昨日は日本国の衆院が白票と青票で割れたそうであるが、
郵政民営化は宗主米国様のご命令だから進めないわけにはいかないのである。
もとより、現宰相がその地位を得れたのも、同氏が米国の憲法を英語で
諳んじることができるくらいに同国に忠誠を誓った人物だからである。
日本はとっくに米国様のものなのである。日本国民がせっせと働いて収める税金は
諸国の経済援助に向けられてるばかりではない。
財政・貿易二重赤字帝国のドル支え、赤字国債お買いあげを律儀にさせられてるのである。
現宰相が退けば、増税が待ってる。そうしなければ「財源」はないからしかたない。
日本国民は米国様の奴隷としてしか生きてけない存在なのである。といって、
日本の左側に位置する諸国に頼る轍(ソ連に仲介を頼んだ愚)を踏むこともできぬ。
自ら核を持ち得ぬ身にされ、近隣からは憎まれるように、まんまと仕組まれてしまった以上は、
好むと好まざるとにかかわらず、米国様におすがりする選択肢しかないのである。
であるから、青いお札を差し出して米国に逆らった御仁の政治生命に未来はない、
ということである。
「人間・到処・有青山(じんかん・いたるところ・せいざんあり)」
これは、釈月性(しゃく・げっせい)という、幕末期の周防の坊さんが
見張りの漢詩の目をかいくぐって草刈りダンスしながら壁に落書きした七言絶句:
「男児立志出郷関、学若不成死不還、埋骨何期墳墓地、人間到処有青山」
の結句である。私にはその構成も意味もチンプン漢文であるが、まぁ、
(拙大意)男たるもの志を立てていったん故郷を出るならば、
学問が成就しなかったときには故郷には帰らず死ぬ覚悟である。
骨を埋める場所はなにも墳墓に限ったことではない。
この世にはいたるところに木々が生い茂っててその下に骨を埋めれる
ような場所がいくらでもあることだ。
を試みてみたが、それほど外れてはいないであろう。もっとも、
強制わいせつの現行犯で戸っ塚まって島ったディレクターに、
この漢詩を英語に置換して「英語でしゃべらナイト」と言われても、
口をパックンとあけたまま釈由美子然としないにちがいない。ときに、
釈由美子嬢が所属する芸能プロの所在地渋谷区南平台町は、
岸信介や三木武夫の邸宅があった高級住宅地である。それはともかくも、
南平台町のすぐ近くには「道玄坂」がある。
青山(あおやま)から道玄坂を経て西へ向かう国道246(青山通り、玉川通り)は、
かつて、「大山(おおやま)街道」であった。現、神奈川県秦野市に在る
「大山阿夫利(あふり)神社」への道である。同神社の名は、
アフリ←アメフリ←雨降、という雨請いが由来だそうである。ともあれ、
赤坂見附→青山→道玄坂→三軒茶屋→二子の渡し→溝口→長津田、という大山街道ラインは、
江戸の鬼門の方角から裏鬼門の方角に下ってる道である。つまり、
大山への道は「鬼門封じ」、なのである。それはともかく、
伊勢原(現在の管轄的には秦野市)の「名古木(ながぬき)」で西北西上し、
大山に向かうのである。「伊勢原」の「伊勢」は、
伊勢国の伊勢と関係おおありであろう。すなわち、お伊勢信仰である。
「名古木」の「名古」は「名古屋」の「なご」と共通するのであろう。さて、
「道玄坂」の名の由来は、後北条氏に攻められて基盤を失った渋谷氏の一派、
和田氏のさらに支流大和田氏の道玄と称する者がそこに庵を編んで暮らした、
ということにあるらしい。それはともかく「道玄」の「玄」とは【黒】のことである。
いっぽう、「青山」という「地名」の由来は、家康が江戸で鷹狩りをしたとき、
随行してたのが秀忠の近侍青山忠成で、家康は忠成に馬でひとまわりしてきた範囲の
土地をお前に与える、と言ったという伝説があるそうである。元は「原宿村」だったのが、
「青山」になったのだそうである。が、これは「後附け」の噺ではないかと私は疑ってる。
あるいは、そこらへんが元々「墓=青山(せいざん)」だったのを糊塗するために、
わざわざ青山という名字の、倅秀忠の家臣を連れてったのである。
明治になってその名も「青山墓地」となった場所の南側は、
麻布笄町(あざぶこうがいちょう)という名であった。もともとは、
「甲賀伊賀町(こうがいがちょう)」だったという説があるが、だとしても、
おかしくない。「笄(こうがい)」とはカンザシのことである。
武士の刀の拵えになってるほど、武士の(死に臨んだおりの)身だしなみにとって
重要な道具である。そして、死したときにはいっしょに埋葬するものである。
いっぽう、忍者の武器のひとつが「かんざし」である。ちなみに、
こうがいの中に「吉丁(よしちょう)」というものがある。元来、
髪掻き用のものなので意匠は施されてない。でっかい耳かきみたいな形である。
これは御厨子所預の公家に生まれた高橋若狭守宗直(高橋図南)が、享保年間に
有職故実を研究して現在にもつながる日本髪をデザインし、
それに見合う簪や笄を開発した中のひとつである。そしてこれは、
吉原の遊女の髪飾りとして採り入れられた。歌麿の浮世絵に描かれてる遊女は
多くの吉丁を差してる。が、コトに及んだのち寝つくにあたってはこのこうがいは抜く。
これが転じて、かんざしを抜いた男にもらわれる→嫁入り、という
縁起物の象徴になった。現在の結婚式の日本髪(いわゆる文金高島田)には、
これに装飾を施した簪が差されるようになったが、本来は吉丁である。
吉原はもとは日本橋葭町(にほんばしよしちょう、現在の日本橋人形町)にあった。
それが明暦の大火後に千束に移転されたのである。それでも、
葭町という名もそのまま移され、それが芳町、吉町、という
目出度い字に置き換えられたりした。ともあれ、髪掻き附きこうがいは、
吉原の遊女が愛用するかんざしとして、芳町→芳丁→吉丁という連想から
そのような呼称となった。そして、
吉丁(よしちょう→きっちょう)と読み替えて→吉兆、と
髪掻き附きかんざしが目出度いことや縁起のいいことの
前ぶれの象徴とされたのである。それはともかくも、では、
なぜ、「あおやま」ちゃんをダシにしなければならなかったか?
風水である。実際、江戸の町は風水に適合した四神相応の土地にたったものである。
が、家康はそれだけでは安心できなかったのである。
江戸の町並は、道灌時代とは大きく違い、台地削り・埋め立てで様変わりさせた。
防衛都市を造るために、中心から右回りに貝構造(螺旋状とも言う)になってる。
大きな街道はすべて日本橋小伝馬町に集まるようにされ、
鉄砲の弾を射程距離まで届かせないように、道は小路構造、しかも、
曲げて配してるのである。が、偶然にも、以前から、四神の「お色」のうち、
3つが「正方形」の3頂点に位置してたのである。すなわち、
【赤】羽(橋)、【白】金、道【玄】。あと足りないのは【青】である。そして、
家康はもともと「青山(せいざん)」だった原宿に「青山(あおやま)」を配した、
のである。ただ、上記の四色配置は、正規の四神配置ではない。
90度、時計回りにまわした形なのである。が、それでいいのである。
徳川家は秀吉の血をひいた大名は残さなかったが、おねの血縁は、
小藩ながらも残してるのである。上記青赤白黒房スクエアの中心には、
足守(あしもり)藩の上屋敷が与えられた。現在、有栖川宮公園となってる脇の道は、
「木下坂(きのしたざか)」といい、その名が残ってる。
オバの「ワーズ・オヴ・ウィズダム」をきかずに関ヶ原で裏切って石田側について
改易されたおねの甥木下利房が、大阪の陣で誠意を見せてお情けでいただいたのが、
備中足守の領地2万5千石である。ちなみに、「木下」は本姓ではない。
杉原氏だったのを、秀吉の系統の「木下」を「賜った」のである。ときに、
足守はあの「大返し」で名を残す「備中高松」の「ご近所」である。秀吉は
「雨水」をもとにして、高松城を「水攻め」にしたのである。一説に、
光秀が天王山で敗れたのは、前日に梅雨による降雨で鉄砲隊が火縄を濡らす失態を
おかしたからであるという。また、足守には
八幡神応神天皇・武芸神神功皇后・軍神仲哀天皇を祀った葦守八幡宮がある。
以前の家来「池田氏」が大藩の主となってる岡山藩のお隣に置かれた恥辱をかみしめ、
明治まで存続させたサヴァイヴァル術には、帝国データバンク情報とともに、
小国ニッポンの行く末にとって、おおいに学ぶべきところがある。
郵政民営化は宗主米国様のご命令だから進めないわけにはいかないのである。
もとより、現宰相がその地位を得れたのも、同氏が米国の憲法を英語で
諳んじることができるくらいに同国に忠誠を誓った人物だからである。
日本はとっくに米国様のものなのである。日本国民がせっせと働いて収める税金は
諸国の経済援助に向けられてるばかりではない。
財政・貿易二重赤字帝国のドル支え、赤字国債お買いあげを律儀にさせられてるのである。
現宰相が退けば、増税が待ってる。そうしなければ「財源」はないからしかたない。
日本国民は米国様の奴隷としてしか生きてけない存在なのである。といって、
日本の左側に位置する諸国に頼る轍(ソ連に仲介を頼んだ愚)を踏むこともできぬ。
自ら核を持ち得ぬ身にされ、近隣からは憎まれるように、まんまと仕組まれてしまった以上は、
好むと好まざるとにかかわらず、米国様におすがりする選択肢しかないのである。
であるから、青いお札を差し出して米国に逆らった御仁の政治生命に未来はない、
ということである。
「人間・到処・有青山(じんかん・いたるところ・せいざんあり)」
これは、釈月性(しゃく・げっせい)という、幕末期の周防の坊さんが
見張りの漢詩の目をかいくぐって草刈りダンスしながら壁に落書きした七言絶句:
「男児立志出郷関、学若不成死不還、埋骨何期墳墓地、人間到処有青山」
の結句である。私にはその構成も意味もチンプン漢文であるが、まぁ、
(拙大意)男たるもの志を立てていったん故郷を出るならば、
学問が成就しなかったときには故郷には帰らず死ぬ覚悟である。
骨を埋める場所はなにも墳墓に限ったことではない。
この世にはいたるところに木々が生い茂っててその下に骨を埋めれる
ような場所がいくらでもあることだ。
を試みてみたが、それほど外れてはいないであろう。もっとも、
強制わいせつの現行犯で戸っ塚まって島ったディレクターに、
この漢詩を英語に置換して「英語でしゃべらナイト」と言われても、
口をパックンとあけたまま釈由美子然としないにちがいない。ときに、
釈由美子嬢が所属する芸能プロの所在地渋谷区南平台町は、
岸信介や三木武夫の邸宅があった高級住宅地である。それはともかくも、
南平台町のすぐ近くには「道玄坂」がある。
青山(あおやま)から道玄坂を経て西へ向かう国道246(青山通り、玉川通り)は、
かつて、「大山(おおやま)街道」であった。現、神奈川県秦野市に在る
「大山阿夫利(あふり)神社」への道である。同神社の名は、
アフリ←アメフリ←雨降、という雨請いが由来だそうである。ともあれ、
赤坂見附→青山→道玄坂→三軒茶屋→二子の渡し→溝口→長津田、という大山街道ラインは、
江戸の鬼門の方角から裏鬼門の方角に下ってる道である。つまり、
大山への道は「鬼門封じ」、なのである。それはともかく、
伊勢原(現在の管轄的には秦野市)の「名古木(ながぬき)」で西北西上し、
大山に向かうのである。「伊勢原」の「伊勢」は、
伊勢国の伊勢と関係おおありであろう。すなわち、お伊勢信仰である。
「名古木」の「名古」は「名古屋」の「なご」と共通するのであろう。さて、
「道玄坂」の名の由来は、後北条氏に攻められて基盤を失った渋谷氏の一派、
和田氏のさらに支流大和田氏の道玄と称する者がそこに庵を編んで暮らした、
ということにあるらしい。それはともかく「道玄」の「玄」とは【黒】のことである。
いっぽう、「青山」という「地名」の由来は、家康が江戸で鷹狩りをしたとき、
随行してたのが秀忠の近侍青山忠成で、家康は忠成に馬でひとまわりしてきた範囲の
土地をお前に与える、と言ったという伝説があるそうである。元は「原宿村」だったのが、
「青山」になったのだそうである。が、これは「後附け」の噺ではないかと私は疑ってる。
あるいは、そこらへんが元々「墓=青山(せいざん)」だったのを糊塗するために、
わざわざ青山という名字の、倅秀忠の家臣を連れてったのである。
明治になってその名も「青山墓地」となった場所の南側は、
麻布笄町(あざぶこうがいちょう)という名であった。もともとは、
「甲賀伊賀町(こうがいがちょう)」だったという説があるが、だとしても、
おかしくない。「笄(こうがい)」とはカンザシのことである。
武士の刀の拵えになってるほど、武士の(死に臨んだおりの)身だしなみにとって
重要な道具である。そして、死したときにはいっしょに埋葬するものである。
いっぽう、忍者の武器のひとつが「かんざし」である。ちなみに、
こうがいの中に「吉丁(よしちょう)」というものがある。元来、
髪掻き用のものなので意匠は施されてない。でっかい耳かきみたいな形である。
これは御厨子所預の公家に生まれた高橋若狭守宗直(高橋図南)が、享保年間に
有職故実を研究して現在にもつながる日本髪をデザインし、
それに見合う簪や笄を開発した中のひとつである。そしてこれは、
吉原の遊女の髪飾りとして採り入れられた。歌麿の浮世絵に描かれてる遊女は
多くの吉丁を差してる。が、コトに及んだのち寝つくにあたってはこのこうがいは抜く。
これが転じて、かんざしを抜いた男にもらわれる→嫁入り、という
縁起物の象徴になった。現在の結婚式の日本髪(いわゆる文金高島田)には、
これに装飾を施した簪が差されるようになったが、本来は吉丁である。
吉原はもとは日本橋葭町(にほんばしよしちょう、現在の日本橋人形町)にあった。
それが明暦の大火後に千束に移転されたのである。それでも、
葭町という名もそのまま移され、それが芳町、吉町、という
目出度い字に置き換えられたりした。ともあれ、髪掻き附きこうがいは、
吉原の遊女が愛用するかんざしとして、芳町→芳丁→吉丁という連想から
そのような呼称となった。そして、
吉丁(よしちょう→きっちょう)と読み替えて→吉兆、と
髪掻き附きかんざしが目出度いことや縁起のいいことの
前ぶれの象徴とされたのである。それはともかくも、では、
なぜ、「あおやま」ちゃんをダシにしなければならなかったか?
風水である。実際、江戸の町は風水に適合した四神相応の土地にたったものである。
が、家康はそれだけでは安心できなかったのである。
江戸の町並は、道灌時代とは大きく違い、台地削り・埋め立てで様変わりさせた。
防衛都市を造るために、中心から右回りに貝構造(螺旋状とも言う)になってる。
大きな街道はすべて日本橋小伝馬町に集まるようにされ、
鉄砲の弾を射程距離まで届かせないように、道は小路構造、しかも、
曲げて配してるのである。が、偶然にも、以前から、四神の「お色」のうち、
3つが「正方形」の3頂点に位置してたのである。すなわち、
【赤】羽(橋)、【白】金、道【玄】。あと足りないのは【青】である。そして、
家康はもともと「青山(せいざん)」だった原宿に「青山(あおやま)」を配した、
のである。ただ、上記の四色配置は、正規の四神配置ではない。
90度、時計回りにまわした形なのである。が、それでいいのである。
徳川家は秀吉の血をひいた大名は残さなかったが、おねの血縁は、
小藩ながらも残してるのである。上記青赤白黒房スクエアの中心には、
足守(あしもり)藩の上屋敷が与えられた。現在、有栖川宮公園となってる脇の道は、
「木下坂(きのしたざか)」といい、その名が残ってる。
オバの「ワーズ・オヴ・ウィズダム」をきかずに関ヶ原で裏切って石田側について
改易されたおねの甥木下利房が、大阪の陣で誠意を見せてお情けでいただいたのが、
備中足守の領地2万5千石である。ちなみに、「木下」は本姓ではない。
杉原氏だったのを、秀吉の系統の「木下」を「賜った」のである。ときに、
足守はあの「大返し」で名を残す「備中高松」の「ご近所」である。秀吉は
「雨水」をもとにして、高松城を「水攻め」にしたのである。一説に、
光秀が天王山で敗れたのは、前日に梅雨による降雨で鉄砲隊が火縄を濡らす失態を
おかしたからであるという。また、足守には
八幡神応神天皇・武芸神神功皇后・軍神仲哀天皇を祀った葦守八幡宮がある。
以前の家来「池田氏」が大藩の主となってる岡山藩のお隣に置かれた恥辱をかみしめ、
明治まで存続させたサヴァイヴァル術には、帝国データバンク情報とともに、
小国ニッポンの行く末にとって、おおいに学ぶべきところがある。
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