チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「若葉して、御目の雫、ぬぐはばや(芭蕉)/鑑真和上没後1250年にあたって」

2013年06月25日 15時48分59秒 | 歴史ーランド・邪図
昨日昼前、
東京メトロ銀座駅の地下改札コンコースから繋がってる塚本素山ビルの、
その地下2階倉庫でボヤがあった、と報道されてた。
地下1階の高級鮨店「すきやばし次郎」が
鰹のたたきの仕込みで使った藁をブリキ缶に入れて
地下2階の倉庫に置いたということである。
藁は自然に鎮火したものと思ってた、
と店側は説明したらしい。向かいにまだきしめん屋があった
群を抜いて旨い鮨屋だった。もちろん、
小野二郎の握りである。現在巷で人気の
「さいとう」「はしぐち」「青空(はるたか)」「水谷」など、
当時の「次郎」には足下にも烏賊のゲソにも及ばない。
味が落ちてからは私はもう通ってないが、そのあとでも
"ミシュラン3つ星"になったほどである(※)。ともあれ、
全盛時のこの店の鮨は"無形文化財産"といっても
過言でないほどだった。いっぽう、私は
"イコモス"などという"エセ権威"が大嫌いである。
わざわざ頼み込んで世界遺産として認めてもらうなど、
アホくさいことである。
三保の松原を加えるために文化庁長官が
各国代表に事前に理解してもらったことが
殊勲だったということが話題になってるようだが、
そこらへんの中小企業でさえ当たり前の
「根回し」がなされたにすぎない。

玄宗への根回しをきちんとしてなかったために日本への渡航が
幻想に終わるところだったが、その執念は並々ならず、
密航まがいで(遣唐副使大伴古麻呂が内緒で乗船させた)
渡航してきたのは、唐代の僧鑑真である。
本日、2013年6月25日は、
天平宝字7年5月6日(現行暦換算763年6月25日)に
鑑真が没してから1250年にあたる日である。

貞享5年(西暦およそ1688年)4月8日……
当時の暦とも異なるが、数字的には
釈迦入滅の日とされる日付……、
松尾芭蕉は唐招提寺に参詣した。

[招提寺鑑真和尚来朝の時、
船中七十餘度の難をしのぎたまひ御目のうち塩風吹入て、
終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、
【若葉して御めの雫ぬぐはゞや】]

唐招提寺の、かつては「開山堂」と言われてた
若葉繁れる本願殿に置かれてた(現在は御影堂に)
"盲目"の鑑真像を観て詠んだとされ、
「笈の小文」に収められてる。

「若葉」は「初夏」の「季語」である。
旧暦4月8日はたしかに初夏である。
失明して(とされる)光を感じれなかったため、
眼前の真偽を鑑みることができなかった
鑑真を不憫に思い、
太陽の光を充分に浴びてる若葉で、その
尊い目から流れるお涙を拭いてさしあげたい、
と芭蕉は詠んだのである。しかしまた、
失明のもっとも多い原因は緑内障である。
ボリショイバレエのイケメン芸術監督だったフィーリンは、
ツィスカリーゼ一派によって硫酸を顔面にブッカケられたという
例外である。ともあれ、緑内障は江戸時代には、
青底翳(あおそこひ)と呼ばれてた。緑内障は
眼球前面の房水が溜まって眼圧が高くなる場合が多い。
そうすると角膜が浮腫をきたし、瞳が
濁った緑(青)に見えることがある。
こうしたことをふまえて芭蕉は、
「(拙大意)その失明しはったた目の青い濁りを、
この新緑の若葉で吸いとってさしあげて、
視力を取り戻しはっていただきたいことです」
と詠んだ可能性がある。あるいは、
その若葉というのはメグスリノキが植わってて、
その青葉が鮮やかだったのかもしれない。
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