1日発行とある。
なんと250円である。
その絵本の画家の名前が何十年も過ぎた今、新しく目に飛び込んできた。
秋野亥左牟画
秋野和子再話
あっこの活字だ。
アメリカ・インディアン民話とある。
この絵本はイサムの絵本10冊の中の1冊だった。
不思議なのはどうして録画を消せなかったのか、ほんのわずかな差で向こうが私の側に飛び込んできてくれた。
そして、やっぱり子供を引きつける絵本は「絵」なのだと言う確信を得た。
理論で知ってた事が「わかった」のだ。
大人にはわからない感覚こそが本物なんだと確信した。
私はうちの子たちの感覚に負けたんだと。
子どもの心から離れた、ただの大人の感覚でしかその絵本に向き合えなかったことがわかった。(現職中に気づけよ!)
テレビで取り上げられた絵本「タコなんかじゃないよ」
なかなかいい。
イサムが生前タコについて語っていた。
タコをとろうと、欲を持って海に潜る。
するとタコが全然見えてこない。
ところが、そう言う欲を捨てて海に潜り、自分が海になり、タコになるとタコが見えてきた。どんどんタコが取れたと笑っていた。
これだな自分がタコになる、すると相手が見えてくる。
向こうからこっちにやってくる。
達人とはそう言う我欲を抑えたところに本物を見る人をいうんだと。
「とうもろこしおばあさん」をあえて読まずに絵だけを見た。
なんて長い事、画面を飽かず見ていられるのだろう。
読むことと見ることは全く違う脳の働きをしている。
こころの目だ。
こころの目で見るから楽しいし心が動く。
改めて未熟者を自覚した「とうもろこしおばあさん」である。
昨日は、英語仲間8人が集合し、互いの元気を確認しあい楽しい時間を過ごした。
来年の我々の純粋な「桜を見る会」も予定された。
楽しみである。