本日はyahoo掲示板での話題のつづきをここで書く。
>yasunobuさん、
<「ロンド」は閉じた世界。「ロンドー」は開いた世界です。煮詰めますか?>
▲小生無学ゆえ、その開閉サブロー・シローの違いもわかりません。
解説していただければ幸甚です。
<13/1ではミーーレミレド=-ドファー
ファミファソソーレ というメロディーはA線で弾くように書かれていますね>
▲カルマス版にはそのように指定されてないので、
私は「ミーーレミレド=-ドファー」まではD線で弾くものと思ってました。
<もともとこの曲は4♭だったのではないか?という考えです。
ティンパニのつながりの怪しさはパッションさんの彗眼ですが>
▲これは誰しも不審に思うことだと思います。
<これを4度の移調をするなんて、不都合が多すぎて出来ない相談でしょうね>
▲この文の意味がかいもくわかりませんので、再度、解説、お願いいたします。
<13/5に現れた《白鳥たちの警告の動機》♪タタッタタタが加えられていること>
▲この誰しもが気づく律動「タタ○・タタタ」は、大阪冬の陣後に○が埋められて、
「悲愴」2楽章の(2+3)拍子に変化したと私は考えてるんですが、
いわゆる「ブルックナー律動(2*3、3*2)」に共通項はありますか?
<なぜここへこの動機が加えられたかというと、
白鳥たちは王子とオデットの行く末が不幸になることを知っていたからです。
グランパの前は単なる不安の表現ですが、このグランパのあとでは、
それが現実のものとなるという予言性を帯びてきているというわけです。
であるとすると、この曲の調性も不幸の調である変イ長調が理に……>
▲ここでは#5を凍結させておくことにして……
#2ワルツ(イ長)、#3セーヌ(イ長←→変イ長)、
#13-1及び-3ワルツ(イ長)、-6ワルツ(変イ長)、
#17ワルツ(変イ長)、#24セーヌ中ワルツ(変イ長)、
であるとすれば、yasunobuさんのおっしゃるとおり、
#13-5のGes及びEsの♭磁力によって、
ワルツはイ長→変イ長に引き寄せられた、わけですね。なるほど、
#24はその後、アッレーグロ・ヴィーヴォ、
「王妃と赤髭男爵は舞台の中央に歩み出る」
「王妃は王子が手の甲に口づけした以上、オディールが嫁となってしかるべきだと言う」
「赤髭は娘の腕を取り、王子に引き渡そうとする」
になって、6/8拍子ヘ短クラの♪ミ<ドー>ラ|ラー>♯ソ♪が吹かれるわけですが、
これはモツレクの「ラクリモーサ」の節、ナミ・ダビダブツです。
<交響曲のような大曲が全曲同じ調性で出来て「いる(いない、の間違いでは?)」
なんてことはだれでも知っていることなのですよね。それで、
さまざまな調の合成体としてイ長調が主導権を握っているわけです。
その場その場の調性が何であれ、結局イ長調として響くわけです>
▲私のような音楽ドシロウトにして「移動ド唱法者」は、
そのつどの「調」の「座標系」に身をおいてそれを基準として「木を見て」しまうので、
全体を感じれる位置に立って「森を見る」タイプのかたのようには
主調を常に念頭に当直させておけれるような感性も慣性も欠落してるかもしれません。
<A線でE線開放弦と同じ音を必ず弾かねばならないところをあげたのです。
だからCDで聴いてもその効果はきっと聞き取れると思いますよ>
▲ということであれば、逆に、「E線開放弦と同じ音を弾いて」る箇所が多ければ、
主調が「イ長」でなくても、「キンキン効果」は充分に現れてしまう、
ということですよね。
<提示部直前については、FのコードがEのコードに変わるだけと理解してください。
これはホ長調のようであってホ長調ではなく、イ長調の属和音です。
その証拠にここでは1回たりとも#レの音は出てこないですよね。
ホ長調とイ長調の境目はこの音があるかないかです。
ベートーヴェンは注意深くこの音を避けています>
▲これも、私のような「木の前ではその木を見てしまう」タイプには、
たとえ導音が現れなくても、Eのコードが続けば、それをEの主和音と感じ、
Aの属和音とは感じれないものなのです。バスの進行「e→h→e」にも、
「ド>ソ<ド」と感じてしまい、「ソ>レ<ソ」とは感じがたいのです。
チャルメラの節♪ドレミーレド、ドレミレードレーーーーー♪も、
♪ソラシーラソ、ソラシラソラーーーーー♪には聴きがたいのです。
チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」(イ長)の冒頭のペットも、
嬰ニの音はいっさいでてきませんし、和声附けもまったくありませんが、イ長の
♪ソーー>レー<ソ|<シーーーーー|シーー<レー>シ|>ソーー……♪
というよりも、E管指定ですし、ホ長の
♪ドーー>ソー<ド|<ミーーーーー|ミーー<ソー>ミ|>ドーー……♪
と捉えるのが自然です。
話は戻って、ベートー神が注意深くこの音を避けてる、のだとたら、
反対に、なぜ、ここをイ長の属7(E7のコード)にしとかなかったのでしょう。
ともあれ、私がガキの頃から感じてたのは、
「7番交」の中では他となんの脈絡もなく展開もされないここは、
「他の自作交響曲の友情出演」を「得意技」のひとつとするベートー神の、
常套ではないか、ということです。
「ベト5」終章の主主題:♪ドーーー<ミーーー|<ソーーーーー>ファ○|>ミ○
(>レ○>ド○<レ○|>ドーーーーー)♪
を、この「ベト7」主章主部主主題への、その主調イ長の属調ホ長「導入」として、
♪ドーーー<ミー<ソン>ファ|>ミ♪
と2度扉を叩いた、のである、と。この「7番」の箇所の木管の和声は、
それが「ホ長」だとしたら、「5番」の木金管の和声とまったくおなじです。
<それはホ長調からイ長調に転調して提示部へ入りたくなかったからです。
知らぬ間にイ長調に戻っていたというわけです>
▲これも、無学な私には、どうしてなのか、わかりません。
ご教示いただければ助かります。
<ベートーヴェン《ほど》強烈ではないといっているだけで、
《だけ》とは言っていないですよ!>
▲私の文もそういう意味だったのですが、言葉足りず失礼いたしました。
<いま、我々が議論していることを、身近に音で感じるためには、
多くの室内楽を聴くことは必須のことです。オーケストラはこの室内楽の効果が
拡大、複雑化したものと捉えることが自然です>
▲室内楽を「弾いた」ことがないのであって、少なからず「聴いて」はきました。
が、やはりCDにその「キンキン効果」をききだすことはできませんでした。
いっぽう、室内楽の実演を聴く機会はあまりありませんでした。ただ、
ひょっとすると、チャイコフスキーの室内楽は、
yasunobuさんがおっしゃる「キンキン効果」が「僅々」ではなく、
大きく出てしまう要因があるのではないか、というような気がしないでもありません。
先ほど書いたように、
「イ長・イ短に限らず、条件さえ整えばvnのE線は鳴ってしまう」
とすれば、だからこそ、チャイコフスキーは室内楽の響きを嫌った、
のかもしれません。たしかに、vnの数が多ければ、
「キンキン効果」は大きくなるような感じがしますが、
オケの場合だと、その演奏会場の雑音も大きくなります。
音源からの距離も伸びます。すると、観客の耳に入るほどには
「キンキン効果」は薄められ消されてしまう可能性が高くはありませんか?
いっぽう、室内楽だと、音源の数は少ないですが、かえって、
その中のvnが出す「キンキン」は目立(耳立ち)ちます。
普通、室内楽は間近で聴くものですね。
>yasunobuさん、
<「ロンド」は閉じた世界。「ロンドー」は開いた世界です。煮詰めますか?>
▲小生無学ゆえ、その開閉サブロー・シローの違いもわかりません。
解説していただければ幸甚です。
<13/1ではミーーレミレド=-ドファー
ファミファソソーレ というメロディーはA線で弾くように書かれていますね>
▲カルマス版にはそのように指定されてないので、
私は「ミーーレミレド=-ドファー」まではD線で弾くものと思ってました。
<もともとこの曲は4♭だったのではないか?という考えです。
ティンパニのつながりの怪しさはパッションさんの彗眼ですが>
▲これは誰しも不審に思うことだと思います。
<これを4度の移調をするなんて、不都合が多すぎて出来ない相談でしょうね>
▲この文の意味がかいもくわかりませんので、再度、解説、お願いいたします。
<13/5に現れた《白鳥たちの警告の動機》♪タタッタタタが加えられていること>
▲この誰しもが気づく律動「タタ○・タタタ」は、大阪冬の陣後に○が埋められて、
「悲愴」2楽章の(2+3)拍子に変化したと私は考えてるんですが、
いわゆる「ブルックナー律動(2*3、3*2)」に共通項はありますか?
<なぜここへこの動機が加えられたかというと、
白鳥たちは王子とオデットの行く末が不幸になることを知っていたからです。
グランパの前は単なる不安の表現ですが、このグランパのあとでは、
それが現実のものとなるという予言性を帯びてきているというわけです。
であるとすると、この曲の調性も不幸の調である変イ長調が理に……>
▲ここでは#5を凍結させておくことにして……
#2ワルツ(イ長)、#3セーヌ(イ長←→変イ長)、
#13-1及び-3ワルツ(イ長)、-6ワルツ(変イ長)、
#17ワルツ(変イ長)、#24セーヌ中ワルツ(変イ長)、
であるとすれば、yasunobuさんのおっしゃるとおり、
#13-5のGes及びEsの♭磁力によって、
ワルツはイ長→変イ長に引き寄せられた、わけですね。なるほど、
#24はその後、アッレーグロ・ヴィーヴォ、
「王妃と赤髭男爵は舞台の中央に歩み出る」
「王妃は王子が手の甲に口づけした以上、オディールが嫁となってしかるべきだと言う」
「赤髭は娘の腕を取り、王子に引き渡そうとする」
になって、6/8拍子ヘ短クラの♪ミ<ドー>ラ|ラー>♯ソ♪が吹かれるわけですが、
これはモツレクの「ラクリモーサ」の節、ナミ・ダビダブツです。
<交響曲のような大曲が全曲同じ調性で出来て「いる(いない、の間違いでは?)」
なんてことはだれでも知っていることなのですよね。それで、
さまざまな調の合成体としてイ長調が主導権を握っているわけです。
その場その場の調性が何であれ、結局イ長調として響くわけです>
▲私のような音楽ドシロウトにして「移動ド唱法者」は、
そのつどの「調」の「座標系」に身をおいてそれを基準として「木を見て」しまうので、
全体を感じれる位置に立って「森を見る」タイプのかたのようには
主調を常に念頭に当直させておけれるような感性も慣性も欠落してるかもしれません。
<A線でE線開放弦と同じ音を必ず弾かねばならないところをあげたのです。
だからCDで聴いてもその効果はきっと聞き取れると思いますよ>
▲ということであれば、逆に、「E線開放弦と同じ音を弾いて」る箇所が多ければ、
主調が「イ長」でなくても、「キンキン効果」は充分に現れてしまう、
ということですよね。
<提示部直前については、FのコードがEのコードに変わるだけと理解してください。
これはホ長調のようであってホ長調ではなく、イ長調の属和音です。
その証拠にここでは1回たりとも#レの音は出てこないですよね。
ホ長調とイ長調の境目はこの音があるかないかです。
ベートーヴェンは注意深くこの音を避けています>
▲これも、私のような「木の前ではその木を見てしまう」タイプには、
たとえ導音が現れなくても、Eのコードが続けば、それをEの主和音と感じ、
Aの属和音とは感じれないものなのです。バスの進行「e→h→e」にも、
「ド>ソ<ド」と感じてしまい、「ソ>レ<ソ」とは感じがたいのです。
チャルメラの節♪ドレミーレド、ドレミレードレーーーーー♪も、
♪ソラシーラソ、ソラシラソラーーーーー♪には聴きがたいのです。
チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」(イ長)の冒頭のペットも、
嬰ニの音はいっさいでてきませんし、和声附けもまったくありませんが、イ長の
♪ソーー>レー<ソ|<シーーーーー|シーー<レー>シ|>ソーー……♪
というよりも、E管指定ですし、ホ長の
♪ドーー>ソー<ド|<ミーーーーー|ミーー<ソー>ミ|>ドーー……♪
と捉えるのが自然です。
話は戻って、ベートー神が注意深くこの音を避けてる、のだとたら、
反対に、なぜ、ここをイ長の属7(E7のコード)にしとかなかったのでしょう。
ともあれ、私がガキの頃から感じてたのは、
「7番交」の中では他となんの脈絡もなく展開もされないここは、
「他の自作交響曲の友情出演」を「得意技」のひとつとするベートー神の、
常套ではないか、ということです。
「ベト5」終章の主主題:♪ドーーー<ミーーー|<ソーーーーー>ファ○|>ミ○
(>レ○>ド○<レ○|>ドーーーーー)♪
を、この「ベト7」主章主部主主題への、その主調イ長の属調ホ長「導入」として、
♪ドーーー<ミー<ソン>ファ|>ミ♪
と2度扉を叩いた、のである、と。この「7番」の箇所の木管の和声は、
それが「ホ長」だとしたら、「5番」の木金管の和声とまったくおなじです。
<それはホ長調からイ長調に転調して提示部へ入りたくなかったからです。
知らぬ間にイ長調に戻っていたというわけです>
▲これも、無学な私には、どうしてなのか、わかりません。
ご教示いただければ助かります。
<ベートーヴェン《ほど》強烈ではないといっているだけで、
《だけ》とは言っていないですよ!>
▲私の文もそういう意味だったのですが、言葉足りず失礼いたしました。
<いま、我々が議論していることを、身近に音で感じるためには、
多くの室内楽を聴くことは必須のことです。オーケストラはこの室内楽の効果が
拡大、複雑化したものと捉えることが自然です>
▲室内楽を「弾いた」ことがないのであって、少なからず「聴いて」はきました。
が、やはりCDにその「キンキン効果」をききだすことはできませんでした。
いっぽう、室内楽の実演を聴く機会はあまりありませんでした。ただ、
ひょっとすると、チャイコフスキーの室内楽は、
yasunobuさんがおっしゃる「キンキン効果」が「僅々」ではなく、
大きく出てしまう要因があるのではないか、というような気がしないでもありません。
先ほど書いたように、
「イ長・イ短に限らず、条件さえ整えばvnのE線は鳴ってしまう」
とすれば、だからこそ、チャイコフスキーは室内楽の響きを嫌った、
のかもしれません。たしかに、vnの数が多ければ、
「キンキン効果」は大きくなるような感じがしますが、
オケの場合だと、その演奏会場の雑音も大きくなります。
音源からの距離も伸びます。すると、観客の耳に入るほどには
「キンキン効果」は薄められ消されてしまう可能性が高くはありませんか?
いっぽう、室内楽だと、音源の数は少ないですが、かえって、
その中のvnが出す「キンキン」は目立(耳立ち)ちます。
普通、室内楽は間近で聴くものですね。
ここまでネコパンチしに来ましたよ。(^o^)
難しいことばかり書かれていますね。でも5拍子の事やベトの5.7番のことは面白い発想だと思います。(^_^)v
また覗きに来ます。(^_^)/
また、金曜日に掲示板に伺います。
junkoさん、
はじめまして。私は1度たりともよそのブログにコメントを書きいれたことはないのですが、これも何かのご縁でしょうから、今度、ブログを教えてください。
あちらで質問もないのに回答するのは変ですので、ぼちぼちこちらにコピペしながら回答しましょう。
最近必要があって、清水も舞台から飛び降りるつもりで、カーマス版「白鳥の湖」を買いました。23000円。値段はまあまとして、印刷悪し、装丁悪し、音符は小さいし、まあガッカリです。あんなコピー版2,3000円が相場でしょう。ブロード版は20000円の価値がありましたよ。
で、さらに、脚注がロシア語!せめてフランス語の対訳くらいつけてもらわないと・・・・売る気があるのかなあ?
まあ、これから昔教えてもらったことを検証していきたいとおもっています(コピペしていないので詳しいことは忘れましたが)
<「ロンド」は閉じた世界。「ロンドー」は開いた世界です。煮詰めますか?>
▲小生無学ゆえ、その開閉サブロー・シローの違いもわかりません。
解説していただければ幸甚です。
僕の理解では、Rondoは古典派の時代に確定した、
ABACABA
または
ABACA
です。
Rondeauはそれ以前の《廻旋曲》の意味合いを強く持った確定していない形式を表すものだと思います。すなわち
ABACADAEAF・・・・・
Aはルフランすなわちリフレインする楽節です。B,C、D、・・・はクープレと呼ばれる挿入楽節です。
ロンドーは、クープレがいくつ来るか確定していないため、開いた形式と表現したのです。
それに対して、古典派はクープレを1つなり2つに確定したので、ロンドは閉じた形式になりました。
<13/1ではミーーレミレド=-ドファー
ファミファソソーレ というメロディーはA線で弾くように書かれていますね>
▲カルマス版にはそのように指定されてないので、
私は「ミーーレミレド=-ドファー」まではD線で弾くものと思ってました。
もちろんどちらの版にもポジション指定はありません。大体スコア上でゲーセン以外のポジション指定を見たことはありませんね。
で、ポジションを選択するための指針として、
(1)メロディーはつながりを良くするため出来るだけ同じ弦を使う。
(2)しっかりした音を出すために出来るだけ低いポジションを使う。
この2つの原則から、このメロディーはA線で惹かれるべきでしょう。
で、D線を使う根拠は?
スコアを読める人はね(希少)。
<これを4度の移調をするなんて、不都合が多すぎて出来ない相談でしょうね>
▲この文の意味がかいもくわかりませんので、再度、解説、お願いいたします。
4度も移調するとこういった高度な音楽は、なにかしらどこかに演奏上支障をきたすパートが出てくるものです。
たとえば、13/1の場合、最後の10小節ほどは4度上げるとフルートは高すぎるしファゴットは演奏困難です。5度下げるとオーボエの音域を越えてしまいます。
いわゆる「ブルックナー律動(2*3、3*2)」に共通項はありますか?
僕の考えでは全く関係ありません。
それよりも、ある場合害が生じることもあります。
「第八交響曲」の第1楽章第3主題について、とある評論家はブルックナーリズムであると解説しましたが、これは全くの誤解であって第3主題は6連符リズムを基礎としているのです。
くだんの音形は
休OOOOO
という音形の連続です。
音が5つあるからブルックナーリズムだといってはいけません。休符も立派なリズムの一部です。
なんて《あり得ない》ことはだれでも知っていることなのですよね。それで、さまざまな調の合成体としてイ長調が主導権を握っているわけです。その場その場の調性が何であれ、結局イ長調として響くわけです>
@上記が抜けていましたね。失礼しました。
ちなみに一連の回答の中で、もう既に2箇所誤変換がありましたね。ごめんなさい。どうも自分が思っているように変換されるとすぐに思ってしまうのです。ミスはあとでなかなか気づかないものです。
で、《結局イ長調として響く》というのも言い過ぎですよね。《イ長調の大系の中で響く》ぐらいが適当かと・・・・・これまた失礼しました。
▲私のような音楽ドシロウトにして「移動ド唱法者」は、
そのつどの「調」の「座標系」に身をおいてそれを基準として「木を見て」しまうので、
全体を感じれる位置に立って「森を見る」タイプのかたのようには
主調を常に念頭に当直させておけれるような感性も慣性も欠落してるかもしれません。
@もちろん部分部分は移動ドで読んだ方が分かりやすいし、理解するためにはそう読むべきでしょう。しかし、交響曲のような音楽は常に全体の絡みを勘案すべきでもあります。「白鳥の湖」が単なる短い曲の集積ではなく、全体が一つのまとまりを持っているということが《交響的作品》ということの所以なのでしょう。
主調が「イ長」でなくても、「キンキン効果」は充分に現れてしまう、
ということですよね。
@これはもともと、オーケストラによる作品に調性による違いが存在するのか?という僕の答えです。
ご理解いただくためには相当の説明が必要ですよね。
この点についてはヤフーでもう一度詳しく説明したいと思っているので、そちらで質問を続けてください。
質問がないと説明しづらい面がありますので。
それでなくても、まじめな思考を知識をひけらかすものと揶揄する人たちが発言するところですから・・・・
これはホ長調のようであってホ長調ではなく、イ長調の属和音です。
その証拠にここでは1回たりとも#レの音は出てこないですよね。
ホ長調とイ長調の境目はこの音があるかないかです。
ベートーヴェンは注意深くこの音を避けています>
▲これも、私のような「木の前ではその木を見てしまう」タイプには、
たとえ導音が現れなくても、Eのコードが続けば、それをEの主和音と感じ、
Aの属和音とは感じれないものなのです。バスの進行「e→h→e」にも、
「ド>ソ<ド」と感じてしまい、「ソ>レ<ソ」とは感じがたいのです。
チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」(イ長)の冒頭のペットも、
嬰ニの音はいっさいでてきませんし、和声附けもまったくありませんが、イ長の
♪ソーー>レー<ソ|<シーーーーー|シーー<レー>シ|>ソーー……♪
というよりも、E管指定ですし、ホ長の
♪ドーー>ソー<ド|<ミーーーーー|ミーー<ソー>ミ|>ドーー……♪
と捉えるのが自然です。
@仰るとおり音楽は前からの流れが大切です。「イタリア奇想曲」の開始を属和音的に考える人は誰もいません。もし、この曲でも、その後♭シの音が出てきたとするとその時点で、ニ長調を感じるかもしれませんが、それはイ長調から、ニ長調へ転調したと感じるのが普通です。
翻って、ベートーヴェンのこの曲は既にイ長調で響いてしまっているわけですよね。たくさんのほかの調はこのイ長調を確立するために存在すると言って過言ではないでしょう。ですから、この部分バスがヘ長調から突然半音下がってホ長調の和音がなった場合、イ長調の属和音への期待が高まるのです。ロ長調和音はいわゆる《VのV効果》ですね。
話は飛びますが、パッシオンさんのような方なら、この部分ビゼーの「アルルの女」前奏曲の第2部分、《バカの弟》の旋律を思い出しませんか?
話は戻って、ベートー神が注意深くこの音を避けてる、のだとたら、
反対に、なぜ、ここをイ長の属7(E7のコード)にしとかなかったのでしょう。
@当然属7にしてしまうことは《ネタばれ》をやってしまうことですよね。曲が始まったばかりでそんなことはベートーヴェンはしたくなかったのでしょう。多分♭シを加えると陳腐な音楽になってしまうように思います。
ともあれ、私がガキの頃から感じてたのは、
「7番交」の中では他となんの脈絡もなく展開もされないここは、
「他の自作交響曲の友情出演」を「得意技」のひとつとするベートー神の、
常套ではないか、ということです。
「ベト5」終章の主主題:♪ドーーー<ミーーー|<ソーーーーー>ファ○|>ミ○
(>レ○>ド○<レ○|>ドーーーーー)♪
を、この「ベト7」主章主部主主題への、その主調イ長の属調ホ長「導入」として、
♪ドーーー<ミー<ソン>ファ|>ミ♪
と2度扉を叩いた、のである、と。この「7番」の箇所の木管の和声は、
それが「ホ長」だとしたら、「5番」の木金管の和声とまったくおなじです。
@たしかにソーファミは第1主題を導くものとしての効果を発揮していますが、「5番」のどこと同じですか?
<それはホ長調からイ長調に転調して提示部へ入りたくなかったからです。
知らぬ間にイ長調に戻っていたというわけです>
▲これも、無学な私には、どうしてなのか、わかりません。
ご教示いただければ助かります。
@上記全般の説明でお分かりいただけなかったらまたご質問ください
音源からの距離も伸びます。すると、観客の耳に入るほどには
「キンキン効果」は薄められ消されてしまう可能性が高くはありませんか?
いっぽう、室内楽だと、音源の数は少ないですが、かえって、
その中のvnが出す「キンキン」は目立(耳立ち)ちます。
@室内楽はそのほとんどが弦楽器のみかピアノ+弦楽器ですので、弦の特徴が日常化してしまって調性の性格化には至らないような気がします。
あまりに薬が効きすぎるというのも・・・・・
オーケストラの場合は、曲の構造も複雑なら、編成も複雑であり、そういった中で微妙に弦楽器の性格が出てくるからこそ調性の性格化に寄与するものだと思いますがいかがでしょう。