チャイコフスキー フィレンツェの思い出
音友社の「作曲家別名曲解説ライブラリー/チャイコフスキーの巻」とか、
ほとんどそれを流用してる某ウェブサイト、そして、CDの解説文などには、
「各パートがユニゾンもしくはオクターヴで動くことが多い」
「イタリア的でなく、むしろロシア的であり、しかも、
土俗的なロシアふうの旋律すら用いられてる」
「『フィレンツェの思い出』というタイトルは、そこに滞在中に着想されたこと
以外に、フェレンツェはおろかイタリアとの関わりはまったくない。
タイトルが附けられたのは改訂後であり、作品発表の便宜上からであろう」
などと、金太郎飴のように紋切り型の講釈が並べられてる。
ボンクラとは、bon(すばらしい)・cla(クラシック音楽愛好家)ssique、
という意味である。「(オクターヴ違いもふくめた)ユニゾンで動く」箇所は、
たいして多くはない。また、そうしてる箇所は、
それが「埋もれてしまわないため」の措置であることは、
少しでも音楽心がある者になら、すぐにわかる。そして、全体をとおして、
じつにイタリアふうな音楽である。ロシアっぽさなど微塵もない。
さて、1890年のはじめの2箇月半弱、すなわち、
露暦1月18日(現行暦換算1月30日)乃至露暦3月27日(現行暦換算4月8日)、
……1890年当時のユリウス露暦と現行グレゴリオ暦の「ズレ」は「12日」……
「スペードの女王」制作のために「篭った」フィレンツェである。「弦6」は、
「スペ女王」のオーケストレーションが完成した6月に本格的にとりかかり、9月に完成。
1891年末乃至1892年初頭に改訂した。
この初稿と再稿の間、ママとおんなじ名の妹の死、
♪フィオレ・ママぁになろぉ~~ぅ、弱酸性(pH「6」くらいか?)、フィオ~レ♪
や、渡米(カーネギーホールこけら落とし自作指揮招待)を体験してる。
そして、初稿完成直後、メック夫人から資金援助断絶の手紙が来るのである。その1週間後、
チャイコフスキーはすばやくも遺言を作成する。
モノノホンなどには、改訂したのは3、4楽章、などと、やはりどれもこれも
「写した」かのように「おなじ」に書いてあるが、
お直ししたのは「すべての楽章」である。とりわけ、
3、4楽章のお直しが「主だったもの」だった、というだけである。さて、
フィレンツェ、といえば、メーディチ家、である。
松戸を「スグヤル課」で治めたマツキヨ元祖松本清市長よりスケールはデッカいが、
元はおんなじクスリ屋である。そのうち、松本家からもローマ法皇を輩出するにちがいない。
その「家紋」は「6ピルズ=セイ・パッレ」である。2箇月強もフェレンツェにいれば、
いやでも「この紋所が目に入らぬか!?」というくらい目にタコができる。
チャイコフスキーには、「フィレンツェ」→「6」というイメージがすり込まれてた、
ということなのである。だから、夫人からの支えで死なずにすんだ
「フィレンツェの思い出」は、「六重奏」でなければならないのである。ちなみに、
金沢前田家の支藩である富山藩前田家の家紋は本家とおなじ「ウメバチ」であるが、
5枚花びら玉なので「ウメディチ」でもなければ、富山のクスリ売りでもない。それはともかく、
メーディチの6玉が、のちに、そのうちのひとつを「百合」に置換したり、
6玉に加えて「百合玉」があわセッテ7つあるようなのになったのは、
ヴァロワ朝フランス王家に女子を嫁がせて資金援助した「ご褒美」に恩賜されたものである。
ついでながら、ブルボン朝の開祖アンリ4世がマルゴーと離婚して2番めの妃となったのは、
傍系統のトスカーナ大公メーディチ家出身のマリー・ドゥ・メディスィスである。
婚姻のとき、辛抱たまらなかった新郎が、馬をとばして新婦の寝所にやってきて、
「朕は早く会いたくて馬を駆ってやってきたが、
あいにく自分用のベッドは持ってこれなかったゆえ、そちのベッドへ……」
という故事モ、1世尾形の孫噺も、今に伝えられてる。それらはともかくも、
チャイコフスキーの「弦六」は、体力衰えてコンサートを聴きにいけなくなった
メック夫人のために着想されたものである。
メック夫人とフィレンツェといえば、
1878年2月末から(現行暦換算)の半月間の滞在と
そのときに夫人に書いた「4番交」の「解説」である。「4番交」が
「我が親愛なる友へ」捧げられたものであり、それが夫人を指すことは明白である。
そして、同年12月(現行暦換算)に1箇月弱、またフィレンツェに滞在してる。
このときは、夫人がコッリ大通りに面した高級ホテルのスイートを借りてあげてるのだが、
そこは夫人所有の豪華別荘のすぐ近くだった由。けっして会わない、というふたりが、
ニアミスを愉しんだかどうかは知らないが、この滞在の間、チャイコフスキーは
オペラ「オルレアンの娘」の構想を夫人に書き送ってるのである。
同オペラはジャンヌがジローラモ・サヴォナローラ同様、
火あぶりにされて幕となるのであるが、
絞首刑にされて、さらに火刑にされた、というサヴォナローラは、
ナボナがお菓子のホームラン王なら、処刑の二冠王である。
それはともかくも、「オルレアンの娘」のラストシーンの調性は
「ニ短」である。モーツァルトの「死の調性」であり、
「フィレンツェの思い出」の主調である。
この六重奏がフィレンツェとはなんの関わりもない、とは、ものスゴいセンスである。
これを聴いて(ロシア的な節)というむきに、チャイコフスキーはどだい無理なのである。
またまた、おおいに参考にしたんでしょ。
ともあれ、アプロウチ、あとがとう。
道理を知らない稚拙なコメントも削除しないであげましょう。
敵意があっても内容に対する書き込みならOKです。よろしかったらまたどうぞ。