旧スペイン・フランコ独裁制にも似た
社会主義国カストロ政権下のキューバでは、最近、
中国からの工業製品が入るようになったことと
外圧で廃止する動きがあるものの、
通貨が二種類存在する。
外人観光客用の、つまり、兌換のCUC(キューバ・セウセ、略してクック)と、
一般国民向けの、つまり、日用品の焼肉のタレ、
ゲバラ黄金のタレなんかを買うCUP(キューバ・ペソ)である。が、
前者でしか通用しない品目をも国民は使用するので、
前者も国民は使用してる。前者はもともと
反米カストロ政権誕生でキューバ危機が起こり、
米国による経済封鎖が行われ、
不足高騰した工業製品を供給せんがために発行された。
江戸徳川時代の日本も、
いわゆる鎖国と呼ばれる政策で
貿易統制されてた。が、当時は
生糸を輸入に頼らざるをえなかったため、
金含有量がべらぼうに多い慶長小判は
湯水のごとく海外へ流出し、あるいは
国内の裕福な商人によって蓄財されてしまった。さらに、
佐渡の金が尽きてきたのである。加えて、
家光による日光他の神社仏閣造営改築で
幕府財政は逼迫してた。
そんなときに現れたのが、下っ端旗本、勘定方、
荻原重秀(おぎわら・しげひで、西暦およそ1658-同1713)である。
とくに経済財政に英明だったからだろう、
同人は若いうちから重用された。幾多の功績で、
200俵取りの下っ端旗本が、勘定吟味、さらには、佐渡奉行、
3700石の勘定奉行にまでのぼりつめた。本日は、
その荻原重秀の不審な死から300年の日にあたる。
当時は「金および銀本位制」の通貨体制だった。
金・銀の供給量が増えない限りにおいては、
通貨供給量も増えない。つまり、必ずデフレとなる。実際、
上記のごとく、江戸開府から数十年で、
日本経済はデフレとなってたのである。
名目米経済制とはいっても実質、
貨幣経済が成長してしまった以上、
貨幣を経済に見合った分、流通させなければ、
デフレになる。
そのような状況の中で、
荻原重秀が採った政策でもっとも重要なのが、
一般にデフレ対策とされてる貨幣吹替(改鋳)である。つまり、
それまでの慶長金・銀貨に替えて、金・銀の含有量の少ないものを
鋳造・流通させたのである。これによって
インフレ率実質3パーセントとなり、商人は蓄財から投資に転じた。
そうして、いわゆる「元禄景気」となったのである。
このとき、重秀は、
「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以って
これに代えるといえども、まさに行うべし」
と言ったとされてる。これは、
西洋の近代経済学を先取りした「管理通貨制度」といえる。が、
おそらくは、各藩が実施してた「藩札」にヒントを得たものだろう。
こうした管理通貨・信用貨幣制度下においては、
実際の通貨の価値(含まれる貴金属の価値)、と、
法定の価値、という、「二重の価値」を持つことになる。だから、
仮に日本あるいは日本経済が破綻したら、
福澤先生は1万円の価値を持ち得ないばかりか、もとの
13石2人扶持にもはるかに満たない価値となる。
単独金属(アルミニウム)で作られてる1円硬貨の0.3円にすらならない。
ともあれ、
重秀の政策は当面は成功した。
幕府の財政も潤った。何事もなく
世の中が動いてれば、ある程度長続きしたかもしれない。が、
綱吉の晩年の治世は災難続きだった。
関東で元禄大地震、東海・東南海・南海で宝永大地震、
富士山の宝永大噴火、と。景気悪化によって、
さらなる改鋳を余儀なくされ、結果として
大インフレを引き起こした。そして、
重秀を目の敵にしてた新井白石は
重秀に収賄の嫌疑をかけ、
再三、家宣に重秀の罷免を迫った。ついに、
「余人を以て替え難し」だった重秀を、
家宣は罷免したのである。それから1年後、
重秀は不審な死を遂げた。
抗議の断食、自刃だったともいわれてる。
重秀を追い落とした白石も、
家宣・家継の相次ぐ死で、
紀州から将軍家に入った吉宗によって、
排斥され、その政策もことごとく廃棄された。
神田小川町の屋敷も当然に召し上げられ、
一時的に深川に転ぜられた。最終的には
内藤新宿(千駄ヶ谷)に住まいをあてがわれた。
現在の新宿御苑の千駄ヶ谷口のすぐそばである。が、
当時は畑ばかりの寂しい地区で、同じく
幕府から拝領された近所の屋敷にも
主は住んでないといった状態だった。白石も
小石川に自費で土地を買ってそちらで
重秀をはじめとした他人の悪口を書きまくって
晩年を過ごした。重秀は
真の武士らしく何も書き残さなかったが。
[思ひ出づる、折りたく柴の、夕煙。むせぶもうれし。忘れ形見に](太上天皇=後鳥羽院)
[思ひ出づる、折りたく柴と、聞くからに、たぐひも知らぬ、夕煙かな](前大僧正慈円)
ジエンど、とぞなりにける。
社会主義国カストロ政権下のキューバでは、最近、
中国からの工業製品が入るようになったことと
外圧で廃止する動きがあるものの、
通貨が二種類存在する。
外人観光客用の、つまり、兌換のCUC(キューバ・セウセ、略してクック)と、
一般国民向けの、つまり、日用品の焼肉のタレ、
ゲバラ黄金のタレなんかを買うCUP(キューバ・ペソ)である。が、
前者でしか通用しない品目をも国民は使用するので、
前者も国民は使用してる。前者はもともと
反米カストロ政権誕生でキューバ危機が起こり、
米国による経済封鎖が行われ、
不足高騰した工業製品を供給せんがために発行された。
江戸徳川時代の日本も、
いわゆる鎖国と呼ばれる政策で
貿易統制されてた。が、当時は
生糸を輸入に頼らざるをえなかったため、
金含有量がべらぼうに多い慶長小判は
湯水のごとく海外へ流出し、あるいは
国内の裕福な商人によって蓄財されてしまった。さらに、
佐渡の金が尽きてきたのである。加えて、
家光による日光他の神社仏閣造営改築で
幕府財政は逼迫してた。
そんなときに現れたのが、下っ端旗本、勘定方、
荻原重秀(おぎわら・しげひで、西暦およそ1658-同1713)である。
とくに経済財政に英明だったからだろう、
同人は若いうちから重用された。幾多の功績で、
200俵取りの下っ端旗本が、勘定吟味、さらには、佐渡奉行、
3700石の勘定奉行にまでのぼりつめた。本日は、
その荻原重秀の不審な死から300年の日にあたる。
当時は「金および銀本位制」の通貨体制だった。
金・銀の供給量が増えない限りにおいては、
通貨供給量も増えない。つまり、必ずデフレとなる。実際、
上記のごとく、江戸開府から数十年で、
日本経済はデフレとなってたのである。
名目米経済制とはいっても実質、
貨幣経済が成長してしまった以上、
貨幣を経済に見合った分、流通させなければ、
デフレになる。
そのような状況の中で、
荻原重秀が採った政策でもっとも重要なのが、
一般にデフレ対策とされてる貨幣吹替(改鋳)である。つまり、
それまでの慶長金・銀貨に替えて、金・銀の含有量の少ないものを
鋳造・流通させたのである。これによって
インフレ率実質3パーセントとなり、商人は蓄財から投資に転じた。
そうして、いわゆる「元禄景気」となったのである。
このとき、重秀は、
「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以って
これに代えるといえども、まさに行うべし」
と言ったとされてる。これは、
西洋の近代経済学を先取りした「管理通貨制度」といえる。が、
おそらくは、各藩が実施してた「藩札」にヒントを得たものだろう。
こうした管理通貨・信用貨幣制度下においては、
実際の通貨の価値(含まれる貴金属の価値)、と、
法定の価値、という、「二重の価値」を持つことになる。だから、
仮に日本あるいは日本経済が破綻したら、
福澤先生は1万円の価値を持ち得ないばかりか、もとの
13石2人扶持にもはるかに満たない価値となる。
単独金属(アルミニウム)で作られてる1円硬貨の0.3円にすらならない。
ともあれ、
重秀の政策は当面は成功した。
幕府の財政も潤った。何事もなく
世の中が動いてれば、ある程度長続きしたかもしれない。が、
綱吉の晩年の治世は災難続きだった。
関東で元禄大地震、東海・東南海・南海で宝永大地震、
富士山の宝永大噴火、と。景気悪化によって、
さらなる改鋳を余儀なくされ、結果として
大インフレを引き起こした。そして、
重秀を目の敵にしてた新井白石は
重秀に収賄の嫌疑をかけ、
再三、家宣に重秀の罷免を迫った。ついに、
「余人を以て替え難し」だった重秀を、
家宣は罷免したのである。それから1年後、
重秀は不審な死を遂げた。
抗議の断食、自刃だったともいわれてる。
重秀を追い落とした白石も、
家宣・家継の相次ぐ死で、
紀州から将軍家に入った吉宗によって、
排斥され、その政策もことごとく廃棄された。
神田小川町の屋敷も当然に召し上げられ、
一時的に深川に転ぜられた。最終的には
内藤新宿(千駄ヶ谷)に住まいをあてがわれた。
現在の新宿御苑の千駄ヶ谷口のすぐそばである。が、
当時は畑ばかりの寂しい地区で、同じく
幕府から拝領された近所の屋敷にも
主は住んでないといった状態だった。白石も
小石川に自費で土地を買ってそちらで
重秀をはじめとした他人の悪口を書きまくって
晩年を過ごした。重秀は
真の武士らしく何も書き残さなかったが。
[思ひ出づる、折りたく柴の、夕煙。むせぶもうれし。忘れ形見に](太上天皇=後鳥羽院)
[思ひ出づる、折りたく柴と、聞くからに、たぐひも知らぬ、夕煙かな](前大僧正慈円)
ジエンど、とぞなりにける。
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