昨日は大統領選はなかったが、都議選があった。福島競馬の
ラジオたんぱ賞にも、「トーセン」ロッキー号が2着にやってきたことである。
1776年7月4日、「新大陸」入植者の代表が集い、「大陸会議」を開催した。
易姓革命の正当性を謳ったジョン・ロックの思想を下敷きにして、
おもにジェファースンが書いた「独立宣言書」が採択された。
漢文化圏印鑑社会の日本と違い、欧米はサイン社会である。だが、
「独立宣言書」にイの一番に署名した人物は、マサチューセッツ代表にして
のちにその州の初代知事となる「璽ョン・判子ック」だった、
のであるからして、歴史とは朱肉なものである。
さて、「独立宣言」から50年後の1826年、
スティーヴン・コリンズ・フォスターは生まれた。
♪戦争がぁ終わぁって、フォスタ~はぁ生まれたっ♪
独立戦争を知らない子どもたちの世代である。が、
内戦(デイヴィス対リンカンの南北朝戦争)は知ることになる。
ドラムを打ち鳴らしながら行軍する南北両軍。ときに、
我が生家には未だに昭和30年台のステレオと洗濯機が捨テレ置かれずにある。
大阪方面では洗濯機は、「せんたっき」あるいは「せんだっき」
と発音したりするらしい。ともあれ、我が家の洗濯機は
「斜めドラム」でもないし、自動乾燥機附きでもない。が、
手回しローラー絞り器附きである。現在では洗濯の用には供してないが、
脂っこいものをトリ過ぎないように、フライドチキンを水をたくわえた洗濯槽に
入れて、回して「脂分」を遠心分離してから食うようにしてる。
いぽう、ステレオでは、某コミックバンドが歌ってた
「ガンダーラ」や「モンキーマジック」をかけた思い出がある。
それらはさておき、そのずっと前、私がまだ幼稚園児だったころ、
唱歌・童謡、そして、世界の民謡とフォスターの歌のレコードが家には
いっぱいあり、それらをさかんに聴き、歌ったものである。
なかでも「フォスター」の歌は、ガキの私の音楽情操を「育んで」くれた。
フォスター家はアイルランド系である。我が家は愛蘭系である。
7月初めの頃は庭にモジズリ(ネジバナ)が二重螺旋状に咲き誇ってたものである。
♪ミン>レ>ド<レー|<ミ<ソーーー|<「ラン」>♯ソ<ラ<シー|<ドーーー♪
ともあれ、いまでも、フォスターの歌の一節を耳にしたり、歌詞を目にしたり、
カーネル・サンダーズ翁のメガネづらを見ただけで、
ドーパミンとノル・アドレナリンが熱くこみ上げてきて、涙が溢れてしまうのである。
わけても、「ケンタッキーの我が家」は、もっとも感動する歌である。
♪○ファ|>ミ>レ○>ドド>シ○<ド|<レーーーーー♪
「オール>メ>リ、>オール・ハ>ピ、<アンド<ブラーーーイト」
という言葉が最高に活かされた節回しである。
♪ド<レ|<ミン>ド<ファン>ミ>レー、レン>シ|<ドーーーーー♪
「フォ<ディ<オウルド>セン<タッ>キ>ホウム、ファー>ラ<ウェ~~~~ィ」
なんと胸打つ音楽なのであろうか。現在、
ケンタッキー州の州歌とされてるそうである。フォスターの歌は、他に、
「オウルド・フォウクス・アット・ホウム(スワニー川)」が
フロリダ州の州歌になってるようである。
さて、フォスターの歌は人気になったが自身にカネは入らず、
酒好きがたたって結核をこじらせ、数回別居を繰り返してた
恋女房ジェニファーや愛娘マリアンとともに、1860年、NYで同居。
が、またしても妻は子を連れて去ってしまったのである。そして、
ミュンヒェンではリヒャルト・シュトラオスが生まれた年、
米国では内戦さなかの1864年正月(我が国では文久4年)、
深酒で酔いつぶれた翌朝……想像では……
ヨロヨロと起き上がり、髭を剃ろうとして洗面台にむかったとき、
フラついて洗面台にぶつかり、それが割れて首に突き刺さって
倒れてるところを発見され、病院に担ぎ込まれたが、失血死した……
とされてるそうである。江利チエミやウィリアム・ホウルドゥンも
同様の寂しい死であったが、私の想像では、
フォスターは自らの意志によって剃刀で首を剃ったのだと思う。
「バイン-バイ・ハード・タイムズ・カム・ア・ノッキング・アッ・ダ・ドー、
デン、マイ・オウルド・ケンタキー・ホウム、グッ・ナイト」
フォスターが最後の数年を孤独に過ごしたNYのアパートというのが、
バウアリ(bowery)というところだったことはなんとも哀れである。
満38歳にあと半年弱。ポケットに残ってたゼニはたったの38セント。
現在の価値に換算すると、わずか38億ドルぽっちだそうである(※)。
ラジオたんぱ賞にも、「トーセン」ロッキー号が2着にやってきたことである。
1776年7月4日、「新大陸」入植者の代表が集い、「大陸会議」を開催した。
易姓革命の正当性を謳ったジョン・ロックの思想を下敷きにして、
おもにジェファースンが書いた「独立宣言書」が採択された。
漢文化圏印鑑社会の日本と違い、欧米はサイン社会である。だが、
「独立宣言書」にイの一番に署名した人物は、マサチューセッツ代表にして
のちにその州の初代知事となる「璽ョン・判子ック」だった、
のであるからして、歴史とは朱肉なものである。
さて、「独立宣言」から50年後の1826年、
スティーヴン・コリンズ・フォスターは生まれた。
♪戦争がぁ終わぁって、フォスタ~はぁ生まれたっ♪
独立戦争を知らない子どもたちの世代である。が、
内戦(デイヴィス対リンカンの南北朝戦争)は知ることになる。
ドラムを打ち鳴らしながら行軍する南北両軍。ときに、
我が生家には未だに昭和30年台のステレオと洗濯機が捨テレ置かれずにある。
大阪方面では洗濯機は、「せんたっき」あるいは「せんだっき」
と発音したりするらしい。ともあれ、我が家の洗濯機は
「斜めドラム」でもないし、自動乾燥機附きでもない。が、
手回しローラー絞り器附きである。現在では洗濯の用には供してないが、
脂っこいものをトリ過ぎないように、フライドチキンを水をたくわえた洗濯槽に
入れて、回して「脂分」を遠心分離してから食うようにしてる。
いぽう、ステレオでは、某コミックバンドが歌ってた
「ガンダーラ」や「モンキーマジック」をかけた思い出がある。
それらはさておき、そのずっと前、私がまだ幼稚園児だったころ、
唱歌・童謡、そして、世界の民謡とフォスターの歌のレコードが家には
いっぱいあり、それらをさかんに聴き、歌ったものである。
なかでも「フォスター」の歌は、ガキの私の音楽情操を「育んで」くれた。
フォスター家はアイルランド系である。我が家は愛蘭系である。
7月初めの頃は庭にモジズリ(ネジバナ)が二重螺旋状に咲き誇ってたものである。
♪ミン>レ>ド<レー|<ミ<ソーーー|<「ラン」>♯ソ<ラ<シー|<ドーーー♪
ともあれ、いまでも、フォスターの歌の一節を耳にしたり、歌詞を目にしたり、
カーネル・サンダーズ翁のメガネづらを見ただけで、
ドーパミンとノル・アドレナリンが熱くこみ上げてきて、涙が溢れてしまうのである。
わけても、「ケンタッキーの我が家」は、もっとも感動する歌である。
♪○ファ|>ミ>レ○>ドド>シ○<ド|<レーーーーー♪
「オール>メ>リ、>オール・ハ>ピ、<アンド<ブラーーーイト」
という言葉が最高に活かされた節回しである。
♪ド<レ|<ミン>ド<ファン>ミ>レー、レン>シ|<ドーーーーー♪
「フォ<ディ<オウルド>セン<タッ>キ>ホウム、ファー>ラ<ウェ~~~~ィ」
なんと胸打つ音楽なのであろうか。現在、
ケンタッキー州の州歌とされてるそうである。フォスターの歌は、他に、
「オウルド・フォウクス・アット・ホウム(スワニー川)」が
フロリダ州の州歌になってるようである。
さて、フォスターの歌は人気になったが自身にカネは入らず、
酒好きがたたって結核をこじらせ、数回別居を繰り返してた
恋女房ジェニファーや愛娘マリアンとともに、1860年、NYで同居。
が、またしても妻は子を連れて去ってしまったのである。そして、
ミュンヒェンではリヒャルト・シュトラオスが生まれた年、
米国では内戦さなかの1864年正月(我が国では文久4年)、
深酒で酔いつぶれた翌朝……想像では……
ヨロヨロと起き上がり、髭を剃ろうとして洗面台にむかったとき、
フラついて洗面台にぶつかり、それが割れて首に突き刺さって
倒れてるところを発見され、病院に担ぎ込まれたが、失血死した……
とされてるそうである。江利チエミやウィリアム・ホウルドゥンも
同様の寂しい死であったが、私の想像では、
フォスターは自らの意志によって剃刀で首を剃ったのだと思う。
「バイン-バイ・ハード・タイムズ・カム・ア・ノッキング・アッ・ダ・ドー、
デン、マイ・オウルド・ケンタキー・ホウム、グッ・ナイト」
フォスターが最後の数年を孤独に過ごしたNYのアパートというのが、
バウアリ(bowery)というところだったことはなんとも哀れである。
満38歳にあと半年弱。ポケットに残ってたゼニはたったの38セント。
現在の価値に換算すると、わずか38億ドルぽっちだそうである(※)。
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