チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「待(マチ)・街(ガイ)だらけの忠臣蔵(侍)」

2009年03月19日 17時09分23秒 | 歴史ーランド・邪図
現在の建物が来年で取り壊されるので、歌舞伎座はいま
「さよなら公演」を立て続けにやってる。今月は、
「元禄忠臣蔵」である。しかも、(夜の部だが)
「南部坂雪の別れ」「仙石屋敷」「大石最後の一日」
と内蔵助(仮名手本でないので由良助ではない)を
それぞれ幕ごとに、
団十郎、仁左衛門、幸四郎、
が演じる、という豪華3本立て。とくに、団十郎は……
見逃してはならない公演である。
ということで、観にいってきた。実際、
三者三様、みな迫真だった。その他、
我當、梅玉、福助、などもよかった。が、やはり、
団十郎は格別だった。といっても、
隣りのご婦人に指摘されるまで、私はそれが
杉良太郎だと思ってたほどの無知・拙脳である。ときに、
かつては合コンなどで、
「歌舞伎に興味あるんです」
「一度、歌舞伎、観てみたいと思ってたんです」
なんて女子大生さんやOLさんがいたりすると、
合コン仲間が「あいつ、詳しいよ」などと
偽りの情報ながら私にふってくれてたので、
歌舞キザなセリフのひとつも思いつかないながら誘うと、
タダで歌舞伎が観れる彼女らはふたつ返事だったものである。
ペア席になってる1階桟敷席に
連れてってあげたりもしてた。が、最近は
合コンもとんとご無沙汰である。いまでも、
たまには歌舞伎を観たいと思うのだが、
桟敷席が好きな私は、おっさん一人で観ることになる。
今回も見知らぬ妙齢の上品な「無臭な」ご婦人と
「ご相席」させていただいた。よかった、
きついパルファンをプンプンさせたホステスさんでなくて。

さて、「忠臣蔵」という「お噺」はじつに
よくできた芝居である。事実や時代考証からは
まったく乖離したものながら、
「武士」というものの本質……本音と建て前、
支配階層としての矜持と卑怯さ、をよく表してる、と、
一般に認識されてる。そして、今日、一般的な日本人が、
サムライとはこのように厳しくまた潔いものなのか、
と感心し誇り、その琴線に触れる
できすぎた作品に仕上がってる。
武士階級がなくなってから、武士というものを
知らない家に生まれた藤沢周平が描く
「非武士階層から見た理想の武士像」と
似たようなものである。
大石がその機を「待ち」、
他の浪士らが江戸の「街」に潜伏し、
臥薪嘗胆、主君の無念を晴らす一念で生きた
21か月……彼らの心意気・辛苦、そして本懐を遂げ、
桜のように潔く散ってった「義士」に庶民は感じ入り、
涙するのである。そんな庶民は、歌舞伎の上演中でも、
平気で遅れて客席に入ってきたり、しょっちゅう
ガサガサ・ザワザワと大きな雑音を立てる。
武家の者には考えれない所作である。

江戸時代も100年も経てば、綱吉の
「動物愛護政策」も手伝って、
戦国の荒々しい気風は失せてたことだろう。
人を餌として噛みつく犬から小さな子を守るために
その犬を撲殺することもなくなった。そういう意味では、
綱吉は300年も進んだ政治家だったのである。ともあれ、
戦のない社会が続き、武士は官僚となった。が、
そうなると、非武士階級は武家をバカにするようになる。
「斬り捨て御免」などとは実際は現在の人が抱いてる
イメージとは違う。現在の自衛隊といっしょで、
武士は刀などおいそれとは抜けないのである。
対非武士階層は言うにおよばず、たとえば、武家同士、
道ですれ違いざまに刀が触れたといって諍いが起きて、
もし刀を抜いたら、それでお終いである。
相手を斬っても後日切腹、お家の存続も危うい。
斬られたらそこでお終い、お家の存続もこれまた危うい。
相手が抜いて自分が抜かなかったら、弱虫、
武士の名折れとしてただ笑い者になるだけではない。
家名(自分が仕えてる藩の名誉)を傷つけることになる、つまり、
背任行為である。双方、抜けないのである。
触れたら、それが周囲に気づかれたら、引っ込みはつかない。
自分一人の問題ではない。「家」の存続に関わるのである。
家族だけでなく、奉公人の生活にまで影響する。
そのためには刀が触れない注意を
充分に払わなければならない。
武士は左側通行を厳格に守るし、刀の先が大きく
横に飛び出すように腰に挿すようなことはしない。すると、
自然に、結果として「行儀や道徳」が良くなる、のである。
体どうしが触れたりぶつかっても実害がなく、また、
「家」など背負ってない庶民には、そんなことは
あてはまらないし、また、遠くおよびもつかない。
自然に、礼儀は身に付かなくなる。だから、
武士は相身互い、武士の情け、なのである。ともあれ、
庶民が武家を畏れ多いと感じなくなった元禄では、
武家政権を世論的に支えるための「イヴェント」が必要だった。
それが「赤穂事件」である。

「赤穂事件」は柳澤吉保が絵を描いた、のかもしれない。
「ああ、やっぱり、お武家さまってぇのはすげぇぜ」
と庶民を納得させ、従順にさせるに足りるように。まず、
伏線として、伊達政宗は浅野長政に対して、
強烈な恨みを持ってた、という、格好の素地があった。
政宗は長政に絶交状まで渡してる。以後、
伊達家と浅野家は「不通」、つまり、絶縁状態である。
その関係は江戸時代を通じて変わらなかった。
武士とは、武家とは、そういうものである。
親父の時代のことだから、とか、
先祖が何かあったとしても私たちは、などというのは、
庶民の感覚である。それはどうでも、
武家どうしの最後の戦であった大阪の陣のとき、
当時、和歌山を拝領してた浅野家は、
徳川方にとってもっとも苦しめられることになる、
真田信繁を配流地の九度山からみすみす脱走させた。
夏の陣の最前線ともいえる対真田にあたった
越前松平家と伊達家は内匠頭の曾祖父浅野長重隊が
足手まといになり多大な犠牲を強いられ、それでも
最大の功労をあげた。いっぽう、
浅野本家は軟弱な大野勢との対戦だったのである。
陣後、越前松平家当主忠直の弟忠昌が、
越後高田25万石に封ぜられる。が、同時に
浅野本家幸長の娘との婚姻がなった。そして、
そのあたりから、「忠直卿の行状」が
おかしくなってくのである。
(浅野ごときの女を越前松平家にあてがいやがって)
大坂の陣の最大功労者忠直にとって、
とても耐えれない屈辱だったのだろう。ところで、
越前松平家は「徳川」ではないが、
将軍家の兄筋の家である。だから、
御三家同様に、附家老が置かれた。その一家が、
本多孫太郎富正である。将軍家にとっては陪臣ながら、
越前武生に領地を与えられ、参勤交代も課せられた。
江戸屋敷は無縁寺=回向院隣りの
本所松坂町である。そして、
「生涯に一度ならず二度までも」という
「偶然」の「仇討ち人生」を送ることになる
中山安兵衛はその本多家の重臣の子、
という説がある。いずれにせよ、母は、
堀部弥兵衛金丸の妻の妹である。そして、
弥兵衛の妻姉妹は本多孫太郎の重臣の娘なのである。

いっぽう、柳澤吉保は、
武田の旧臣の家系である。旧主筋である
武田家の信興が幕府に召し出されて
甲斐八代に500石を与えられ旗本に列したのは、
元禄13年12月のことである。武田家は格別に
高家(目付支配でなく老中支配の格上旗本)
とされた。そして、
浅野長矩が殿中で「高家肝煎」吉良義央に
刃傷沙汰を起こしたとされてるのが、
そのたった3か月後の
翌元禄14年3月なのである。
柳澤にとって吉良は邪魔以外の何者でもない。また、
吉良は徳川家にとっても憎っくき今川の同門、
足利である。足利の代わりは喜連川がいるし、
高家の代わりは、武田がいるのである。かたや、
吉良の倅が嗣いだ上杉の領地米沢は、
伊達家が長年にわたって本拠としてきた地である。
上杉は家康の「勝ちが決まってたもののような」
関ヶ原の口実を作る端緒となった家である。
徳川が滅びて天下を獲ることを願ってた伊達にとって、
邪魔くさいことをしやがった家である。この機に、
あわよくば上杉まで巻き込む大騒動にでもなれば、
意趣返しができるというものである。接待役で、
浅野の分家筋である内匠頭の相役に充てられたのは、
伊達の分家筋である伊予吉田伊達右京亮である。
本家どうしが絶縁してるものどうしである。
内匠頭が地べたで切腹させられた
田村家は伊達家の支藩同様の家である。つまり、
右京太夫は政宗の孫なのである。

本所松坂町に移された吉良邸のすぐ隣家の主は、
土屋主税と本多孫太郎。前者は、
事件時の老中土屋政直の本家筋の旗本である。ちなみに、
大老堀田正俊が従兄弟の若年寄稲葉正休に刺殺され、
正休自身もその場にいた老中らに即座に
「なますのように」斬り刻まれて死んだ事件が、
17年前に起きてる。が、これが柳澤吉保にとって
「浅野の殿中刃傷」の「参考」とされた、
のではないかと私は考える。また、
稲葉正休の正室は、土屋政直の妹。そして、
この土屋家は、祖をたどれば、
越前松平家の重臣なのである。
元禄の頃も江戸の「街」は「火事」に備えて、
火の見櫓が各所にあった。本所の本多家にも
火の見櫓があった。当夜も、当然、
寝ずの番をしてたはずである。何かあったらと、
「待ち」構えてなくてはならないのである。
すぐ隣りの吉良邸の表と裏に、そこまで、
木戸を避け、掘を渡航してきたという
四十数名の浪士らも、すぐに目に止まる。
彼らが討ち入る、というのはすでに
江戸庶民の知るところだった。ただ、
それが「いつ」のことであるか、だけが、
不明だったのである。といっても、
内匠頭の命日である14日深夜から翌日未明なら、
15日は在府大名の登城日。
隊列前を通れば、後日「仕官のアピールになる」と
安兵衛なんかにそそのかされた浪士も
納得の日程だったことだろう。庶民も
百も承知だったのである。実際、
吉良邸の周りには当夜、野次馬が集まったという。
つまり、幕府も庶民も彼らが
「討ち入り」することを黙認あるいは期待してた、
ということなのである。

ちなみに、赤穂のかたには申しわけないが、
赤穂はその言葉がにっぽんいち汚い言葉、
という一面も持ってる。
無垢でないお嬢さんのほっぺでさえ
赤頬になるほどらしい。

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