チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「防御方豊臣牢人軍団のブリッツ(クォーターバック・サック)/真田信繁(幸村)討死から400年」

2015年06月03日 14時09分34秒 | 歴史ーランド・邪図
今年の6月3日は、
慶長20年5月7日からちょうど400年の日にあたる。慶長20年5月7日は、
大阪夏の陣のハイライト、天王寺・岡山の戦いで、
(徳川方)本多忠朝(ほんだ・ただとも、西暦およそ1582-同1615)、
(大阪方)真田信繁(さなだ・のぶしげ(ゆきむら)、西暦およそ1567-同1615)、
という義理の兄弟が討死した日である。
忠朝は徳川四天王の一人、本多忠勝(ただかつ)の次男であり、
幸村は本多忠勝の長女小松殿を正室とした真田信幸(信之)の弟である。
なお、同日には徳川方の小笠原秀政(正室は家康の孫)・忠脩(ただなが)父子も
戦死(秀政は討ち取られず深手を負ったのち絶命)した。

正午から天王寺口で戦闘が始まった。
徳川方の勝ち筋であり、恩賞も期待できないため、
参陣した諸大名の武士たちの士気はあがらなかった、
と俗にいわれてるが、日本の合戦史上、もっとも凄惨をきわめた戦いだった、
ともいわれてる。
文字どおり背水の陣で臨んだ大阪方の牢人軍毛利勝永隊は、
死にものぐるいでかかっていったという。
武勇を極めた本多忠勝の次男忠朝隊は徳川方の天王寺口での先鋒として、
毛利隊と正面からぶつかり、忠朝も囲まれて討ち死にした。
忠朝隊の生き残りはたったの5人だったという。
徳川方の第二陣の小笠原父子隊も凄絶な戦いで壊滅し、
第三陣の酒井家次隊もけちらされた。そして、
隙あらばはるか後陣の家康本陣めがけるという奇襲作戦に出た。

越前松平隊と戦ってた真田信繁隊も最後の策として、
全隊が家康本陣だけをめがけて突入する、というブリッツをかけた。
この奇策は半ば功を奏した。大久保彦左衛門が残した文章によれば、
三方ケ原以来倒れたことがなかった本陣の旗が倒れ、
敗走する徳川方自身によって踏みつぶされた、のだという。
これはあまり出世しなかった彦左衛門の鬱憤混じりの
味方への皮肉からの虚飾というむきもあるが、
門外不出の書として綴られたいわゆる「三河物語」なので、
逆に信憑性があると考えられてる。また、
これだけでなく、徳川方の別の書にも
徳川方が相当な形勢不利な状況に陥ったことが書かれてるので、
おそらく本当のことだったのだろう。

ちなみに、
岡山口でも大野治房隊が秀忠の本陣へブリッツをかけた。
一時は秀忠本陣の手前まで迫ったが、前線の前田隊が戻って
将軍は救われた。ともあれ、
天王寺方面の大御所の絶体絶命のピンチを救ったのは、
立て直した越前松平隊と
横から駆けつけた赤備の井伊直孝隊だった。
信繁は疲弊して休んでたところを
松平忠直隊の鉄砲頭によって討ち取られた、とされてる。

翌日には大阪城も落ちて、豊臣家は滅んだ。戦後、
井伊家は徳川譜代筆頭として、
外様ながら家康の信任厚く大阪の陣でも多大の戦死者を出した藤堂家は
ほとんどことなく幕末まで続くが、
松平忠直はその功労への評価が低いことに不満で行状悪く、
改易され、越前松平家自体も再三の転封・減封を受けることになる。

我が真田本家(信之)も、長男信吉・次男信政が"病気"の信之に代わって参陣し、
信繁と内通してないという証のために首級をごまかすことなく、
あげた首級より取られた首級のほうが上回る、という凄絶な戦いをした。

また、このブリッツによって家康は討たれた、
という俗説がある。首のない家康の死骸は前線から遠く離れた
堺の南宗寺への運び込まれ、家康と容姿が似てたといわれる
小笠原秀政の首をすげつけたという。ために、
秀政は敵に深手を負わされたのではなく、
自ら身代わり(首代わり)になった、という。
戦後8年めの元和9年(西暦およそ1623年)、
秀忠は将軍職を家光に譲り、その将軍宣下のために
秀忠・家光は6月に上洛した。
宣下前の7月に秀忠が、宣下後の8月には家光が、
「おじゃましますっ!」とばかりにそれぞれ
南宗寺に詣でてるのである。
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