一昨日、京都の知人から電話がかかってきた。
ここのところ、京都は暖かいと言ってた。それが、
東にも移ってきたようで、東京も暖かい。が、
暖冬というわけでもない。
弾頭も飛び交ってるのではないかという、イスラーム
教徒がほとんどの国、
社会主義人民なんとか大リビア国は、
私が小学校低学年の頃は、
リビア王国と地図に書いてあった。首都が、
トリポリとベンガジの複都制だった。トセイといっても、
北朝鮮の味方美濃部と世界都市博中止だけが取り柄の
青島都政とは違う。それはともかく、
リビアの王制が終わったのは、
いわゆる「カダフィー大佐」のナセル業である。
カダフィーはイスラームの言葉では、
カッザーフィーというような音が近いらしい。が、
カダフィー大佐と松鶴家千とせ師匠の顔の違いを判別できない
拙脳なる私にはきちんと発音できない。
ヴィオレッタがTra voi(トラ・ヴォーイ)だった頃、
アルフレードはLibiamo(リビアーモ)だった。
父ちゃんが胸焼けで、母ちゃんの声は酒焼けだった。
オイラの脳はふやけてて、重量挙げの兄弟は三宅だった。
わっかるっかなぁー、わっかんねぇだろなぁー。
イエィ!
「日本書紀」の巻6、垂仁天皇の25年3月の記にこうある。
崇神天皇から天照大神の祭祀を託されてた
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)から
倭姫命(やまとひめのみこと、垂仁天皇の第4女)が
その御役を引き継がされた。倭姫命はまず、
【菟田(うだ)】の篠幡(ささはた)に祀った。が、
そこからひきかえしてまた近江国に入って、
美濃を廻り、そして伊勢国に至った、と。そして、
天照大神は伊勢が気に入ったとの御意だった。そこで、
倭姫命は祠を建てた。五十鈴川のほとりに
斎の宮も設けた。これが、
神宮(内宮)の起源ということである。
6世紀の用明天皇のときに斎宮は途絶えた。ちなみに、
【磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)】が
用明帝の宮とされてる。ともあれ、
7世紀の天武天皇(天皇という呼称は天武帝が最初だという)が
斎宮制度を復活させた。それが、
大来皇女(おおくのひめみこ、持統天皇の同母姉大田皇女の娘)であり、
大津皇子の同母弟である。
神宮(伊勢)で行われる式年遷宮は、20年ごとに、
内宮と外宮正殿、および14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷し、
宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿などの65棟の殿舎、
装束に神宝、宇治橋なども造り替える、という大がかりなものである。
前回の遷宮は、チャイコフスキー没後100年に湧いた
平成5年(1993年)の第61回であり、今度の遷宮は、
再来年の平成25年(2013年)である。この式年遷宮の第1回は、
持統天皇4年(およそ690年)=内宮、同6年=外宮である。一説には、
天武天皇によって始めることが決められてたとされてる。
が、
なぜ「20年」なのか、ということは、
どの学者も誰も正解を言い得てない。ところで、
ニュー・ズィーランドのクライストチャーチでのこのたびの地震で、
大聖堂が崩壊したという。築100年以上だという。そして、
その他崩壊した建物のほとんどは、
1970年以前に建築されたものだという。
日本人用語学学校も1960年代に建てられたらしい。
式年遷宮が20年というのは、プレイト上の島国としては
妥当な年数だったのかもしれない。が、私には
ハタと思い当たるふしがある。実は
「秦氏」と関係があるのではないかと私はにらんでるのである。
♪やぁーまぁーのハタけぇーの、
クワのぉー実ぃーをぉーーー♪
私の先祖は諏訪氏であるが、その紋所でもある
梶(の葉)はクワ科である。
梶は鍛冶と同源ではないかと。
桑と鍬。
Quoi?
ここのところ、京都は暖かいと言ってた。それが、
東にも移ってきたようで、東京も暖かい。が、
暖冬というわけでもない。
弾頭も飛び交ってるのではないかという、イスラーム
教徒がほとんどの国、
社会主義人民なんとか大リビア国は、
私が小学校低学年の頃は、
リビア王国と地図に書いてあった。首都が、
トリポリとベンガジの複都制だった。トセイといっても、
北朝鮮の味方美濃部と世界都市博中止だけが取り柄の
青島都政とは違う。それはともかく、
リビアの王制が終わったのは、
いわゆる「カダフィー大佐」のナセル業である。
カダフィーはイスラームの言葉では、
カッザーフィーというような音が近いらしい。が、
カダフィー大佐と松鶴家千とせ師匠の顔の違いを判別できない
拙脳なる私にはきちんと発音できない。
ヴィオレッタがTra voi(トラ・ヴォーイ)だった頃、
アルフレードはLibiamo(リビアーモ)だった。
父ちゃんが胸焼けで、母ちゃんの声は酒焼けだった。
オイラの脳はふやけてて、重量挙げの兄弟は三宅だった。
わっかるっかなぁー、わっかんねぇだろなぁー。
イエィ!
「日本書紀」の巻6、垂仁天皇の25年3月の記にこうある。
崇神天皇から天照大神の祭祀を託されてた
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)から
倭姫命(やまとひめのみこと、垂仁天皇の第4女)が
その御役を引き継がされた。倭姫命はまず、
【菟田(うだ)】の篠幡(ささはた)に祀った。が、
そこからひきかえしてまた近江国に入って、
美濃を廻り、そして伊勢国に至った、と。そして、
天照大神は伊勢が気に入ったとの御意だった。そこで、
倭姫命は祠を建てた。五十鈴川のほとりに
斎の宮も設けた。これが、
神宮(内宮)の起源ということである。
6世紀の用明天皇のときに斎宮は途絶えた。ちなみに、
【磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)】が
用明帝の宮とされてる。ともあれ、
7世紀の天武天皇(天皇という呼称は天武帝が最初だという)が
斎宮制度を復活させた。それが、
大来皇女(おおくのひめみこ、持統天皇の同母姉大田皇女の娘)であり、
大津皇子の同母弟である。
神宮(伊勢)で行われる式年遷宮は、20年ごとに、
内宮と外宮正殿、および14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷し、
宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿などの65棟の殿舎、
装束に神宝、宇治橋なども造り替える、という大がかりなものである。
前回の遷宮は、チャイコフスキー没後100年に湧いた
平成5年(1993年)の第61回であり、今度の遷宮は、
再来年の平成25年(2013年)である。この式年遷宮の第1回は、
持統天皇4年(およそ690年)=内宮、同6年=外宮である。一説には、
天武天皇によって始めることが決められてたとされてる。
が、
なぜ「20年」なのか、ということは、
どの学者も誰も正解を言い得てない。ところで、
ニュー・ズィーランドのクライストチャーチでのこのたびの地震で、
大聖堂が崩壊したという。築100年以上だという。そして、
その他崩壊した建物のほとんどは、
1970年以前に建築されたものだという。
日本人用語学学校も1960年代に建てられたらしい。
式年遷宮が20年というのは、プレイト上の島国としては
妥当な年数だったのかもしれない。が、私には
ハタと思い当たるふしがある。実は
「秦氏」と関係があるのではないかと私はにらんでるのである。
♪やぁーまぁーのハタけぇーの、
クワのぉー実ぃーをぉーーー♪
私の先祖は諏訪氏であるが、その紋所でもある
梶(の葉)はクワ科である。
梶は鍛冶と同源ではないかと。
桑と鍬。
Quoi?
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