チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ベートーベン作詞『第九のレチタティーヴォ』とアッポッジャトゥーラ」

2010年08月18日 00時46分30秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般

ベートーヴェン 第9 レチタティーヴォ


[フルトヴェングラーのタクトはbarytonを前にムチの如く撓る]
あるいは、
[無知蒙昧な指揮者による第九を神のように崇めるは、シラーぬが仏也]

8月18日はアントーニオ・サリエーリ(いわゆる、サリエリ)の誕生日である(1750年)。
サリエリといってもサトエリともフカエリとも関係ないし、どんなに顔が似てても
向井万起男も無縁である。ちなみに、私は
フカエリよりもフカヒレのほうが好きである。それはどうでも、
ボンから気仙沼経由でヴィーンに出てきたベートーヴェンは、
時の第一人者、サリエーリが慈善でやってた
若手作曲家のための無料指導で、イタリアの声楽の作曲法全般を学んだ。
1798年にベートーヴェンはop.12のヴァイオリン・ソナータ3曲を「師」に献呈した。
それから四半世紀。1824年は、
サリエーリがヴィーンの宮廷楽長を退いた年であるが、
「第九」はその年、サリエーリが亡くなるちょうど1年前の
1824年5月7日に初演された。ちなみに、この
グリゴーリオ暦の5月7日という日は、
ブラームスとチャイコフスキーの誕生日でもある。

「第九」の第4楽章に使われてる詩は、
シラーの"An die Freude(アン・ディ・フロイデ=歓喜に)"である。が、
声楽が出てくる真っ先に詠じられるのは、
フリートリヒ・フォン・シラーの手になるものではなく、
ベートーヴェンが作詞して付け足した
バリトンのrecitativo(レチタティーヴォ=叙唱)である。

[(Prestoの)Recitativo、3/4拍子、1♭(ニ短調)]、***♪
a(ミ)ー|<e(シ)ー・ーー・ーー|ーー・>d(ラ)>cis(♯ソ)・<d(ラ)<e(シ)|
e(シ)ー・>g(レ)ー・●g(レ)|<b(ファ)ー・ーー・>a(ミ)>e(シ)|
<【f(れ)ー・f(ド)ー】♪
O Freunde, nicht diese To(e)ne!
Sondern lasst uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.

o(オー)=間投詞「おお」
Freunde(フロインデ)=男性名詞Freund(フロイント=「友」)の複数第1格「友ら」
nicht(ニヒト)=否定を表す副詞「~でなくて」
diese(ディーゼ)=指示代名詞dieser(ディーザー)の複数4格「これらの(~を)」
To(ウムラオト)ne(テーネ)=男性名詞Ton(トーン=音)の複数4格「調べを」
sondern(ゾンデルン)=接続詞「そうではなく」
lass(エスツエット)t(ラスト)=使役動詞lassen(ラッセン=させる)の
          親称複数二人称ihr(イーア=君ら)に対する命令形
uns(ウンス)=人称代名詞複数二人称wir(ヴィーア=私たち)の3格「私たちに」
lassen uns 動詞不定形→私たちに不定形動詞させる
           →不定形動詞しよう(英語のlet us 動詞不定形)
angenehmere(アンゲネーメレ)=形容詞angenehm(アンゲネーム=はれやかな)の比較級
            angenehmerの複数4格
anstimmen(アンシュティメン)=動詞anstimmen(歌いだす)の不定形
und(ウント)=接続詞「且つ」
freudenvollere(フロイントフォレレ)=freudenvoll(フロイントフォル=喜びにあふれた)の比較級
              freudenvollerの複数4格
(通し拙大意)
おお、諸君。(我らが歌うのは)このような調べではない!
そうじゃなくて、もっとはれやかな調べを
歌おうではないか。もっと喜びに満ちた調べを。

上記の「カナ英字混じり楽譜」で【】で囲った箇所は、
【Tone(テーネ)】(oのウムラオトは省略)という語が当てられてる。そして、
ベートーヴェンはここを【fー・fー】と記譜した。これは、
自筆譜、初版譜、プロイセン王フリートリヒ・ヴィルヘルム3世への献呈譜、
などベートーヴェン自身が関わったすべての譜面でそのように記されてる。が、
これを【譜面通り】【額面通り】に歌ったのでは、
バリトンがバリバリにトンマと自嘲してることになるのである。ここは、
【G(れ)ー・>f(ド)ー】
のように【倚音】として歌わなければ、あるいは、
そう歌わせない指揮者は、誤りである。

上記のように、ベートーヴェンはイタリア人サリエーリから、
イタリアの声楽曲の作曲法を伝授されてるのである。
オペラやオラトリオのレチタティーヴォにおける
appocgiatura(アッポッジャトゥーラ)である。ここで、
この声楽のアッポッジャトゥーラに触れる前に、予備知識を。

曲が終止する際、
【属和音→主和音】
と【解決】するのが音楽の基本で、
【完全終止】という。だから、たとえば、3拍子で
[***♪【属和音】ミー<♯ソー<シー|【主和音】>ラーーーーー]
なんて終わる曲があるとすれば、それはまさに
終わりから2番めの小節から最後の小節に
【属和音→主和音】と進行する【完全終止】である。が、
これだと、あまりきっちりしすぎてて味気なく、
区切りという感じが薄い。なので、
「装飾音を多用する」風潮が盛んになった。いっぽう、
「非和声音を効果的に用いる」流れも主流になる。たとえば、
上記の終止を
[***♪【属和音】ミー<♯ソー<シ>ラ|【主和音】ラーーーーー]
と、ラを最後の小節の前にあらかじめ置いて先取ってしまえば、
それは前の小節の【属和音】の非和声音となる。それは、
「先取音」という。また、
[***♪【属和音】ミー<♯ソー<シー|【主和音】>ラ>♯ソ<ラーーー]
なんてすれば、それは「刺繍音」という非和声音であり、
[***♪【属和音】ミー<♯ソー<シー|【主和音】ーー>ラーーー]
と、シを次小節の強拍にまでひっぱれ(掛留すれ)ば、
その拍ですでに和声は主和音に変じてるので、
「掛留音」という非和声音になる。それから、
掛留せずに切って、
[***♪【属和音】ミー<♯ソー<シー|【主和音】シー>ラーーー]
と強拍に打ち込むと、さらにいっそう「非和声音」感が増大する。
これを【倚音=appocgiatura(アッポッジャトゥーラ)】という。

appocgiaturaはappocgiare(アッポッジャーレ=寄りかかる、もたれる)
という動詞から派生した語である。
recitativo secco(セッコ=乾いた=いろいろとくっついてない、という意味
→伴奏が基本的にチェンバロが分散和音を鳴らすだけ)では、
歌手はその質素な伴奏で音を取り、その和声的背景を知覚する。が、
まったくのアカペラの場合には、実音どおりに記譜すると、
和声的背景が飲み込めない場合がある。というよりも、
和声的背景を取り違えそうな倚音の場合にのみ、
このような記譜がなされるのである。だから、
【gー・>fー】
と記譜してしまったら、歌い手はその
第1拍(gー)と第2拍(fー)とでは異なる和声に乗ってるものと
勘違いしてしまうおそれがある。反対に、たとえば、
an『stimmen』の箇所では、
(実質、嬰ヘ短調)、***♪
fis(ラ)>e(ソ)|>『cis(ファ)ー・cis(ミ)ー』♪
ではなく、
(実質、嬰ヘ短調)、***♪
fis(ラ)>e(ソ)|>『d(ファ)ー・>cis(ミ)ー』♪
と、上記3媒体すべてにベートーヴェンは記譜した。すなわち、
d(ファ)の音は次ぎのcis(ミ)の音が属する和音とは別の和音、
だということなのである。それは、
[ラ>ソ|>ミーーー]
なんていう節は存在しえない、ということと同値である。逆にいえば、
[ファー・ーー・>ミ>シ|<【ドー・ーー】]
という形は【倚音】を施さない【本来の姿】であり、
それは存在するものなのである。

Tone(テーネ、oのウムラオトは省略)の箇所をベートーヴェンは、
【fー・fー】
と歌い手と共通する認識上の記譜をすることによって、
これで【gー>fー】と歌っテーネ、とアッポッジャトゥーラを意図したのである。
テーネーさを欠いたわけではない。超高知能のベートーヴェンを
まるでバカのように思ってるむきがあるようだが、
バカ・マヌケ・トンマ・トンチキ・ヌケ・ワワケ・ウツケ・テイノウ・ファイラー・スチュッピドなのは、
この箇所をバリトンが【fー・fー】と歌っても気にもせず、
偉大なるベートーヴェンの音楽を貶めて平気な神経の、
フルトヴェングラーなどという輩のことである。もっとも、
そんなまがい物でもいいという信者の需要があるならバ、イロイロト、
何でもやってもいっこうに構わないが、
無知な似非プロが無垢なアマに過ちや無知や不勉強を押しつけるのは、
どうかと思う。それにしても、こんなことすら知らない輩が
「二十世紀最大の指揮者」などというのだから情けない。

まぁ、そんなおそまつなことはどうでも、
ダジャラーな私はこんなことを強く感じる。
器楽だけの箇所でチェロ+コントラバスがこのbarytonのレチタティーヴォを代弁する。
(第1楽章)否定→(第2楽章)否定→(第3楽章)否定、そして、
最後に「歓喜の主題」に賛同する。
これはペテロがイエスを知らないと3度否定したことの譬えであり、
クリスチャンとしてのベートーヴェンの「イエスの受難と復活」感である、と。
[nicht diese G-F(記譜はF-F)]
というように、Toneの歌詞にアッポッジャトゥーラを充てたことで、
Fだけでは複数にならない、GとFだからこそ
TonではなくToneなのだ、とベートーヴェンは言葉遊びもしてる、と。
また、
barytonがレチタティーヴォを唱するときにも、
「ニ短調(モーツァルトの死の調)」で否定し、
その主音dの対極音であるgisを、
次の言葉であるsondernに充ててるのである、と。

なお、後年、リストが「第九」のpf編曲をしたが、そこで、
このbarytonのrecitativoの箇所を
【fー・fー】ではなく【gー>fー】としたのは、
当然である。ピアノ用に編んだのであるから、
そこはもう声楽ではないからである。
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