本日は、
チャイコフスキーが死んで120年の日にあたる。
50年とか100年とかではないので、その
"アニヴァーサリー度"は私の頭髪同様に薄いものだが、ともかく、
記念すべき日に違いはない。
1893年10月28日(現行暦)、チャイコフスキーはペテルブルクにおいて
「交響曲第6番」(いわゆる悲愴)を自ら指揮して初演した。
その4日後の11月1日、アレクサーンドル・オストロフスキーの戯曲
"Горячее сердце
(ガリャーチェエ・スェールツィエ=熱き心)"
観劇の帰りに立ち寄ったイタリアン・レストランで水を頼んだ。
コレラ流行中なので周りが止めるのもきかず、
「コレラなど恐れてない」
と言って飲んでしまった。そして、
翌日、体調不良をきたした、と伝えられてる。
自身の意識がしっかりしてるうちは、
医師を呼ぶことを拒んだともされてる。ともあれ、
チャイコフスキーは「悲愴」初演の9日後の午前3時に
秘密めいた死を遂げたのである。いちおう、
コレラは完治したもののそれによって衰弱した体に
腎不全をきたし、最終的には
肺水腫で死んだ、ということになってる。が、
これはかなりあやしげな発表なのである。
この年、
チャイコフスキーの友人・知人が相次いで死んでった。
コンスタンチーン・シローフスキー、コンスタンチーン・アーリブレフト(カール・アルブレヒト)(以上、6月)、
ヴラヂーミル・シローフスキー、アレクセイ・アプーフチン(以上、8月)、
ニコライ・ズヴェーレフ(9月)。ちなみに、年は明けるが、
チャイコフスキーの死の11月6日からわずか80日後の
1894年1月26日に、保養先のニースで
ナヂェージダ・フォン=メック女史も死ぬのである。さらに、
この1893年という最後の年には、チャイコフスキーは、
5月イッポリート、7月ニコライ、9月アナトーリーと、
普段一緒のモデスト以外の兄弟を訪ね歩いてるのである。
まるで、死ぬ前に一目会いに、みたいに。
悲愴の初演前後、チャイコフスキーは中下流貴族の師弟が学ぶ
帝立法律学校の同窓生で出版業者のベーッセリと
「オプリーチニク」の出版契約更改の件(著作権料)でもめてた。
生水を飲んだとされてるレストラン・レーイネルには、
チャイコフスキーの成功を妬むリームスキ=コールサコフ一味の大番頭である
アレクサンドル・グラズノーフもチャイコフスキーの動向を探るためか
同席してたのである。ちなみに、
チャイコフスキーの死によって帝立の劇場の仕事は
オペラがリームスキ=コールサコフ親方に、
バレエがアレクサンドル・グラズノーフ番頭に、
それぞれお鉢が回ってくることとなったのである。
五人組(バラキレフ以外)が"懇意"にしてた出版社はベーッセリだった。
さて、
チャイコフスキーはその最後となってしまった交響曲の
終楽章を、それまでの恒例の速いデンポで賑々しく終わるのではなく、
緩徐楽章として消え入るように終わらせる、
という、意表を突く工夫をこらした。さらに、
その主要主題の
♪ミーーー・>レー>ドー・>シーー>ラ│<シーーー・ーーーー・ーー●●♪
を、楽章開始(提示部)では、
当時は右左両翼に対向配置されてた
第2ヴァイオリン(それに伴うチェロ)と第1ヴァイオリン(それにともなうヴィオラ)に
1音ずつ交互に弾かせる、という
画期的なことをしたのである。
これは一般的に、
心理的効果をねらったもの、と考えられてる。たしかに、
そのとおりである。調性には意味はあるが、
オケそれぞれの調律の差異がある以上、
絶対的なピッチに依るものでないのと同じで、
あくまでもスィンボリックなものである。ただ、
チャイコフスキーはオペラ「チャロデイカ(いわゆる魔女)」以来、
晩年は指揮者もやってた。だから、
指揮台の上では左右からの音の切り替えがしかと判った。また、
コンサートホールのうしろのほうや端寄りの席の人たちはともかく、
中央の比較的前列の客席では、
左右からそれぞれにザッピングした音が
はっきりと聴きとれたのである。
死の2年前に書かれた最後のオペラ「イオランタ」では、
その第3曲中の「モデラート・アッサイ、2/4拍子、3♭(変ホ長調)」部分で、チャイコフスキーは
主人公イオランタ姫が眠りにつくときに
その友人ふたり(ブリギッタ=ソプラーノ、ラーウラ=メゾ・ソプラーノ)に
子守歌を歌わせる。これに、
ナーサリーのマールタ(アルト)が加わって、三重唱となってるのだが、
ブリギッタとラーウラの、
♪バーユー・バーユー、スピーーーーー♪
(ねんねんころりよねんねしな、みたいなロシア語の常套句)
の箇所を、旋律部分を1音ずつ交互に歌わせる、
という試みをしてる。音源方向撹乱効果である。
この舞台の場面では、眠りに入るイオランタにとって、
声が複数方向から聞こえてくることは、まさに
幸福を運んできてくれる天使たちがくまなく
自分を取り囲んでて見守ってくれてるような気分にさせ
安堵の眠りにつかせるのである。
いっぽう、
「悲愴」では、その第2楽章で、
17乃至23小節(反復をカウントすると、33乃至39小節)の
第1&第3ホルンと第2&第4ホルンに
イ音と1点イ音をそれぞれ交互に吹かせる、
ということもやってるのである。これによって、
アンサンブルが少なからず整わなくなるのだが、むしろ、
それが目的であると考えられる。
さて、
第4楽章の下降音階的な主題
♪【ミーーー・>レー>ドー・>シーー>ラ│<シーーー・ーーーー・ーー】●●│
<【ミーーー・>レー>ドー・>シーー>ラ│<ド>シーーー・ーーーー・ーー】●●♪
は、じつは、
「交響曲第4番」の第4楽章で引用したロシア民謡、
"Во поле берёза стояла
(ヴォー・ポーリェ・ビリョーザ・スタヤーラ=野に白樺は立てり)"
なのである。
♪【ミミ・ミミ・・>レー・>ドド│>シー・>ラー・・●●・●●│<シー・ー】<ド・・<レレ・>ドド│>シー・>ラー♪
が、この民謡は、ベートーヴェンの「英雄交響曲」の緩徐楽章
「葬送行進曲」の主題、
♪ミーーミ│ミーーーーーーー・<ラーー>♯ソ・<ラーー<シ│
<ドーーーーーーー・>ラーーー●●●●│
【ミーーーーーーー・>レ>ドーー>シ>ラーー│<ドーーーーーーー・>シーーー】●●♪
の一部でもあるのである。
下降音階的なものだから似て当然、とはいえる。だが、
「悲愴」第4楽章のこの主要主題の冒頭は、
[d-gis-h-fis]
と、「道を踏み外した恋」、それゆえ畢竟「破滅を免れえぬ恋」
を象徴する「トリスタン和音」にしてあるのである。
アントニーナ・ミリュコーヴァから熱烈な手紙をよこされたチャイコフスキーは、
その"山林"という資産に目がくらんだのである。
アホウな生徒に楽理を教えてる暇があったら
作曲やそのための肥やしになることに専念したい。
その山林が二束三文だと判るのは結婚後のことであり、
やたらめったら離婚できないロシア正教下での婚姻後には
あとの祭りだった。ところが、
自分に手を差し伸べてくれたもう一人の女性、
フォン=メック未亡人は真の支援者だったのである。
その有頂天の中でチャイコフスキーは「交響曲第4番」を産みだしたのである。
そしてそれは、
「我が最良の友」(フォン=メック夫人)に献呈されたのである。
つまり、
(カネヅルだと思って)アントニーナとイヤイヤ結婚したものの
実際は二束三文で役立たずだったいっぽうで、
本当の金持ちのナヂェージダとの"文通と援交"という
不倫が始まったのである。これは、
民謡「野に白樺は立てり」の歌詞に合致するのである。
自らの死が見えてきたチャイコフスキーは、
この「交響曲第4番」の「ヘ短調」と五度圏概念で対極をなす調性
「ロ短調」の「悲愴」の最終楽章の主要主題を創作するに際して、その
フォン=メック夫人との思い出の「野に立つ白樺」が蘇ったのである。
実際には夫人がチャイコフスキーのあとに死ぬのだが、
チャイコフスキーにとって夫人はすでに自分から去ってしまった人間だったのである。
自分の死を感じはじめたとき、それはあたかも、
まだ"非現実"な幻聴のように左右からともなく聞こえてくる。が、
死が現実味を帯びて迫ってきたときには、
幻聴はもはや幻聴でなくなり、一方向から聞こえてくるのである。
ヒトにとって時間の流れは不可逆である。
過去はどうあがいても戻ってはこない。
現実は悲しいものである。
"Tomorrow is not today."
(拙大意)今日は二度と戻ってこない。
(「悲愴」終楽章(第4楽章)の主要主題が提示されるときと
再現されるときのオーケストレイションの違いを並べてみたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/tchaikovsky-symphony-6-4th-mov
にアップしておきました)
チャイコフスキーが死んで120年の日にあたる。
50年とか100年とかではないので、その
"アニヴァーサリー度"は私の頭髪同様に薄いものだが、ともかく、
記念すべき日に違いはない。
1893年10月28日(現行暦)、チャイコフスキーはペテルブルクにおいて
「交響曲第6番」(いわゆる悲愴)を自ら指揮して初演した。
その4日後の11月1日、アレクサーンドル・オストロフスキーの戯曲
"Горячее сердце
(ガリャーチェエ・スェールツィエ=熱き心)"
観劇の帰りに立ち寄ったイタリアン・レストランで水を頼んだ。
コレラ流行中なので周りが止めるのもきかず、
「コレラなど恐れてない」
と言って飲んでしまった。そして、
翌日、体調不良をきたした、と伝えられてる。
自身の意識がしっかりしてるうちは、
医師を呼ぶことを拒んだともされてる。ともあれ、
チャイコフスキーは「悲愴」初演の9日後の午前3時に
秘密めいた死を遂げたのである。いちおう、
コレラは完治したもののそれによって衰弱した体に
腎不全をきたし、最終的には
肺水腫で死んだ、ということになってる。が、
これはかなりあやしげな発表なのである。
この年、
チャイコフスキーの友人・知人が相次いで死んでった。
コンスタンチーン・シローフスキー、コンスタンチーン・アーリブレフト(カール・アルブレヒト)(以上、6月)、
ヴラヂーミル・シローフスキー、アレクセイ・アプーフチン(以上、8月)、
ニコライ・ズヴェーレフ(9月)。ちなみに、年は明けるが、
チャイコフスキーの死の11月6日からわずか80日後の
1894年1月26日に、保養先のニースで
ナヂェージダ・フォン=メック女史も死ぬのである。さらに、
この1893年という最後の年には、チャイコフスキーは、
5月イッポリート、7月ニコライ、9月アナトーリーと、
普段一緒のモデスト以外の兄弟を訪ね歩いてるのである。
まるで、死ぬ前に一目会いに、みたいに。
悲愴の初演前後、チャイコフスキーは中下流貴族の師弟が学ぶ
帝立法律学校の同窓生で出版業者のベーッセリと
「オプリーチニク」の出版契約更改の件(著作権料)でもめてた。
生水を飲んだとされてるレストラン・レーイネルには、
チャイコフスキーの成功を妬むリームスキ=コールサコフ一味の大番頭である
アレクサンドル・グラズノーフもチャイコフスキーの動向を探るためか
同席してたのである。ちなみに、
チャイコフスキーの死によって帝立の劇場の仕事は
オペラがリームスキ=コールサコフ親方に、
バレエがアレクサンドル・グラズノーフ番頭に、
それぞれお鉢が回ってくることとなったのである。
五人組(バラキレフ以外)が"懇意"にしてた出版社はベーッセリだった。
さて、
チャイコフスキーはその最後となってしまった交響曲の
終楽章を、それまでの恒例の速いデンポで賑々しく終わるのではなく、
緩徐楽章として消え入るように終わらせる、
という、意表を突く工夫をこらした。さらに、
その主要主題の
♪ミーーー・>レー>ドー・>シーー>ラ│<シーーー・ーーーー・ーー●●♪
を、楽章開始(提示部)では、
当時は右左両翼に対向配置されてた
第2ヴァイオリン(それに伴うチェロ)と第1ヴァイオリン(それにともなうヴィオラ)に
1音ずつ交互に弾かせる、という
画期的なことをしたのである。
これは一般的に、
心理的効果をねらったもの、と考えられてる。たしかに、
そのとおりである。調性には意味はあるが、
オケそれぞれの調律の差異がある以上、
絶対的なピッチに依るものでないのと同じで、
あくまでもスィンボリックなものである。ただ、
チャイコフスキーはオペラ「チャロデイカ(いわゆる魔女)」以来、
晩年は指揮者もやってた。だから、
指揮台の上では左右からの音の切り替えがしかと判った。また、
コンサートホールのうしろのほうや端寄りの席の人たちはともかく、
中央の比較的前列の客席では、
左右からそれぞれにザッピングした音が
はっきりと聴きとれたのである。
死の2年前に書かれた最後のオペラ「イオランタ」では、
その第3曲中の「モデラート・アッサイ、2/4拍子、3♭(変ホ長調)」部分で、チャイコフスキーは
主人公イオランタ姫が眠りにつくときに
その友人ふたり(ブリギッタ=ソプラーノ、ラーウラ=メゾ・ソプラーノ)に
子守歌を歌わせる。これに、
ナーサリーのマールタ(アルト)が加わって、三重唱となってるのだが、
ブリギッタとラーウラの、
♪バーユー・バーユー、スピーーーーー♪
(ねんねんころりよねんねしな、みたいなロシア語の常套句)
の箇所を、旋律部分を1音ずつ交互に歌わせる、
という試みをしてる。音源方向撹乱効果である。
この舞台の場面では、眠りに入るイオランタにとって、
声が複数方向から聞こえてくることは、まさに
幸福を運んできてくれる天使たちがくまなく
自分を取り囲んでて見守ってくれてるような気分にさせ
安堵の眠りにつかせるのである。
いっぽう、
「悲愴」では、その第2楽章で、
17乃至23小節(反復をカウントすると、33乃至39小節)の
第1&第3ホルンと第2&第4ホルンに
イ音と1点イ音をそれぞれ交互に吹かせる、
ということもやってるのである。これによって、
アンサンブルが少なからず整わなくなるのだが、むしろ、
それが目的であると考えられる。
さて、
第4楽章の下降音階的な主題
♪【ミーーー・>レー>ドー・>シーー>ラ│<シーーー・ーーーー・ーー】●●│
<【ミーーー・>レー>ドー・>シーー>ラ│<ド>シーーー・ーーーー・ーー】●●♪
は、じつは、
「交響曲第4番」の第4楽章で引用したロシア民謡、
"Во поле берёза стояла
(ヴォー・ポーリェ・ビリョーザ・スタヤーラ=野に白樺は立てり)"
なのである。
♪【ミミ・ミミ・・>レー・>ドド│>シー・>ラー・・●●・●●│<シー・ー】<ド・・<レレ・>ドド│>シー・>ラー♪
が、この民謡は、ベートーヴェンの「英雄交響曲」の緩徐楽章
「葬送行進曲」の主題、
♪ミーーミ│ミーーーーーーー・<ラーー>♯ソ・<ラーー<シ│
<ドーーーーーーー・>ラーーー●●●●│
【ミーーーーーーー・>レ>ドーー>シ>ラーー│<ドーーーーーーー・>シーーー】●●♪
の一部でもあるのである。
下降音階的なものだから似て当然、とはいえる。だが、
「悲愴」第4楽章のこの主要主題の冒頭は、
[d-gis-h-fis]
と、「道を踏み外した恋」、それゆえ畢竟「破滅を免れえぬ恋」
を象徴する「トリスタン和音」にしてあるのである。
アントニーナ・ミリュコーヴァから熱烈な手紙をよこされたチャイコフスキーは、
その"山林"という資産に目がくらんだのである。
アホウな生徒に楽理を教えてる暇があったら
作曲やそのための肥やしになることに専念したい。
その山林が二束三文だと判るのは結婚後のことであり、
やたらめったら離婚できないロシア正教下での婚姻後には
あとの祭りだった。ところが、
自分に手を差し伸べてくれたもう一人の女性、
フォン=メック未亡人は真の支援者だったのである。
その有頂天の中でチャイコフスキーは「交響曲第4番」を産みだしたのである。
そしてそれは、
「我が最良の友」(フォン=メック夫人)に献呈されたのである。
つまり、
(カネヅルだと思って)アントニーナとイヤイヤ結婚したものの
実際は二束三文で役立たずだったいっぽうで、
本当の金持ちのナヂェージダとの"文通と援交"という
不倫が始まったのである。これは、
民謡「野に白樺は立てり」の歌詞に合致するのである。
自らの死が見えてきたチャイコフスキーは、
この「交響曲第4番」の「ヘ短調」と五度圏概念で対極をなす調性
「ロ短調」の「悲愴」の最終楽章の主要主題を創作するに際して、その
フォン=メック夫人との思い出の「野に立つ白樺」が蘇ったのである。
実際には夫人がチャイコフスキーのあとに死ぬのだが、
チャイコフスキーにとって夫人はすでに自分から去ってしまった人間だったのである。
自分の死を感じはじめたとき、それはあたかも、
まだ"非現実"な幻聴のように左右からともなく聞こえてくる。が、
死が現実味を帯びて迫ってきたときには、
幻聴はもはや幻聴でなくなり、一方向から聞こえてくるのである。
ヒトにとって時間の流れは不可逆である。
過去はどうあがいても戻ってはこない。
現実は悲しいものである。
"Tomorrow is not today."
(拙大意)今日は二度と戻ってこない。
(「悲愴」終楽章(第4楽章)の主要主題が提示されるときと
再現されるときのオーケストレイションの違いを並べてみたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/tchaikovsky-symphony-6-4th-mov
にアップしておきました)
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