[Two-"ffff" in Tchaikovsky's 6th symphony/The former]
明日はサン・ヴァレンティーノの日である。カ顔がブサイクな男である私には、
千代子さんという名の女性に限定しなくても、
まったく縁がない。といっても、
なんとかしようと金で無駄な努力をしてきた時分もあった。
いろいろ貢いだり配慮しテルニもかかわらず、
その見返りは私のオツム同様に薄かった。が、
3年前からそんな虚しい努力をするのは止めた。以来、
義理にもチョコなどもらったことがない。で、
チョコを口にしなくなったおかげで、それでなくても
拙い脳がまわらなくなって、
武豊がシャべる口元と猫の口元の区別が
つかなくなってしまった。ところで、武豊がイメキャラの
三菱自動車アウトラウンダーは4輪駆動とばかり思ってたが、
ffの2輪駆動仕様もあるそうである。
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」には"ffff"と指定された箇所が
ふたつある。ひとつは第1楽章第299小節であり、
いまひとつは第3楽章第312小節乃至315小節である。
総数1000小節あまり(第2楽章の反復をカウントしなくても)の中で、
たったこれだけ、という奥ゆかしさから、これらが
「特段」の扱いであることが窺える。
第1楽章第274小節、第2拍乃至第3拍で、減7の
「タタタータ」というモース符号の"f"を刻み、さらに次小節で、
「タタタ」という"s"を、そして、
「タ」、「タ」と"e"、"e"をたたみ込む。
"fsee(フスェー)"……ロシア語の"все(フスェー)"は、
「すべて」「皆」を表す複数代名詞である。
「すべての民は神の裁きを受ける」、のである。そして、
第277小節から「嘆息音型」
♪ミーーー<ファーー>ミ・ミ♪のゼクヴェンツが始まる。そして、
それより前から続けられてきた"fis(嬰ヘ)"の通奏低音とあいまって、
ロ短調が確保され、フルート3管と弦楽4部によるユニゾンの
下降音型が"fff"で奏される。が、これより後発の、しかも
"ff"の(ただし、絶対的音量を考慮した上での差付け指定)の
トロンボーンとチューバの「嘆息音型」(初回は全音下降)
♪ミーーー|<「シーーー・ーーー>ラ・・ラーーー・ーーーー」♪
♪ドーーー|<「「ファーーー・ーーー>ミ・・ミーーー・ーーーー」」♪
をカノるように、
♪ドーーー|>「シーーー・ーーーー・・>ラーーー・ーーーー」♪
♪ソーーー|>「「ファーーー・ーーーー・・>ミーーー・ーーーー」」♪
と降りてくのである。そして、
"largamente, forte possibile(ラルガメンテ、フォルテ・ポッスィービレ)"
と弦には指示がなされてる。が、この
"largamente"を「幅広く、ゆったりと」などと
「音楽辞典」の類の訳を鵜呑みに解して、
テンポを遅くする思慮に足りない指揮者というのが存在する。
この指示は「弦楽器の弓使い」について附されたものである。
「弓を先から元までいっぱいに使って、できるかぎり強い音で」
ということである。おんなじ節を吹くフルートには指定されてない、
ということからも容易に解ることであるのにもかかわらず。また、
それに輪を掛けて「のんびりトロトロぐずぐず」な演奏に
「ロシアの大地を感じ」て「ウットリしてしまうむきもあるので、
そういう人たちはそういう世界にいれば、
幸せなのかもしれない。もっとも、水嶋ヒロと名倉潤の
フェイスの区別もつかない拙脳な私が日々
感じることにすぎない。それはどうでも、
それまでユニゾンだった弦が、第297小節から
"sff"で和声を重ねる。
(ロ短調)トロンボーン&チューバが♪ラーーー・ーーー>♯ソ・・♯ソーーー・ーーーー♪、
弦が(通奏低音のコントラバスのミを除いて)[レ(<)ファ(<)シ]、つまり、
トロ&チューのラが減7の倚音になってるのである。次いで、
(ロ短調)トロンボーン&チューバが♪ファーーー・ーーー>ミ・・ミーーー・ーーーー♪、
弦が(通奏低音のコントラバスのミを除いて)[レ(<)♯ソ(<)シ]、つまり、
トロ&チューのファも含めた減7から属7に移行する。そして、
"ffff"からディミヌエンドしてく第299小節乃至第300小節、
を挟んで、クラリネット・ファゴット・ホルン・ティンパニ・チェロ・コントラバスが形成する
[ミ(<)♯ソ(<)シ]という属和音が打たれ減衰してく、のである。
そして、そのロ短調と共通する属和音が同主調の
ロ長調をお膳立てし、天国を表すかのような
「第2主題」が現れる、という運びになってるのである。さて、
あとまわしにした"ffff"の箇所であるが、そこでは、
オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルン・トロンボーン&チューバ・ティンパニ・弦楽5部、
が起用されてる。そして、
通奏低音のティンパニとコントラバスが「ロ短調(h moll)の「ミ(fis)」を、
トロンボーン&チューバが「♯ミ(eis)」を、それ以外の
管楽器と弦楽4部がそれぞれ[ド(<)ファ(<)ラ(d(<)g(<)h)]を、
打ち下ろすのである。ここで注目すべきは、
1. ファゴット1・ホルン2・ヴィオーラ・チェロが打つ「ファ(g)」、
2. ティンパニ・コントラバスが刻む「ミ(fis)」、
3. トロンボーン&チューバが吹く「♯レ(eis)」、
という、半音ずつ隣り合う「3つの音」である。とりわけ、
3つめの「♯レ(eis)」をチャイコフスキーは
「♭ミ(f)」とはしなかった。ここで、
"eis"とは何か、である。「嬰ホ」である。上記のごとく、
「本位ヘ」とは「異名同音」である。ときに、
"Requiem(レクウィーエム)"とはラテン語の"requies(レクウィーエス)"の対格で、
くだけていえば「安息を」である。さて、
"Requiem aeternam dona eis, Domine:
et lux perpetua luceat eis."
これは"Requiem"の入祭唱(Introitus/イントロイトゥス)である。
モツ・レクに限らず、レクィエムの歌詞はそのように始まる。
その2行の中に、[eis]という語が繰り返し出てくる。
この先頭の2行は終いで再び述べられるから、
[eis]はつごう4回出てくるのである。ラテン語の
三人称代名詞の複数与格、つまりくだいて言えば、
「彼らに」である。したがって、ここで、
バストロンボーンとチューバという低音のaceツートップを通じて、
チャイコフスキーは"Requiem"の「前口上」を吹かせた、
のだと私は考えてるのである。
「レクウィーエム(安息を)・エテルナム(永遠の)・
ドナ(与え給え)・エイス(彼らに)、ドミネ(主よ)。
エト(そして)・ルクス(光が)・ペルペトゥア(途切れることなき)・
ルーチェアト(降り注がんことを)・エイス(彼らに)」(拙大意)
明日はサン・ヴァレンティーノの日である。カ顔がブサイクな男である私には、
千代子さんという名の女性に限定しなくても、
まったく縁がない。といっても、
なんとかしようと金で無駄な努力をしてきた時分もあった。
いろいろ貢いだり配慮しテルニもかかわらず、
その見返りは私のオツム同様に薄かった。が、
3年前からそんな虚しい努力をするのは止めた。以来、
義理にもチョコなどもらったことがない。で、
チョコを口にしなくなったおかげで、それでなくても
拙い脳がまわらなくなって、
武豊がシャべる口元と猫の口元の区別が
つかなくなってしまった。ところで、武豊がイメキャラの
三菱自動車アウトラウンダーは4輪駆動とばかり思ってたが、
ffの2輪駆動仕様もあるそうである。
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」には"ffff"と指定された箇所が
ふたつある。ひとつは第1楽章第299小節であり、
いまひとつは第3楽章第312小節乃至315小節である。
総数1000小節あまり(第2楽章の反復をカウントしなくても)の中で、
たったこれだけ、という奥ゆかしさから、これらが
「特段」の扱いであることが窺える。
第1楽章第274小節、第2拍乃至第3拍で、減7の
「タタタータ」というモース符号の"f"を刻み、さらに次小節で、
「タタタ」という"s"を、そして、
「タ」、「タ」と"e"、"e"をたたみ込む。
"fsee(フスェー)"……ロシア語の"все(フスェー)"は、
「すべて」「皆」を表す複数代名詞である。
「すべての民は神の裁きを受ける」、のである。そして、
第277小節から「嘆息音型」
♪ミーーー<ファーー>ミ・ミ♪のゼクヴェンツが始まる。そして、
それより前から続けられてきた"fis(嬰ヘ)"の通奏低音とあいまって、
ロ短調が確保され、フルート3管と弦楽4部によるユニゾンの
下降音型が"fff"で奏される。が、これより後発の、しかも
"ff"の(ただし、絶対的音量を考慮した上での差付け指定)の
トロンボーンとチューバの「嘆息音型」(初回は全音下降)
♪ミーーー|<「シーーー・ーーー>ラ・・ラーーー・ーーーー」♪
♪ドーーー|<「「ファーーー・ーーー>ミ・・ミーーー・ーーーー」」♪
をカノるように、
♪ドーーー|>「シーーー・ーーーー・・>ラーーー・ーーーー」♪
♪ソーーー|>「「ファーーー・ーーーー・・>ミーーー・ーーーー」」♪
と降りてくのである。そして、
"largamente, forte possibile(ラルガメンテ、フォルテ・ポッスィービレ)"
と弦には指示がなされてる。が、この
"largamente"を「幅広く、ゆったりと」などと
「音楽辞典」の類の訳を鵜呑みに解して、
テンポを遅くする思慮に足りない指揮者というのが存在する。
この指示は「弦楽器の弓使い」について附されたものである。
「弓を先から元までいっぱいに使って、できるかぎり強い音で」
ということである。おんなじ節を吹くフルートには指定されてない、
ということからも容易に解ることであるのにもかかわらず。また、
それに輪を掛けて「のんびりトロトロぐずぐず」な演奏に
「ロシアの大地を感じ」て「ウットリしてしまうむきもあるので、
そういう人たちはそういう世界にいれば、
幸せなのかもしれない。もっとも、水嶋ヒロと名倉潤の
フェイスの区別もつかない拙脳な私が日々
感じることにすぎない。それはどうでも、
それまでユニゾンだった弦が、第297小節から
"sff"で和声を重ねる。
(ロ短調)トロンボーン&チューバが♪ラーーー・ーーー>♯ソ・・♯ソーーー・ーーーー♪、
弦が(通奏低音のコントラバスのミを除いて)[レ(<)ファ(<)シ]、つまり、
トロ&チューのラが減7の倚音になってるのである。次いで、
(ロ短調)トロンボーン&チューバが♪ファーーー・ーーー>ミ・・ミーーー・ーーーー♪、
弦が(通奏低音のコントラバスのミを除いて)[レ(<)♯ソ(<)シ]、つまり、
トロ&チューのファも含めた減7から属7に移行する。そして、
"ffff"からディミヌエンドしてく第299小節乃至第300小節、
を挟んで、クラリネット・ファゴット・ホルン・ティンパニ・チェロ・コントラバスが形成する
[ミ(<)♯ソ(<)シ]という属和音が打たれ減衰してく、のである。
そして、そのロ短調と共通する属和音が同主調の
ロ長調をお膳立てし、天国を表すかのような
「第2主題」が現れる、という運びになってるのである。さて、
あとまわしにした"ffff"の箇所であるが、そこでは、
オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルン・トロンボーン&チューバ・ティンパニ・弦楽5部、
が起用されてる。そして、
通奏低音のティンパニとコントラバスが「ロ短調(h moll)の「ミ(fis)」を、
トロンボーン&チューバが「♯ミ(eis)」を、それ以外の
管楽器と弦楽4部がそれぞれ[ド(<)ファ(<)ラ(d(<)g(<)h)]を、
打ち下ろすのである。ここで注目すべきは、
1. ファゴット1・ホルン2・ヴィオーラ・チェロが打つ「ファ(g)」、
2. ティンパニ・コントラバスが刻む「ミ(fis)」、
3. トロンボーン&チューバが吹く「♯レ(eis)」、
という、半音ずつ隣り合う「3つの音」である。とりわけ、
3つめの「♯レ(eis)」をチャイコフスキーは
「♭ミ(f)」とはしなかった。ここで、
"eis"とは何か、である。「嬰ホ」である。上記のごとく、
「本位ヘ」とは「異名同音」である。ときに、
"Requiem(レクウィーエム)"とはラテン語の"requies(レクウィーエス)"の対格で、
くだけていえば「安息を」である。さて、
"Requiem aeternam dona eis, Domine:
et lux perpetua luceat eis."
これは"Requiem"の入祭唱(Introitus/イントロイトゥス)である。
モツ・レクに限らず、レクィエムの歌詞はそのように始まる。
その2行の中に、[eis]という語が繰り返し出てくる。
この先頭の2行は終いで再び述べられるから、
[eis]はつごう4回出てくるのである。ラテン語の
三人称代名詞の複数与格、つまりくだいて言えば、
「彼らに」である。したがって、ここで、
バストロンボーンとチューバという低音のaceツートップを通じて、
チャイコフスキーは"Requiem"の「前口上」を吹かせた、
のだと私は考えてるのである。
「レクウィーエム(安息を)・エテルナム(永遠の)・
ドナ(与え給え)・エイス(彼らに)、ドミネ(主よ)。
エト(そして)・ルクス(光が)・ペルペトゥア(途切れることなき)・
ルーチェアト(降り注がんことを)・エイス(彼らに)」(拙大意)
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