チャイコフスキー 悲愴
♪【ミーーー】・>レー>ドー・>シーー>ラ|<(ド>)シーーー・ーーーー・ーー●●♪
という主主題がベートーフェンの「英雄交響曲」の葬送行進曲から採られてることは、
以前にこのブログで述べた。そして、その【緒音】が(ロ短の)
【「fis(ミ)」>「h(ラ)」>「gis(♯ファ)」>「d(ド)」】
という【(ロ短の)主和音(ラ、ド、ミ)に第「6」音(♯ファ)が附加】された、
とか説明されることもあるが、トニカくこれが、
【トリスタン・コード】であることもすでにどこかで書いた。それから、
最後のさいごで、4分割されたチェロが2度スフォルツァンドで弦を擦る、
【「cis」<「e」<「g」<「h」】が
【トリスタン・コード】であることもすでに触れた。さて、
今回はさらに進んで、この終章の「主主題呈示部しまい」から見てみることにする。
ファゴットが下降してく箇所である。そこで、
弦は「e」「g」、ホルンは「h」、と、
ロ短の下属和音「レ(<)ファ(<)ラ」を形成する。
そこに、ファゴットの下降:(モルト・エスプレッスィーヴォ)
♪ミーーー・>レーーー・ーーー>ド|ドーーー・>【シーーー・ーー】ー>ラ|
ラーー>ソ・ソーー>ファ・ファーー>ミ|ミーー>レ・レーー>ド・ドーー>【シ|
シーーー】・<ド>【シ】>♯ラ<【シ】・<レーー>ド|
>【シーーー】・*ーーーー・**ーーーー|ーーーー・ーーーー・ーー●●♪
【】内の箇所が【トリスタン・コード】になってるのである。ところで、
*ではホルンが半音下降して「b」に降りるために全体は「減7」にヘンゲし、
**ではホルンがさらに半音下降して「a」に降りるために全体はニ長の「属7」に切り替わる。
さて、曲は鎮まり、アンダーンテの対主題部に移る。
悲愴交響曲終章対主題(ニ長):
♪ドーーー|ドーーー・>シーーー・>ラーーー|>ソーーー・ーーーー、
<ドーーー|ドーーー・>シーーー・>ラーーー|>ソーーー・ーーーー♪
チャイコフスキーお得意の「♪ド>シ>ラ>ソ♪動機」である。
cf:「1番交響曲」緩徐章、「4番交響曲」カンツォネッタ章・スケルツォ章・終章、
「くるみ割り人形」茶の踊り。
この主題は、ホルン2管のオクターヴ・ユニゾンによる
スィンコペイティドな「持続属音」に導かれて登場する。「ニ長」の属音であるから、
「a」である。そして、このホルンのシンコペ律動は、
「タ・ター、タ・ター、タ・ター」、つまり、モース信号における
「a」(短音→長音)なのである。そして、この章は(4分の)3拍子である。
「a」レクサーンドラ・「a」ンドレーエヴナ・「a」ッスィエール。
チャイコフスキーの母親の結婚前の名である。ところで、
この主題をオクターヴ・ユニゾンで奏でるvnプリーモとヴィオーラには、
「con lenezza e devozione
(コン・レネッツァ・エ・デヴォツィオーネ)」
という発想標語が御触書されてるのである。私はイタリア語もできないが、
モノノホンによると、「con(コン)」は「こめて」、
「lenezza(レネッツァ)」は「柔和さ」、
「e(エ)」は「と(and)」、
「devozione(デヴォツィオーネ)」は「敬虔さ」、
なのだそうである。私は無学なのでその逐次訳語をにわかには理解できなかったが、
つらつら考えてみるに、
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「聖母」の「表情」、
なのではないかと思うようになった。「イエス」を
「慈し」み、「献身的な愛情」で見つめるマリアさまのお顔である。それは、
現実に、実在の人物にみたことがあるような気がする、と思い当たるかたもいることだろう。
「皇后陛下」、そして「秋篠宮妃殿下」の尊顔である。他のどこの王家にも、
あれほどの慈愛に満ちたお顔をなさってる女性は存在しない。それはともかくも、
チャイコフスキーにとっては、母アレクサーンドラの優しい顔なのである。つまり、
チャイコフスキーはこの対主題を母のイコンとして描いた、のである。
亡き母を思い出して、その幻影と踊るスロウ・ワルツなのである。
「母と子」、「愛と死」なのである。さて、あらためて、
悲愴交響曲終章対主題を彩る他のパートを見てみる。
クラリネット2管とファゴット2管がそれぞれオクターヴ・ユニゾンで吹くのが、
♪ミーーー|<ファーーー・ーーーー・>シーーー|<ドーーー・ーーーー、
<ソーーー|>ファーーー・ーーーー・>シーーー|<ドーーー・ーーーー♪
(コン・エスプレッスィョーネ)である。そして、低弦がオクターヴ・ユニゾンで、
♪ドーーー|<レーーー・ーーーー・<ファーーー|ファーーー・>ミーーー
>♭ミーーー|>レーーー・ーーーー・<ファーーー|ファーーー・>ミーーー♪
と、対主題を支えるのである。が、曲想は一転、
「アンダーンテ」に「ポーコ・アニマンド」が「かけられ」る。
♪【ミーーー】|ミーーー・>レーーー、<【ファーーー|ファーーー】・>ミーーー、
<ソーーー|ソーーー・>ファーーー・>ラーーー|(リテヌート)<レーーー・ーーーー♪
♪keenいぃ~~>ろぉ~、<ぎぃ~んいぃ~~>ろぉ~、
<もぉ~もいぃ~~~>ろぉっ、>とぉ~~>いきぃ~♪
ヘドロ&カブレシャスとかいったような名のグループでかつてソロをやってた
高橋真梨子女史が歌うギリシアの海色ワインのバルバロイな味の
「桃色吐息」(大作曲家佐藤隆大先生作曲)にも採られた節である。それはどうでも、
この主題は4分の5拍子の「いびつ」なワルツの中部の主題として先駆されてるが、
この主題が短化されたすすり泣きの最後でも、
♪ミーーー|ミーーー・>レーーー、>ドーーー|ドーーー・>シーーー♪
と繰り返されるのである。それはともかく、
真のチャイコフスキー好きならば、ここで
「身をきられる」ほど「痛々しい」ほど「せつな」く感じられることと思うが、
それは、♪【ミーーー】|ミーーー・>レーーー♪の【】の箇所、
vnプリーモ+ヴィオーラの「fis(ミ)」、
クラリネット+ファゴットの「c(♭シ)」、
切分ホルンの「a(ソ)」、そして、
チェロ+コントラバスの「e(レ)」、
が形成する和音が【トリスタン・コード】だからである。同様に、
♪【ファーーー|ファーーー】・>ミーーー♪の【】の箇所、
vnプリーモ+ヴィオーラの「g(ファ)」、
クラリネット+ファゴットの「e(レ)」、
切分ホルンの「h(ラ)」、そして、
チェロ+コントラバスの「cis(シ)」、
が形成する和音も【トリスタン・コード】だからなのである。これで、
チャイコフスキーが「悲愴交響曲」を作曲するにあたって何を考えてたか解らない、
というのはよほどのボンクラである。
「アンダンテで演奏する原典版は感傷を廃し」などとはお笑いぐさである。
「con lenezza e devozione」。
我が身はどんなに「汚い(messy)」身なりでも子にはきれいな服を着せ、
自身はどれほど飢えてても我が子には「メシ」を充分に与え、
深い「滅私」の愛情でいつくしんでくれた母を思う気持ちに打たれないヒトは
ホモ・サピエンスではない。
『白鳥』にしても、母子間の愛情表現についてもっとクローズアップされねばなりません。
母の調ハ長調とオデットの調イ短調が同根のものであるというチャイコフスキーの仕掛けは、はなはだ奥が深いように感じます。
マシュー・ボーンも彼の『男の白鳥』で母子関係を大きく扱っていますが、筋書きがよく分からないけど、どうもああいったものとは別のような気がしますね。
女の武器(肉体)を駆使して生きてたのですが、お肉のことを
カルネ(carne)というのだそうです。カルビではありません。
同小節は、その末尾に尻尾の「t」を附ければ
フランス語の「手帖(carnet)」になる、という説話だそうです。
青学に通ってるキャバクラ嬢のおねえさんから教えてもらったことですが、
母の日の由来は、米国の宣教師の娘が、
母が亡くなっていつまでもメソメソジストしてないで、
白いカーネイション(肉体の代わり)を故人に見立てて、肉体は滅んでも魂は、
生きてる私たちと常にある、という精神を広めようとして設立したものだそうです。
彼らは英国からの移民ですが、移住するまでの英国では、
復活祭の40日前の日曜日が「マダリング・サンデイ(藪入り)」とされてて、つまりは、
「カーニヴァル(carnival)」を挟んでる、
というダジャレで「カーネイション(carnaion)」だったのですよ、
解カルネ? と、私だけがその説を唱える運動を行ってます(※国滅相ジスト派)。
<『白鳥』にしても、母子間の愛情表現について
もっとクローズアップされねばなりません>
▲やすのぶさんがおっしゃるように、「白鳥湖」が
「ジークフリートの心理劇」だとすれば、
オデットに対する男女間の愛も、王妃との母子間の愛も、
ともに「世継ぎ」「家系存続」という大問題の「両輪」ですね。が、
<母子間の愛情表現についてもっとクローズアップされねばな>らない、
とは私は思いません。演奏も演出も、
「過多」肘張りすぎたものは本来の姿を見失いやすいですから。
<マシュー・ボーンも彼の『男の白鳥』で>
▲「破棄した」ものを「未完に終わった」と曲げ、
「補筆完成させた」とうそぶく「はき」違えた者どもと、
それをありがたがる者どもにも困りものですが、
マシュー・「bourne」のような輩も、
必ずといっていいほどなんとかのひとつ覚えのごとく、
チャイコフスキーの各作品をその男色と結びつけた”演出”をしますが、
「小川で区切られた境界」のことだけを訴えたいだけのように思えます。
ようするに、「ホモであるチャイコフスキーという看板」の威を借る
foxy一刀流おタママタが池のviva駄作ということです。
<母の調ハ長調とオデットの調イ短調が>
▲ここらへんが、やすのぶさんのお話について私が解からないことのひとつです。
常々、「白鳥湖」の調性は「ジークフリートの心理」の反映、
とおっしゃってるにもかかわらず、
各キャラ特有の調を確定なさる矛盾は、
どうにも不可思議なのです。私は
やすのぶさんの、調性は「ジークフリートの心理」の反映、
というお考えに強く惹かれるのです。こうは換言できないでしょうか。
「母がハ長」のときと「オデットがイ短」のときは、
それぞれジークフリートが相手に感じる心象が同一の「調号0」である、と。
だから、トリスタン和音という名前をこの和音に与えることに何ら異議はありません。
異論があるとすれば、その和音の使用のゆえに、内容的にトリスタンの物語との関連を云々することに対してでしょう。トリスタンの物語との関連を取り上げるのなら、他の重要な要素を持ち出して来ることが先で、トリスタン和音は、その裏づけとして例示するという論法が良い様に僕には思えます。
トリスタン和音は、ヴァーグナーが発明したものではありません。くねくねといつまでたっても真の解決に至らないトリスタン和声の一環として使われているものです。そういう意味で画期的なのですね。
では、この和音の構造は一体どうなっているのか?
そのためにはまず、完全5度(その転回形の完全4度)を探す必要があります。
パッションさんが1つ目に例示した【vnプリーモ+ヴィオーラの「fis(ミ)」、
クラリネット+ファゴットの「c(♭シ)」、
切分ホルンの「a(ソ)」、そして、
チェロ+コントラバスの「e(レ)」、】
上の和音では、ソとレですね。そして次に3度音を探します。♭シですね。ですからこれは短三和音ということになります。さらに4番目の音は、根音ソから長6度のミです。
すなわち、この和音は短三和音に付加長6度が付いた和音ということになります。
パッションさんが2つ目に例示した
【vnプリーモ+ヴィオーラの「g(ファ)」、
クラリネット+ファゴットの「e(レ)」、
切分ホルンの「h(ラ)」、そして、
チェロ+コントラバスの「cis(シ)」、】
も全く同様。
完全5度関係はレとラ。3度音はファ。レファラ、すなわち短三和音。そして付加長6度のシ。
もうお分かりでしょうが、このトリスタン和音の特徴は、この付加長6度にあるのです。この付加6度、長調の場合(ドミソラ)は音階内に含まれている音ばかりですから問題ありませんが、短調の場合は(ラドミ#ファ)で、#ファが問題となります。
パッションさんは#ファは、旋律的短音階に含まれる音だから問題ないと仰っていましたが、僕はこの考えには反対意見です。短調はあくまでラシドレミファソラが基本です。#ソは、上行導音あるいは属和音に構成音として使われることから一般化したものです。しかし、#ファは違います。これは導音へ上行するときにのみ臨時に使われる音であって、基本的構成音ではないのです。その証拠に、旋律的短音階のサンプルには常に下降形が付加されていますよね。
では、この#ファとは何か?僕はこれは教会旋法から来るものだと考えています。この場合ドリア調ですね【レミファソラシドレ】。これに対応する短音階は【レミファソラ♭シ(#)ドレ】。
ドリア調が短音階に引っ張られて、時代と共にニ短調に向かう傾向があったことはよく知られていますが、すなわちその原形を最も特徴付けているのが、主音から長6度のシなのです。ですから、付加長6度短三和音というのは、ある種宗教的な雰囲気をかもし出すように響くのです。
で、多くのロマン派作曲家がそれを利用したというわけです。
@御意。ただ、現在普通に行なわれているバレエではあまりに母親は劇の進行から離れすぎているように思うのです。
マーシューの演出は、仰るようにやりすぎですね。ていうかピンボケ。でも、まあ劇的ではありますよ。
▲「破棄した」ものを「未完に終わった」と曲げ、
「補筆完成させた」とうそぶく「はき」違えた者ども
@交響曲「人生」のことでしょうか?
シューベルトにも「人生の嵐」という、ケツの穴がこそばくなるような題を勝手につけた出版社がいました。
▲調性は「ジークフリートの心理」の反映、 というお考えに強く惹かれるのです。
@ご賛同いただいてありがたいです。
「ジークフリートの心理」の反映とは、すなわち、チャイコフスキーの心理の反映ともいえます。
舞台上演のときに、さまざまな出演者がいろんな役割を演じるわけですが、彼等がジークフリートの心理という濾紙を通しての調性配置であることと、彼等が特有の調性を持っているということに、なにか矛盾が存在するのですか?
▲「母がハ長」のときと「オデットがイ短」のときは、 それぞれジークフリートが相手に感じる心象が同一の「調号0」である▲
と仰るとおりです。しかしそれは基本の調性であると認識すべきでしょう。王子が相手に対する基本姿勢がその人物の基本調性ということと一致していると考えればよいのではないでしょうか。
逆に、グランパのように明らかにオデットを表現しているにもかかわらず、対角の変ト長調やグチャクチャの#だらけの調を採るというところに、王子の心理的戸惑い、破滅への予感などを感じればよいと思うのですが。
鎌倉の扇谷(おうぎがやつ)に住んで長寿を全うしたのですが、
夫人が家の近くで車にはねられて死んでからというもの、
その意気消沈さははなはだしかったそうです。自殺した兄の
「出会って親しくなった者どうしが、ひとたび別れてしまえば、
天の原・ふりさけ見れば・春日なる・三笠の山に・出でし月かも、
というように同じこの世に生きてるのに、未来永劫ずっと
ふたたび顔をあわせることすらない、というのは、
とても不思議であり、また、恐ろしいことだ」
みたいな心境にひたってたかもしれません。
<異論があるとすれば、その和音の使用のゆえに、
内容的にトリスタンの物語との関連を云々することに対してでしょう。
トリスタンの物語との関連を取り上げるのなら、
他の重要な要素を持ち出して来ることが先で、
トリスタン和音は、その裏づけとして例示するという論法が良い>
▲「白鳥湖」のときとまた同じ内容をお書きいただき、ふたたび恐縮です。
<他の重要な要素>というものが例えばどのようなものかは解かりませんし、
「愛の死」以外にどんな重要な「共通項」があるのか見当もつきませんが、
私は無理やり関連づけようとしてるのではなく、
「使われ」てる「事実」を「どのように考えるか」、
という「一例」を「自説」としてあげているのです。
トリスタンとイゾルデの「結びつき」は、常識的なヒトたちには、
「許されない」「背徳的な」「破戒」行為です。が、世間様には、
「生まれてきてすみません」としか言いようがないものです。
ヴァーグナーは、先に死んでくトリスタンに「涅槃で待ティルデ」と、
沖の小島のイゾルデに道連れをせがませました。チャイコフスキーは、
「甥」のボブに献呈した「悲愴交響曲」を残して死に、
その13年後、ボブは「後を追った」のです。これが、
私の考えです。かつて、ヤフー時代初期に、
チャイコフスキーの「最後」の「ツガイ」作品、
「悲愴交響曲」と「3番pf協奏曲(ジージニ由来)」の開始に関して、
「ともに弦の伴奏に乗ってファゴットが旋律を奏ではじめる」という
「モーツァルトのレクィエム」の開始を踏襲してる、と
私が説いたとき、あるかたが、
「弦の音高や律動がまったく異なる」
とおっしゃって、一笑にふされたことがありました。
「音高から律動まで同じなどというのでは、
まったくおんなじ音楽になってしまうではありませんか」
と申しあげると、そのかたは、訊きもしないのに、自ら
「指揮者のはしくれ」とおっしゃったので、これは自慢したいのかと思い、
「どのような機会に指揮をなさってるのですか?」
というようなことを社交辞令として伺ったところ、
「関係ない。そんなことを訊くのは失礼だ」
みたいな内容のことを言われてしまいました。その「自称指揮者先生」は、
楽器のひとつも弾けない(と自称してる)ドシロウトの私に対して、
「指揮者」という印籠を示せば、すぐさま権威を水戸めて、
「ははぁ~~~っ!」とひれ伏すとでも思ったのでしょう。
私の稚説を「こじつけ」とおっしゃいましたが、まさに、
<さまざまな見解があってしかるべきです>ね。
重ねがさねのご忠告、いたみいります。ところで、やすのぶさんは、
「チャイコフスキーが『トリスタン和音』を『用いてる』箇所」では、
<ある種宗教的な雰囲気を醸し出そう>という意図を
お感じになるということですね?
<トリスタン和音は、ヴァーグナーが発明したものではありません>
<そういう意味で画期的なのですね>
▲ということは、「トリスタン以前」に、「単独で」
「くねくねといつまでも真の解決にいたらないのではない」ような
トリスタン和音は珍しいものではなかった、ということですね。
楽器のひとつも弾けないドシロウトで物知らずなこの私に、
その代表的な例をたった5つでかまいませんので、
ぜひ、教えてください。
<#ファは、旋律的短音階に含まれる音だから問題ないと
仰っていましたが、僕はこの考えには反対意見です>
▲反対なされるのはけっこうなのですが、その「♯ファ」はまた
「悲愴終章のトリスタン和音の中の『♯ファ』」の話とは別の、
「白鳥湖導入曲」の「やすのぶさんが<第2部>と分類なさった箇所」
での事案ですね。いっしょにしてくださってもかまいませんが、
<僕はこれは教会旋法から来るものだと考えています>
▲という関連をお取り上げになるおつもりだったのですね。
納得いたしました。
<この場合ドリア調ですね【レミファソラシドレ】。
これに対応する短音階は【レミファソラ♭シ(#)ドレ】。
ドリア調が短音階に引っ張られて、時代と共に
ニ短調に向かう傾向があったことはよく知られていますが、
その原形を最も特徴付けているのが、主音から長6度のシなのです>
▲このお話自体はよく解かるものですが、
「悲愴終章」の「レ(<)ファ(<)ラ(<)シ」も、
「白鳥湖」導入曲「B部」の「ラ(<)シ(<)レ(<)ファ」も、
「ニ短あるいはドリアの『d(<)f(<)a(<)h』」ではありませんね。
この「ドリア調」というのは、「広義のドリア調」ですか?
<ある種宗教的な雰囲気をかもし出すように響くのです>
▲「悲愴」終章の「トリスタン和音」の場合には、
「聖母」という私の「感想」の「後押し」となってしまうご意見ですが、
「白鳥湖」導入曲の「トリスタン和音」の場合も、
私が感じる「不吉」はomenみたいで宗教的かもしれませんが、
やすのぶさんがおっしゃってた「あきらめ」というお感じとは
いささか異なるような気もしてしまいますね。
<付加長6度短三和音というのは、ある種宗教的な雰囲気をかもし出すように
響くのです。で、多くのロマン派作曲家がそれを利用したというわけです>
▲これも、私は「自称指揮者」でもないドシロウトなために
なかなか知りえないことですので、お手数ですが、
その<多くの「ロマン派」作曲家>の中から
たったの「5人」程度でもかまいませんので、
その作曲家の名およびその「付加長6度短三和音」利用作品をお教えください。
あまりに母親は劇の進行から離れすぎているように思う>
▲「バレエ」はほとんどご覧になってなかった、
はずではありませんでしたか?(※)
30台までは私もけっこうバレエをみにいってたのですが、
ド下手なのがプリマだったりすると、
「白鳥湖」だと「王妃」ばかり観てました。それはともかく、
「王妃=母親」には「マイム」だけで「踊り」はありません。が、
それだからこそ、かえって「劇自体の進行」を楽しむには、
王妃のおおげさなジャスチャーを観てるほうがおもしろいというわけです。
ところで、今夏、広東の中国雑技団が
「白鳥の湖」を渋谷のオーチャードホールでやるそうですが、
ほとんどサーカスのりなようです。
王子の頭(トウ)の上にオデットのつま先(トウ)を乗せてアラベスク、
というような、日本の家庭水回り関連産業企業がスポンサーになってしかるべき
スペクタクルなんだそうです。ぐにもつかない
「なんとか版」とかいうのの「踏襲図」を演出するより、
どうせだったらそれくらいにしたほうが、見せ物としては面白いと思います。
私が演出家だったら、「アメリ」で一躍名をあげ、また、
「ダ・ヴィンチ・コウド」でさらにポピュラーになるであろうが、
有名になりすぎた、などと、とぼけたことをぬかしてる
「踊レ・トトゥ」を湖面に、石切りならぬ、トトゥ切りに、
「波」田陽区に放り投げさせる「演出」をするでしょう。
<交響曲「人生」のことでしょうか?>
▲「人生いろいろ。見解もいろいろ」とは、
島倉千代子女史や小泉宰相なら言うかもしれませんが、
チャイコフスキーの「ジーズニ」の場合には、
「オールターナティヴ」はありえません。未完に終わった、のではなく、
チャイコフスキーが意図的に完成させなかったものですから。それにしても、
ご立派に「補筆」したとなると、チャイコフスキーの知能に等しく、
感性がいちじるしく似通った御仁が、どこかにいたのでしょうね。ときに、
かの指揮者女史はチャイコフスキーがものすごく好きらしいですが、
その情熱を真っ当な方向に使わないで、売名や銭稼ぎに使うとは、
じつに人間くさいキャラなようです。
<シューベルトにも「人生の嵐」という、
ケツの穴がこそばくなるような題を勝手につけた出版社がいました>
▲薄学な私はその作品を知るよしもありませんが、
<ケツの穴がこそばくなる>くらいですから、その
腸性は「as」もしくは「a」に違いありませんね? それはともかく、
シューベルトの場合には、
『未完成』という題は誰が勝手につけたのか知りませんが、
商業的には大成功したコピーですね。 いっぽう、
「グレイト」はないですよね。センスのかけらもうかがえない。
<「ジークフリートの心理」の反映とは、すなわち、
チャイコフスキーの心理の反映ともいえます>
▲この「白鳥湖」という「特別」な作品についてはそうかもしれませんね。
<彼等がジークフリートの心理という濾紙を通しての調性配置であることと、
彼等が特有の調性を持っているということに、
なにか矛盾が存在するのですか?>
▲このご質問文のような表現だと、矛盾しないことがよく解かりました。
それでもまぁ、いちおう、
「白鳥湖の調配置」についての私の疑問点について書かせてください。
「オデットのイ短」というものを例にとりしょう。
「登場場面」はたしかに「イ短の属和」ですが、これは
「ホ長の主和」と「スキャン」できてしまいますし、というより、
そのような「面」をチャコフスキーは意図的に示したかったのでしょう。
#13-2では「ホ長」の独舞を与えてます。それはともかく、
「イ短登場」進行中に「変ロの属7」が借り出され、舞台で構えたあとは、
「どないしてうちらを撃つんや、あんさんらは?」が、
「イ短」から「ロ短」へ。そして、
クロマティックに「ハ短」に短期移行して、
「最初の変ロ長の属7」が「効いてた」のか、
「オデットの身の上話」が「変ロ長」で始められ、
途中から「ロ長」に、となって、「梟出現」を挟んで、
「うちが結婚やいうことになれば」では今度は
「嬰ヘ短」→「嬰ハ短」を繰り返し、最後は「嬰へ短の属和」。
「白鳥」というよりは「カメレオン」ですね。いっぽう、
「オデットのイ短」の「対極」であるはずの
「変ホ短あるいは嬰ニ短」を「固有調」にしてるキャラが見あたりません。
話の内容からすれば「オディール」なのでしょうけれど……。
<グランパのように明らかにオデットを表現しているにもかかわらず、
対角の変ト長調やグチャクチャの#だらけの調を採るというところに、
王子の心理的戸惑い、破滅への予感などを感じればよいと思う>
▲#13-5が「オデットを表現」してるものなら、
「イ短=無調号」であるはずの「オデット自身」に、
「イ短=無調号」の「対極」である「変ホ短(=)変ト長」という
「面」があるように王子には感じられた、ということでしょうか?
それとも、「オデットの対極」の「オディール」なのでしょうか?
ホ長やロ長をあくまでも「6♭」のまま書きとおした
チャイコフスキーの真意はいったい何だったのでしょう?
以前、どなたかが「王子はボンクラ」とおっしゃってましたね。
「6♭」の#28は「オデットの悲嘆」ですが、
ボンクラ王子が「オディール」にくらまされたことに起因するので、
#13-5と同じ「6♭」なのでしょう。
「登場場面」はたしかに「イ短の属和」ですが、これは
「ホ長の主和」と「スキャン」できてしまいますし、というより、
そのような「面」をチャコフスキーは意図的に示したかったのでしょう。
@僕はホ長調に大きな意味を見出せません。
▲#13-2では「ホ長」の独舞を与えてます。
@ご承知のように、これには註が入っていますね。
このロシア語はなんと書いてあるのでしょう?
僕は、この踊りはオデットが踊るものではないような気がします。
▲「どないしてうちらを撃つんや、あんさんらは?」
@これはト書きのどの部分を指しているのですか?
あんさんらという複数は、自筆譜上は不適切では?
▲「「白鳥」というよりは「カメレオン」ですね。
@物語ですから多彩な調を採るのでしょう。
▲「オデットのイ短」の「対極」であるはずの
「変ホ短あるいは嬰ニ短」を「固有調」にしてるキャラが見あたりません。
@御意。
▲話の内容からすれば「オディール」なのでしょうけれど……。
@オディールの調の可能性としては、ヘ短調でしょうね。(パドゥシスvar.4)
<現在普通に行なわれているバレエでは
あまりに母親は劇の進行から離れすぎているように思う>
▲「バレエ」はほとんどご覧になってなかった、
はずではありませんでしたか?(※)
@見てなくても、この点についてはいろんなところの解説などで察知できることでしょう。だいたい、踊らないキャラはバレエでは疎外される傾向にあるように思います。これは、下のパッションさんの記述にも関係しますが。
▲「白鳥湖」だと「王妃」ばかり観てました。それはともかく、
「王妃=母親」には「マイム」だけで「踊り」はありません。が、
それだからこそ、かえって「劇自体の進行」を楽しむには、
王妃のおおげさなジャスチャーを観てるほうがおもしろいというわけです。
@それを物語的に洗練させるのが難しいのですね。踊りばっかりやっていた人たちばかりですから・・・・
▲ところで、今夏、広東の中国雑技団が
「白鳥の湖」を渋谷のオーチャードホールでやるそうですが、ほとんどサーカスのりなようです。
王子の頭(トウ)の上にオデットのつま先(トウ)を乗せてアラベスク、というような、日本の家庭水回り関連産業企業がスポンサーになってしかるべきスペクタクルなんだそうです。ぐにもつかない「なんとか版」とかいうのの「踏襲図」を演出するより、どうせだったらそれくらいにしたほうが、見せ物としては面白いと思います。
@僕も、大阪で行なわれるこの公演のチケット買っちゃいました。見に行ったらまたお話しましょう。
http://www.bunkamura.co.jp/orchard/event/a_swan/report.html
ポスターの作成風景が見れます。
中国得意の水芸!
こういったものを、取り入れることは舞台を豊かにし、物語をはっきりさせるために効果的だと思うのですが、いかがでしょう。(使い方次第ですが)
バレエ演出家も、雑技だとか言ってバカにせず、いかに舞台上で物語を構築するかを学ぶべきです。
しかる後に、チャイコフスキーが意図したものが徐々に見えてくるのではないでしょうか?