音楽評論家という吉田秀和が22日に死んでたらしい。
評論という名を借りた趣味の押し売りが商売になったのだから、
一廉の人物と言えよう。"文化人"気取りが多く住む町鎌倉、しかも、
鎌倉幕府の政務財政を司る政所があった目の前に生意気にも家を構え、
その道の"権威"として、いわゆるクラシック音楽に興味を持つ無垢な者に
歪めた先入観を与えてきたのである。当人は、
"私の文章を読むのが好きな人が読めば良い"
などと書いてたそうだが、それは自ら
"ポルノ・サイトへの年齢制限"と同様の防衛線を敷いたのと変わらない。
対価を得て書くプロの著述業屋だったら、
自分の文章に好意的でない者をいくらでも正当に論破する、
という謙虚な覚悟を持たなければ、ただの銭泥棒である。もっとも、
こんな輩の文に銭を払うほうも払うほうで、救いようがない。
救いようがない絶望に貫かれてる
"Winterreise(ヴィンターライセ)=「冬の旅」"(D911)の中でも、
そのあまりに素朴な美しさがかえって、
どうすることもできない悲しみを伝えるのが、
第5曲"Der Lindenbaum(菩提樹)"である。ちなみに、
"D"は"Deutsch-Verzeichnis(ドイチュ・フェアツァイヒニス=ドイチュ番号)で、
Otto Deutsch(オットー・ドイチュ、1883-1967)が整理した
シューバートの作品番号である。この「冬の旅」は、
「911」である。
[Maessig langsam(メースィヒ・ラングザーム=節度ある遅さで、
3/4拍子、4♯(ホ長調)]
pfの左手が主音と属音の空虚5度を押さえると同時に、
右手が3連符*2で節をズラして、
♪ドー>シー・<ドー<ミー・>レー>ドー│>シーー、<ラ・>ソーーー・ーーーー♪
という前奏を弾く。8小節の前奏ののちに、
歌詞に附された節が出てくる。
♪ソー│ソーーー・ーー>ミー・ミーミー│ミーーー・>ドーーー・●●ドー│
<レーーー・ーー<ミー・<ファー>ミー>レー│>ドーーー・ーーーー・●●♪
なにしろ、ソ>ミ>ドが主題の骨子なのであるから、
主題主要部4小節のうち、3小節分が主和音、という
主和音大好き歌曲なのである。そして、
シューバートは主題の後半部を、
♪ドー│<レーーー・ーーレー・レーレー│<ミーー<ファ・<ソーーー・ーーソー│
<ラーーー・ーー>ソー・>ミー>ドー│<レーーー・ーーーー・●●♪
という、属和音(属7)から主和音、下属和音から主和音、など、
主要三和音の二つが交互に現れてすぐに主和音に解決
という組み立てにした。つまり、
これでもかこれでもか、というほどに主和音を繰り出すのである。
楽理の常套的な説明に換言すれば、
「菩提樹という思い出深い木への回帰願望」を
「執拗な主和音解決」という手段で表してるのである。
詩のこの第1連部分のpfは、
概ね歌の律動以上に細分化されることなく、
穏やかに進められる。
この第1連をシューバートが音楽付けした3拍子の小節で区切ると、
"Am│Brunnen vor dem│Tore, da│steht ein Linden│baum,
ich│traeumt' in seinem│Schatten so│manchen suessen│Traum;
ich│schnitt in seine│Rinde so│manches liebe│Wort;
es│zog in Freud' und│Leide zu│ihm mich immer│fort."
(このドイツ語の読みをカタカナで表したものと拙大意は、
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/24729c8924e04025f98f68e8164ecd35
を参照されたい)
というように、整然とした美しさが示されるとともに、
3拍子の律動が心に迫る形にうまく当てはめられてる。
フィッシャー=ディースカオのような真っ当な歌手はそれを
ごく自然にルバートさせて歌うので、
絶妙な間が創造されるのである。
曲は第2連に入る。
詩の第2連を前に、調号の♯が3つはずされて[1♯]とされ、
pfの間奏がホ短調で奏でられる。そして、
前奏時より小節数が短く4小節に半減され、
歌がやはりホ短調で出てくる。
第1連でのホ長調の主題が同主調で短化されたものである。
♪ミー│ミーーー・ーー>ドー・ドーード│ドーーー・>ラーーー・●●ラー│
<シーーー・ーー<ドー・<レー>ドー>シー│>ラーーー・ーーーー・●●♪
この節は第1連同様に繰り返される。が、繰り返し後、
♪ラー│<シーーー・ーーシー・シーシー│<ドーー<レ・<ミーーー・ーーミー│
<ファーーー・ーー>ミー・>ドー>ラー│<シーーー・ーーーー・●●♪
とはならず、調号♯が3つ加えられる。
♪ドー│<レーーー・ーーレー・レーレー│<ミーー<ファ・<ソーーー・ーーソー│
<ラーーー・ーー>ソー・>ミー>ドー│<レーーー・ーーーー・●●♪
と、元の[4♯=ホ長調]に戻されるのである。この
短長取り混ぜられた第2連では、pfの伴奏は、短部では
♪ミ<ラ<シ・<ドーー>ミ・<ドー●●♪
というように、概ね、
♪タタタ(3連符)・ターータ・ター○○♪
という律動で歌を煽る。そして、長部では、
♪ソ<レ<ミ・<ファーーー・>レー●●♪
というように、概ね、
♪タタタ(3連符)・ターー・ター○○♪
という、少し角が取れた律動で歌を支えるのである。
この第2連をシューバートが音楽付けした3拍子の小節で区切ると、
"Ich│musst' auch heute│wandern vor│-bei in tiefer│Nacht,
da│hab ich noch im│Dunkel die│Augen zuge│macht,
und│seine Zweige│rauschten, als│riefen sie mir│zu:
Komm│her zu mir Ge│-selle, hier│find'st du deine│Ruh'!"
ここもまた、アオフタクトの溜の間が強拍への繋ぎの妙となってる。
フィッシャー=ディースカオの歌唱がすばらしいのは、声の魅力もさることながら、
そうした妙のセンスを備えてるからである。
第3連を前に、今度は調号は4♯のままに、実質的にはまた、
ホ短調となってpfの間奏が弾かれる。今度はさらに
1小節分の間奏に短縮され、すぐに歌が入ってくる。
♪シー│シーーー・ーーシー・シー<レー│>ドーーー・>ラーーー・●●ラー│
<シーーー・ーーシー・<ミーー>レ│>ドーーー・ーーーー・●●<ミー│
<ファーーー・ーー>ミー・<ファー>ミー│<ファーーー・>ファーーー・●●ファー│
ファーーー・ファー・ファーファー│>ミーーー・ーーーー・●●♪
"Die│kalten Winde│bliesen mir│grad' ins Ange│-sicht,
der│Hut flog mir vom│Kopfe, ich│wendete mich│nicht."
「正面からの寒風をツラにまともに受けて、帽子がうしろに吹っ飛ばされ」
たものの、それを口実に「後戻りしたりはしな」かったという箇所である。
この第3連の後半は、pfの間奏が入って、前半と切り離される。
クロマティカルに揺れる5小節分プラス、フェルマータの間奏によって、また、
その曲想の違いによって、第3連の前後半は、
はっきりと隔離される。これは、
詩の内容から意図的にそう仕組んだ
シューバートの曲づくりの高質性によるものである。すなわち、
第3連前半は真夜中、後半はそれから数時間後、
という時差があり、それがこの詩の重要な部分だからである。
この第3連を「すべて現在時制」で"訳詞"してしまうような、
浅はかにして愚かで思慮に足りない気配りのない頭脳には、
シューバートは所詮無理なのである。
5小節分の間奏がフェルマータで溜められ、主和音から成る
あの「素朴で優しくて美しい」主題がホ長調で戻ってくる。
♪ソー│ソーーー・ーー>ミー・ミーミー│ミーーー・>ドーーー・●●ドー│
<レーーー・ーー<ミー・<ファー>ミー>レー│>ドーーー・ーーーー・●●♪
"Nun│bin ich manche│Stunde ent│-fernt von jenem│Ort,
und│immer hoer' ich's│rauschen. "Du│faendest Ruhe│dort!"
(Nun│bin ich manche│Stunde ent│-fernt von jenem│Ort,
und│immer hoer' ich's│rauschen. "Du│faendest Ruhe│dort!"
"Du│faendest Ruhe│dort!")"
(括弧内はシューバートが詩を繰り返した箇所)
この第3連後半ではpf伴奏はまた、
♪タタタ(3連符)・ターータ・ター○○♪
という律動が、もはや第1連時に提示された
菩提樹の木がある、という現実の著述と、
その木に込められた思い出、
のときとは違ってることを示す。
歌が終わり、pfが6小節分の後奏を弾いて、
この痛々しく美しい歌曲は、
属7の強拍から主和音の弱拍に解決し、
フェルマータされてはかなく美しく悲しく閉じられる。
この第5曲で執拗に現れた、
突撃の合図の進軍ラッパのような
♪タタタ(3連符)・ターータ・ター○○♪
という律動は、この曲が
「ホ調」だからといって主人公の
「歩調」を意味してたわけではけっしてない(※)。
次曲第6曲の
"Wasserflut(ヴァセルフルート=奔流→溢れる涙)"を聴けば、
♪ラ<ド<ミ・<ラーーー・ーー>ミー│>ド>シ>ラ・<ミーーー・>ミー●●♪
(Manche Traen' aus meinen Augen
=マンヒェ・トレーナオス・マイネン・アオゲン
=私の目から溢れる涙が)
(Traen'←Traene=涙)
という主題の律動だったことがわかる。つまり、
「菩提樹」の中でこの主人公はすでに
涙を目に浮かべてたのである。
トーマス・マンの"Der Zauberberg(デア・ツァオバーベアク=魔の山)で、
主人公が「菩提樹」をくちずさみながら戦場に消えていく
エンディング・スィーンを語ることも無駄ではないが、そんなことは
シューバートの関知することではない。後世、
トーマス・マンがシューバートの「菩提樹」に感動した人間のひとりだった、
というだけのことである。
他人様から銭をいただく音楽評論家などというのなら、
シューバート本人やその珠玉の作品のすごいところを、その
本質を探る考察・論評を著すのが筋というものである。
はきちがえてはいけない。といっても、
富永愛女史と草剛の顔を瞬時に判別する能がない
拙脳なる私が人様から銭を貰わず感じることにすぎない。
評論という名を借りた趣味の押し売りが商売になったのだから、
一廉の人物と言えよう。"文化人"気取りが多く住む町鎌倉、しかも、
鎌倉幕府の政務財政を司る政所があった目の前に生意気にも家を構え、
その道の"権威"として、いわゆるクラシック音楽に興味を持つ無垢な者に
歪めた先入観を与えてきたのである。当人は、
"私の文章を読むのが好きな人が読めば良い"
などと書いてたそうだが、それは自ら
"ポルノ・サイトへの年齢制限"と同様の防衛線を敷いたのと変わらない。
対価を得て書くプロの著述業屋だったら、
自分の文章に好意的でない者をいくらでも正当に論破する、
という謙虚な覚悟を持たなければ、ただの銭泥棒である。もっとも、
こんな輩の文に銭を払うほうも払うほうで、救いようがない。
救いようがない絶望に貫かれてる
"Winterreise(ヴィンターライセ)=「冬の旅」"(D911)の中でも、
そのあまりに素朴な美しさがかえって、
どうすることもできない悲しみを伝えるのが、
第5曲"Der Lindenbaum(菩提樹)"である。ちなみに、
"D"は"Deutsch-Verzeichnis(ドイチュ・フェアツァイヒニス=ドイチュ番号)で、
Otto Deutsch(オットー・ドイチュ、1883-1967)が整理した
シューバートの作品番号である。この「冬の旅」は、
「911」である。
[Maessig langsam(メースィヒ・ラングザーム=節度ある遅さで、
3/4拍子、4♯(ホ長調)]
pfの左手が主音と属音の空虚5度を押さえると同時に、
右手が3連符*2で節をズラして、
♪ドー>シー・<ドー<ミー・>レー>ドー│>シーー、<ラ・>ソーーー・ーーーー♪
という前奏を弾く。8小節の前奏ののちに、
歌詞に附された節が出てくる。
♪ソー│ソーーー・ーー>ミー・ミーミー│ミーーー・>ドーーー・●●ドー│
<レーーー・ーー<ミー・<ファー>ミー>レー│>ドーーー・ーーーー・●●♪
なにしろ、ソ>ミ>ドが主題の骨子なのであるから、
主題主要部4小節のうち、3小節分が主和音、という
主和音大好き歌曲なのである。そして、
シューバートは主題の後半部を、
♪ドー│<レーーー・ーーレー・レーレー│<ミーー<ファ・<ソーーー・ーーソー│
<ラーーー・ーー>ソー・>ミー>ドー│<レーーー・ーーーー・●●♪
という、属和音(属7)から主和音、下属和音から主和音、など、
主要三和音の二つが交互に現れてすぐに主和音に解決
という組み立てにした。つまり、
これでもかこれでもか、というほどに主和音を繰り出すのである。
楽理の常套的な説明に換言すれば、
「菩提樹という思い出深い木への回帰願望」を
「執拗な主和音解決」という手段で表してるのである。
詩のこの第1連部分のpfは、
概ね歌の律動以上に細分化されることなく、
穏やかに進められる。
この第1連をシューバートが音楽付けした3拍子の小節で区切ると、
"Am│Brunnen vor dem│Tore, da│steht ein Linden│baum,
ich│traeumt' in seinem│Schatten so│manchen suessen│Traum;
ich│schnitt in seine│Rinde so│manches liebe│Wort;
es│zog in Freud' und│Leide zu│ihm mich immer│fort."
(このドイツ語の読みをカタカナで表したものと拙大意は、
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/24729c8924e04025f98f68e8164ecd35
を参照されたい)
というように、整然とした美しさが示されるとともに、
3拍子の律動が心に迫る形にうまく当てはめられてる。
フィッシャー=ディースカオのような真っ当な歌手はそれを
ごく自然にルバートさせて歌うので、
絶妙な間が創造されるのである。
曲は第2連に入る。
詩の第2連を前に、調号の♯が3つはずされて[1♯]とされ、
pfの間奏がホ短調で奏でられる。そして、
前奏時より小節数が短く4小節に半減され、
歌がやはりホ短調で出てくる。
第1連でのホ長調の主題が同主調で短化されたものである。
♪ミー│ミーーー・ーー>ドー・ドーード│ドーーー・>ラーーー・●●ラー│
<シーーー・ーー<ドー・<レー>ドー>シー│>ラーーー・ーーーー・●●♪
この節は第1連同様に繰り返される。が、繰り返し後、
♪ラー│<シーーー・ーーシー・シーシー│<ドーー<レ・<ミーーー・ーーミー│
<ファーーー・ーー>ミー・>ドー>ラー│<シーーー・ーーーー・●●♪
とはならず、調号♯が3つ加えられる。
♪ドー│<レーーー・ーーレー・レーレー│<ミーー<ファ・<ソーーー・ーーソー│
<ラーーー・ーー>ソー・>ミー>ドー│<レーーー・ーーーー・●●♪
と、元の[4♯=ホ長調]に戻されるのである。この
短長取り混ぜられた第2連では、pfの伴奏は、短部では
♪ミ<ラ<シ・<ドーー>ミ・<ドー●●♪
というように、概ね、
♪タタタ(3連符)・ターータ・ター○○♪
という律動で歌を煽る。そして、長部では、
♪ソ<レ<ミ・<ファーーー・>レー●●♪
というように、概ね、
♪タタタ(3連符)・ターー・ター○○♪
という、少し角が取れた律動で歌を支えるのである。
この第2連をシューバートが音楽付けした3拍子の小節で区切ると、
"Ich│musst' auch heute│wandern vor│-bei in tiefer│Nacht,
da│hab ich noch im│Dunkel die│Augen zuge│macht,
und│seine Zweige│rauschten, als│riefen sie mir│zu:
Komm│her zu mir Ge│-selle, hier│find'st du deine│Ruh'!"
ここもまた、アオフタクトの溜の間が強拍への繋ぎの妙となってる。
フィッシャー=ディースカオの歌唱がすばらしいのは、声の魅力もさることながら、
そうした妙のセンスを備えてるからである。
第3連を前に、今度は調号は4♯のままに、実質的にはまた、
ホ短調となってpfの間奏が弾かれる。今度はさらに
1小節分の間奏に短縮され、すぐに歌が入ってくる。
♪シー│シーーー・ーーシー・シー<レー│>ドーーー・>ラーーー・●●ラー│
<シーーー・ーーシー・<ミーー>レ│>ドーーー・ーーーー・●●<ミー│
<ファーーー・ーー>ミー・<ファー>ミー│<ファーーー・>ファーーー・●●ファー│
ファーーー・ファー・ファーファー│>ミーーー・ーーーー・●●♪
"Die│kalten Winde│bliesen mir│grad' ins Ange│-sicht,
der│Hut flog mir vom│Kopfe, ich│wendete mich│nicht."
「正面からの寒風をツラにまともに受けて、帽子がうしろに吹っ飛ばされ」
たものの、それを口実に「後戻りしたりはしな」かったという箇所である。
この第3連の後半は、pfの間奏が入って、前半と切り離される。
クロマティカルに揺れる5小節分プラス、フェルマータの間奏によって、また、
その曲想の違いによって、第3連の前後半は、
はっきりと隔離される。これは、
詩の内容から意図的にそう仕組んだ
シューバートの曲づくりの高質性によるものである。すなわち、
第3連前半は真夜中、後半はそれから数時間後、
という時差があり、それがこの詩の重要な部分だからである。
この第3連を「すべて現在時制」で"訳詞"してしまうような、
浅はかにして愚かで思慮に足りない気配りのない頭脳には、
シューバートは所詮無理なのである。
5小節分の間奏がフェルマータで溜められ、主和音から成る
あの「素朴で優しくて美しい」主題がホ長調で戻ってくる。
♪ソー│ソーーー・ーー>ミー・ミーミー│ミーーー・>ドーーー・●●ドー│
<レーーー・ーー<ミー・<ファー>ミー>レー│>ドーーー・ーーーー・●●♪
"Nun│bin ich manche│Stunde ent│-fernt von jenem│Ort,
und│immer hoer' ich's│rauschen. "Du│faendest Ruhe│dort!"
(Nun│bin ich manche│Stunde ent│-fernt von jenem│Ort,
und│immer hoer' ich's│rauschen. "Du│faendest Ruhe│dort!"
"Du│faendest Ruhe│dort!")"
(括弧内はシューバートが詩を繰り返した箇所)
この第3連後半ではpf伴奏はまた、
♪タタタ(3連符)・ターータ・ター○○♪
という律動が、もはや第1連時に提示された
菩提樹の木がある、という現実の著述と、
その木に込められた思い出、
のときとは違ってることを示す。
歌が終わり、pfが6小節分の後奏を弾いて、
この痛々しく美しい歌曲は、
属7の強拍から主和音の弱拍に解決し、
フェルマータされてはかなく美しく悲しく閉じられる。
この第5曲で執拗に現れた、
突撃の合図の進軍ラッパのような
♪タタタ(3連符)・ターータ・ター○○♪
という律動は、この曲が
「ホ調」だからといって主人公の
「歩調」を意味してたわけではけっしてない(※)。
次曲第6曲の
"Wasserflut(ヴァセルフルート=奔流→溢れる涙)"を聴けば、
♪ラ<ド<ミ・<ラーーー・ーー>ミー│>ド>シ>ラ・<ミーーー・>ミー●●♪
(Manche Traen' aus meinen Augen
=マンヒェ・トレーナオス・マイネン・アオゲン
=私の目から溢れる涙が)
(Traen'←Traene=涙)
という主題の律動だったことがわかる。つまり、
「菩提樹」の中でこの主人公はすでに
涙を目に浮かべてたのである。
トーマス・マンの"Der Zauberberg(デア・ツァオバーベアク=魔の山)で、
主人公が「菩提樹」をくちずさみながら戦場に消えていく
エンディング・スィーンを語ることも無駄ではないが、そんなことは
シューバートの関知することではない。後世、
トーマス・マンがシューバートの「菩提樹」に感動した人間のひとりだった、
というだけのことである。
他人様から銭をいただく音楽評論家などというのなら、
シューバート本人やその珠玉の作品のすごいところを、その
本質を探る考察・論評を著すのが筋というものである。
はきちがえてはいけない。といっても、
富永愛女史と草剛の顔を瞬時に判別する能がない
拙脳なる私が人様から銭を貰わず感じることにすぎない。
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