平成20年6月に加藤智大が起こした殺傷事件以来、中止されてた
秋葉原の歩行者天国が今日の13時に試験再開された。
事件の交差点から南の、総武線の高架下から万世橋(江戸時代にはない)、
そこから西の昌平橋(江戸時代は場所がやや異なる)、
その北の神田明神下交差点、を結ぶ長方形の一帯は、
江戸時代は旅籠町という町名だった。神田明神下には、
事件があった交差点あたりまで続く花街があった。ともあれ、
中山道の板橋宿と日光御成街道の川口宿への拠点であるこの地は、
旅籠が集まり、町の名も旅篭町となったのである。もっとも、
幕末には旅籠は1軒だけになって、代わって商業地になってたらしい。
その幕末、ここに上州藤岡出身の須藤由蔵が露店の古本屋を営み、
さまざまな情報を集めて各藩の江戸留守居役に売ってた。
明治も中頃になると(明治19年)、湯島の呉服店に奉公してた
小菅丹治(1859-1916)が、この地に2間の間口の
「伊勢屋丹治呉服店」を開業した。伊勢丹、である。
二百年前に三井高利がやった「現金正札附掛値なし」を踏襲。
屋号の「伊勢屋」はこの松阪出身の商人に肖ったものかも。ともあれ、
花柳界のそばに呉服屋、という発想は当たった。現在、
ヤマギワリビナ本館の隅に「伊勢丹発祥の地」なる碑が建ってる。
この旅篭町が、天和2年(およそ1682年)の年の瀬に、
いわゆる「八百屋お七の大火」で類焼してしまう。
幕府は火事の後処理として、この町の北側にあった
前田家の屋敷を本郷に移し、跡地を旅籠町の町人の替地にした。
その地の北半分は元の前田家の領地の名を採って
「金沢町」と呼ばれるようになった。
加藤智大殺人犯がレンタカーの2トントラックを暴走させたあたりである。
その加賀藩屋敷は、慶安年間(およそ1650年前後)に東本願寺が建てられ、
明暦の大火(およそ1657年)で西浅草に移転した跡に与えられたものである。
三十年あまりのうちに、寺→大名屋敷→町人地、と入れ替わったのである。
ともあれ、加賀藩屋敷があったころ、その周辺の火除地(空き地)は、
「加賀原(かがっぱら)」と呼ばれてた。つまり、
現在の秋葉原は江戸時代(初期)には加賀原だったのである。
旧暦明治2年暮れ(新暦およそ1870年1月)の大火で、
現在のJR秋葉原駅がある場所に明治天皇の勅命で鎮火社が祀られた。それが、
火防の神である秋葉大権現ということになった。
明治21年(すでに新暦1888年)に鉄道が上野から秋葉原まで延びることになり、
秋葉社として、現在の台東区松が谷3丁目に移転された。昭和5年には、
火之迦具土大神を祭神とする秋葉神社となった。
昭和38年3月31日の夕方、
入谷南公園で遊んでた近所の村越吉展ちゃん4歳が誘拐され、
身代金を要求されてまんまとまきあげられ、殺された。
その犯人、小原保は警視庁の追求をクネクネとかわしつつ、
"人権保護団体"に守られて、あと少しで未解決になるところまでになった。が、
あの平塚八兵衛に挑発されて、つい、
「俺だって善いことをしたことがある。小火を消火したことがある。だが、
あの日暮里の火事くらい大きいと、どうすることもできない」
というようなことを口走ってしまう。八兵衛はすかさず、
「じゃあ、おめえ、あの火事を見たのか?」
みたいなことをつっこむ。すると、
「山手線の中から見た」
と、どんなに悪党でも浅知恵で支えられてる者が陥る例に漏れず、
小原は自分のアリバイを自らクズしてしまったのである。
小原は某新興宗教の信徒で、その上納金支払いに困って
身代金誘拐を企てたらしい。ともあれ、
火事が命取りになった事件だった。
吉展ちゃんが連れ去られた入谷南公園は、
秋葉神社のすぐそばにある。
秋葉原の歩行者天国が今日の13時に試験再開された。
事件の交差点から南の、総武線の高架下から万世橋(江戸時代にはない)、
そこから西の昌平橋(江戸時代は場所がやや異なる)、
その北の神田明神下交差点、を結ぶ長方形の一帯は、
江戸時代は旅籠町という町名だった。神田明神下には、
事件があった交差点あたりまで続く花街があった。ともあれ、
中山道の板橋宿と日光御成街道の川口宿への拠点であるこの地は、
旅籠が集まり、町の名も旅篭町となったのである。もっとも、
幕末には旅籠は1軒だけになって、代わって商業地になってたらしい。
その幕末、ここに上州藤岡出身の須藤由蔵が露店の古本屋を営み、
さまざまな情報を集めて各藩の江戸留守居役に売ってた。
明治も中頃になると(明治19年)、湯島の呉服店に奉公してた
小菅丹治(1859-1916)が、この地に2間の間口の
「伊勢屋丹治呉服店」を開業した。伊勢丹、である。
二百年前に三井高利がやった「現金正札附掛値なし」を踏襲。
屋号の「伊勢屋」はこの松阪出身の商人に肖ったものかも。ともあれ、
花柳界のそばに呉服屋、という発想は当たった。現在、
ヤマギワリビナ本館の隅に「伊勢丹発祥の地」なる碑が建ってる。
この旅篭町が、天和2年(およそ1682年)の年の瀬に、
いわゆる「八百屋お七の大火」で類焼してしまう。
幕府は火事の後処理として、この町の北側にあった
前田家の屋敷を本郷に移し、跡地を旅籠町の町人の替地にした。
その地の北半分は元の前田家の領地の名を採って
「金沢町」と呼ばれるようになった。
加藤智大殺人犯がレンタカーの2トントラックを暴走させたあたりである。
その加賀藩屋敷は、慶安年間(およそ1650年前後)に東本願寺が建てられ、
明暦の大火(およそ1657年)で西浅草に移転した跡に与えられたものである。
三十年あまりのうちに、寺→大名屋敷→町人地、と入れ替わったのである。
ともあれ、加賀藩屋敷があったころ、その周辺の火除地(空き地)は、
「加賀原(かがっぱら)」と呼ばれてた。つまり、
現在の秋葉原は江戸時代(初期)には加賀原だったのである。
旧暦明治2年暮れ(新暦およそ1870年1月)の大火で、
現在のJR秋葉原駅がある場所に明治天皇の勅命で鎮火社が祀られた。それが、
火防の神である秋葉大権現ということになった。
明治21年(すでに新暦1888年)に鉄道が上野から秋葉原まで延びることになり、
秋葉社として、現在の台東区松が谷3丁目に移転された。昭和5年には、
火之迦具土大神を祭神とする秋葉神社となった。
昭和38年3月31日の夕方、
入谷南公園で遊んでた近所の村越吉展ちゃん4歳が誘拐され、
身代金を要求されてまんまとまきあげられ、殺された。
その犯人、小原保は警視庁の追求をクネクネとかわしつつ、
"人権保護団体"に守られて、あと少しで未解決になるところまでになった。が、
あの平塚八兵衛に挑発されて、つい、
「俺だって善いことをしたことがある。小火を消火したことがある。だが、
あの日暮里の火事くらい大きいと、どうすることもできない」
というようなことを口走ってしまう。八兵衛はすかさず、
「じゃあ、おめえ、あの火事を見たのか?」
みたいなことをつっこむ。すると、
「山手線の中から見た」
と、どんなに悪党でも浅知恵で支えられてる者が陥る例に漏れず、
小原は自分のアリバイを自らクズしてしまったのである。
小原は某新興宗教の信徒で、その上納金支払いに困って
身代金誘拐を企てたらしい。ともあれ、
火事が命取りになった事件だった。
吉展ちゃんが連れ去られた入谷南公園は、
秋葉神社のすぐそばにある。
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