[Chateau Margaux et Mme du Barry]
8月19日は、ダイクの日、ではなく、バイクの日、なんだそうである。
ハイクの日でもあるらしい。街を徘徊でもするんだろう。
パリがナチスによって陥落して占領されてた間に年下でイケメンの
ナチス親衛隊将校の愛人として"おいしい生活"を送ったとして
フランスでは軽蔑されてるココ・シャネルの誕生日、でもある。が、
なんといっても8月19日といえば、ルイ15世の公妾だった
Comtesse du Barry(コンテス・デュ・バリ=デュ・バリ伯爵夫人)
=Marie Jeanne Becu(マリ・ジャンヌ・ベキュ)(1743-1793)
の誕生日である。ちなみに、
「マリ・アントワネットの首飾りスキャンダル」の首飾りは、もともと、この
デュ・バリ伯爵夫人のためにルイ15世が宝石商に作らせてたものである。
母アンヌの私生児としてシャンパニュ地方に生まれたマリ・ジャンヌは、
お針子・娼婦・囲われ者になるべくしてなる環境で育った。あの
「ポンパドゥル方式」(日本名=紅葉合わせ、私は嫌い)と呼ばれる
テクニックで虜になってた公妾ポンパドゥル侯爵夫人が亡くなって以来、
寂しい生活を送ってたルイ15世に、
その"後釜"をあてがえば出世間違いなし、と目論んでた
ジャン・バティスト・デュ・バリ子爵によってマリ・ジャンヌは"発掘"された。まず、
子爵は同女を囲って、周旋する男と寝させた。が、
子爵には妻子があるので、マリ・ジャンヌを妻にして王に差し出す、
というポンパドゥル侯爵の方式は踏襲できない。で、
田舎暮らしをしてる次弟ギヨムに娶す。
このシュヴァリエでしかなかった弟ギヨムが王によって伯爵に叙せられ、
マリ・ジャンヌは正式にその「夫人」となった。そして、
子爵のジャン・バティストもその「功績」によって伯爵に昇爵された。
結婚式が済むと、ギヨム・デュ・バリ伯爵は「御役目御免」で
トゥルズに戻り、悠々自適の人生を歩む。いっぽう、
その「夫人」マリ・ジャンヌは宮廷に入るのである。但し、
「公妾への道のり」はけっして簡単なものではなかった。
有力貴族の横槍が入るのである。が、
やっぱリ主流のリシュリュが味方についてるデュ・バリ勢は、
1769年、マリ・ジャンヌをめでたくルイ15世の公妾に就かせる。
マリ・ジャンヌがルイ15世の公妾だったのはたったの5年ほどだった。
ルイ15世が1774年に天然痘に罹って64歳で死去したからである。が、
その間にデュ・バリ伯爵夫人は「地位」を築いた。かつて、
前の公妾ポンパドゥール侯爵夫人が宮廷に広めたヴァン(ワイン)は、
シャトー・ラフィットだった。それに対抗してか、デュ・バリ伯爵夫人は、
シャトー・マルゴーを持ち込んだ。そして、その
「味」を貴族らに認知させたのである。夫人とシャトーの繋がりは、
時の所有者ジョセフ・ドゥ・フュメルの姪ロルと結婚したのが、
ジャン・バティストとギヨムの弟であるエリ・デュバリ伯爵だったことにあった。
このジョセフ・ドゥ・フュメルはシャトー・オブリヨンも所有してた。ともあれ、
娼婦や妾を毛嫌いしてたマリ・アントワネットを憚って
アルジクル伯爵と改爵名したエリ・デュバリ伯爵であるが、革命で
ジャコバン派によってギロチンにかけられる。舅の
ジョセフ・ドゥ・フュメルも74歳の老齢で断頭台に送られた。そして、
シャトーは革命政府に没収され、競売にかけられる。
さて、
ルイ15世が死去しても、日本のようには
髪をおろして仏門に入ることも仏国ではなかった。
デュ・バリ伯爵夫人はその後も男を作る。そのうちの大物が、
貴族制度はなくなってても実質現在もその家は続いてる
ブリサック公爵だった。そのパリの館で宴が開かれてる間に、
ルヴスィエンヌ(パリの西20km、ヴェルサイユの北8km)の夫人の館から
宝石が盗まれた。下手人はロンドンで捕まる。
夫人はすぐさまロンドンに向かう。が、盗品は戻らなかった。やがて、
ブリサック公爵は国王の近衛隊隊長となる。が、革命の嵐の中、
隊は解散。ブリサックも逮捕の対象となる。そして、
捕まり、オルレアンに連行され、またパリに向けて移される。が、
連行されるブリサック公爵をパリからやってきた民衆が
ヴェルサイユで襲う。ブリサック公爵は民衆に虐殺され、
首を切り落とされ、それに名札を付けられて鎗に突き刺され、
民衆は囃し歌を歌いながらそれを高く掲げて
ルヴスィエンヌに行進した。そして、その愛人の無惨な首を
鎗からはずして伯爵夫人の目の前に置いた。
卒倒する夫人を嘲笑いながら、民衆は囃し歌を歌いながら
立ち去っていったという。
その後、夫人は再びロンドンに向かう。そして、
数ヶ月でまたルヴスィエンヌに戻る。が、
ルサンティマンたっぷりの英国人によって、
夫人は革命裁判所に訴えられる。逮捕状が発行され、
夫人は取り押さえられる。
ブリサック公爵を失ったすぐ後だというのに、もうその頃には、
夫人には"最後"の愛人がいた。ともあれ、
逮捕され名ばかりの裁判にかけられた以上、
夫人にはギロチンが待ってるばかりである。
裁縫と女を売ることしかなかった女性が、
英国のスパイに仕立て上げられてたのである。
死刑の判決が下る。持ってるありったけの
宝石・貴金属のありかを言えば許してもらえると思った夫人は、
すべて告白する。が、
しゃべったところで許されるはずもない。
恐怖政治によって断頭台に送られたのは、
持たざる者が妬み、偏執的なルサンティマンを抱いてた対象だった
貴族や大金持ちがほとんどだった。だから、
彼らは殺されるにしてもそれなりの矜持を備えてた。だから、
ギロチンにかけられるときにじたばたなどしなかった。
毅然とした態度で首を刎ね落とされたのである。が、
彼らとはお郷が異なるデュ・バリ伯爵夫人はまったく違ってた。
処刑場に護送される荷車は、
シャトー・マルゴーというよりはトウマルカゴといったものだったが、夫人は
取り乱し泣きわめき、野次馬らにも「助けて、助けてー!」と喚き叫ぶ。
かつて肉体関係を持った間柄の処刑人シャルル・アンリ・サンソンにも
体を張った命乞いをする。サンソンもさすがにその慟哭に堪えれず、
倅のアンリ・サンソンに処刑執行を代行させた。
切断された夫人の首からはシャトー・マルゴーの赤より
鮮烈な赤い血が噴出し迸ったという。
1793年12月7日。50歳だった。
8月19日は、ダイクの日、ではなく、バイクの日、なんだそうである。
ハイクの日でもあるらしい。街を徘徊でもするんだろう。
パリがナチスによって陥落して占領されてた間に年下でイケメンの
ナチス親衛隊将校の愛人として"おいしい生活"を送ったとして
フランスでは軽蔑されてるココ・シャネルの誕生日、でもある。が、
なんといっても8月19日といえば、ルイ15世の公妾だった
Comtesse du Barry(コンテス・デュ・バリ=デュ・バリ伯爵夫人)
=Marie Jeanne Becu(マリ・ジャンヌ・ベキュ)(1743-1793)
の誕生日である。ちなみに、
「マリ・アントワネットの首飾りスキャンダル」の首飾りは、もともと、この
デュ・バリ伯爵夫人のためにルイ15世が宝石商に作らせてたものである。
母アンヌの私生児としてシャンパニュ地方に生まれたマリ・ジャンヌは、
お針子・娼婦・囲われ者になるべくしてなる環境で育った。あの
「ポンパドゥル方式」(日本名=紅葉合わせ、私は嫌い)と呼ばれる
テクニックで虜になってた公妾ポンパドゥル侯爵夫人が亡くなって以来、
寂しい生活を送ってたルイ15世に、
その"後釜"をあてがえば出世間違いなし、と目論んでた
ジャン・バティスト・デュ・バリ子爵によってマリ・ジャンヌは"発掘"された。まず、
子爵は同女を囲って、周旋する男と寝させた。が、
子爵には妻子があるので、マリ・ジャンヌを妻にして王に差し出す、
というポンパドゥル侯爵の方式は踏襲できない。で、
田舎暮らしをしてる次弟ギヨムに娶す。
このシュヴァリエでしかなかった弟ギヨムが王によって伯爵に叙せられ、
マリ・ジャンヌは正式にその「夫人」となった。そして、
子爵のジャン・バティストもその「功績」によって伯爵に昇爵された。
結婚式が済むと、ギヨム・デュ・バリ伯爵は「御役目御免」で
トゥルズに戻り、悠々自適の人生を歩む。いっぽう、
その「夫人」マリ・ジャンヌは宮廷に入るのである。但し、
「公妾への道のり」はけっして簡単なものではなかった。
有力貴族の横槍が入るのである。が、
やっぱリ主流のリシュリュが味方についてるデュ・バリ勢は、
1769年、マリ・ジャンヌをめでたくルイ15世の公妾に就かせる。
マリ・ジャンヌがルイ15世の公妾だったのはたったの5年ほどだった。
ルイ15世が1774年に天然痘に罹って64歳で死去したからである。が、
その間にデュ・バリ伯爵夫人は「地位」を築いた。かつて、
前の公妾ポンパドゥール侯爵夫人が宮廷に広めたヴァン(ワイン)は、
シャトー・ラフィットだった。それに対抗してか、デュ・バリ伯爵夫人は、
シャトー・マルゴーを持ち込んだ。そして、その
「味」を貴族らに認知させたのである。夫人とシャトーの繋がりは、
時の所有者ジョセフ・ドゥ・フュメルの姪ロルと結婚したのが、
ジャン・バティストとギヨムの弟であるエリ・デュバリ伯爵だったことにあった。
このジョセフ・ドゥ・フュメルはシャトー・オブリヨンも所有してた。ともあれ、
娼婦や妾を毛嫌いしてたマリ・アントワネットを憚って
アルジクル伯爵と改爵名したエリ・デュバリ伯爵であるが、革命で
ジャコバン派によってギロチンにかけられる。舅の
ジョセフ・ドゥ・フュメルも74歳の老齢で断頭台に送られた。そして、
シャトーは革命政府に没収され、競売にかけられる。
さて、
ルイ15世が死去しても、日本のようには
髪をおろして仏門に入ることも仏国ではなかった。
デュ・バリ伯爵夫人はその後も男を作る。そのうちの大物が、
貴族制度はなくなってても実質現在もその家は続いてる
ブリサック公爵だった。そのパリの館で宴が開かれてる間に、
ルヴスィエンヌ(パリの西20km、ヴェルサイユの北8km)の夫人の館から
宝石が盗まれた。下手人はロンドンで捕まる。
夫人はすぐさまロンドンに向かう。が、盗品は戻らなかった。やがて、
ブリサック公爵は国王の近衛隊隊長となる。が、革命の嵐の中、
隊は解散。ブリサックも逮捕の対象となる。そして、
捕まり、オルレアンに連行され、またパリに向けて移される。が、
連行されるブリサック公爵をパリからやってきた民衆が
ヴェルサイユで襲う。ブリサック公爵は民衆に虐殺され、
首を切り落とされ、それに名札を付けられて鎗に突き刺され、
民衆は囃し歌を歌いながらそれを高く掲げて
ルヴスィエンヌに行進した。そして、その愛人の無惨な首を
鎗からはずして伯爵夫人の目の前に置いた。
卒倒する夫人を嘲笑いながら、民衆は囃し歌を歌いながら
立ち去っていったという。
その後、夫人は再びロンドンに向かう。そして、
数ヶ月でまたルヴスィエンヌに戻る。が、
ルサンティマンたっぷりの英国人によって、
夫人は革命裁判所に訴えられる。逮捕状が発行され、
夫人は取り押さえられる。
ブリサック公爵を失ったすぐ後だというのに、もうその頃には、
夫人には"最後"の愛人がいた。ともあれ、
逮捕され名ばかりの裁判にかけられた以上、
夫人にはギロチンが待ってるばかりである。
裁縫と女を売ることしかなかった女性が、
英国のスパイに仕立て上げられてたのである。
死刑の判決が下る。持ってるありったけの
宝石・貴金属のありかを言えば許してもらえると思った夫人は、
すべて告白する。が、
しゃべったところで許されるはずもない。
恐怖政治によって断頭台に送られたのは、
持たざる者が妬み、偏執的なルサンティマンを抱いてた対象だった
貴族や大金持ちがほとんどだった。だから、
彼らは殺されるにしてもそれなりの矜持を備えてた。だから、
ギロチンにかけられるときにじたばたなどしなかった。
毅然とした態度で首を刎ね落とされたのである。が、
彼らとはお郷が異なるデュ・バリ伯爵夫人はまったく違ってた。
処刑場に護送される荷車は、
シャトー・マルゴーというよりはトウマルカゴといったものだったが、夫人は
取り乱し泣きわめき、野次馬らにも「助けて、助けてー!」と喚き叫ぶ。
かつて肉体関係を持った間柄の処刑人シャルル・アンリ・サンソンにも
体を張った命乞いをする。サンソンもさすがにその慟哭に堪えれず、
倅のアンリ・サンソンに処刑執行を代行させた。
切断された夫人の首からはシャトー・マルゴーの赤より
鮮烈な赤い血が噴出し迸ったという。
1793年12月7日。50歳だった。
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