百人一首に採られてる人物の「詠み人名」で、
「大臣」と称されてるのは、
#014(秀歌=#0017)河原左大臣(=源融)
#025(秀歌=#0035)三条右大臣(=藤原定方)→さねかづら
#076(秀歌=#0079)法性寺入道前関白太政大臣(=藤原忠通)→漕ぎ出でて
#081(秀歌=#0086)後徳大寺左大臣(=藤原実定)
#091(秀歌=#0095)後京極摂政前太政大臣(=藤原良経)
#093(秀歌=#0098)鎌倉右大臣(=源実朝)
#096(秀歌=#0101)入道前太政大臣(=藤原公経)
の7名である。このうち、
「右大臣」なのは、
一首#025三条右大臣
一首#093鎌倉右大臣
の二人である。
#025三条右大臣の歌=
[名にし負はば、逢坂山の、【さね】かづら、人に知られで、くるよし「もがな」]
#093鎌倉右大臣の歌=
[世の中は、常に「もがもな」。渚漕ぐ、あまの小舟の、綱手かなしも]
「もがな」「もがもな」が共通してる。
「も」(係助詞)+「が」(終助詞)→「もが」(願望を表す終助詞)
「もが」+「な」(詠嘆を表す終助詞)→「もがな」(非現実の願望を表す終助詞)
(#025拙大意)逢うという名前を持ってるのだから、
逢坂山のサネカズラ(実葛)のツルをたぐればこちらに来るように、
誰にも知られずにあなたを
こちらにたぐり寄せる方法があったらいいのになあ。
(#093拙大意)この世の中は常世に変わらないでほしいことだなあ。
波打ち際を漕ぐ漁師が小さな舟の舳先に綱をつけて引いて
岸に舟を寄せる姿は胸にジーンとくることだなあ。
この二人はともに「次男」である。そして、
三条右大臣の歌には【実】という言葉が入ってる。対して、
鎌倉右大臣の諱は【実】朝である。
いっぽう、
上記7名のうち、百人一首の歌番号が平方数な
#025(5^2)と#081(9^2)を比べてみると、その歌人の諱はそれぞれ、
藤原『定』方と藤原【実】『定』である。
藤原実定は徳大寺家であり、通字が「公」【実】であり、
源頼朝と繋がってた公家である。
さて、
サネとは植物の果実の芯(=真=核)、つまり、種(タネ)のことである。また、
「さ寝」で男女が共に寝る(共寝)という意味がある。そして、
シモネタで恐縮であるがサネは陰核をも意味する。だから、
サネカヅラが#025の歌でただの掛詞以上の意味を持つのである。
実朝には自分の身を引いて接岸するような綱、
よすがががなかったのである。実朝の歌には、
このように歌に昇華させた慟哭が込められてる。それが、
「かなし」く響いてるのである。古文の
「かなし」という形容詞は、
「かな」という詠嘆・感動の終助詞が
形容詞化したものである。それは、
チャイコフスキーが自ら最後の交響曲に付けた
「パチェチーチェスカヤ・スィンフォーニヤ」のパチェチーチェスキー、
パテティクに似てる感情である。
かわいいものに対して抱く感情も、
胸が掻き乱されるくらいのいとおしさからくるものだからである。
それが失われてしまったら心が張り裂けそうになるほどの
感情がわきあがるものである。
「大臣」と称されてるのは、
#014(秀歌=#0017)河原左大臣(=源融)
#025(秀歌=#0035)三条右大臣(=藤原定方)→さねかづら
#076(秀歌=#0079)法性寺入道前関白太政大臣(=藤原忠通)→漕ぎ出でて
#081(秀歌=#0086)後徳大寺左大臣(=藤原実定)
#091(秀歌=#0095)後京極摂政前太政大臣(=藤原良経)
#093(秀歌=#0098)鎌倉右大臣(=源実朝)
#096(秀歌=#0101)入道前太政大臣(=藤原公経)
の7名である。このうち、
「右大臣」なのは、
一首#025三条右大臣
一首#093鎌倉右大臣
の二人である。
#025三条右大臣の歌=
[名にし負はば、逢坂山の、【さね】かづら、人に知られで、くるよし「もがな」]
#093鎌倉右大臣の歌=
[世の中は、常に「もがもな」。渚漕ぐ、あまの小舟の、綱手かなしも]
「もがな」「もがもな」が共通してる。
「も」(係助詞)+「が」(終助詞)→「もが」(願望を表す終助詞)
「もが」+「な」(詠嘆を表す終助詞)→「もがな」(非現実の願望を表す終助詞)
(#025拙大意)逢うという名前を持ってるのだから、
逢坂山のサネカズラ(実葛)のツルをたぐればこちらに来るように、
誰にも知られずにあなたを
こちらにたぐり寄せる方法があったらいいのになあ。
(#093拙大意)この世の中は常世に変わらないでほしいことだなあ。
波打ち際を漕ぐ漁師が小さな舟の舳先に綱をつけて引いて
岸に舟を寄せる姿は胸にジーンとくることだなあ。
この二人はともに「次男」である。そして、
三条右大臣の歌には【実】という言葉が入ってる。対して、
鎌倉右大臣の諱は【実】朝である。
いっぽう、
上記7名のうち、百人一首の歌番号が平方数な
#025(5^2)と#081(9^2)を比べてみると、その歌人の諱はそれぞれ、
藤原『定』方と藤原【実】『定』である。
藤原実定は徳大寺家であり、通字が「公」【実】であり、
源頼朝と繋がってた公家である。
さて、
サネとは植物の果実の芯(=真=核)、つまり、種(タネ)のことである。また、
「さ寝」で男女が共に寝る(共寝)という意味がある。そして、
シモネタで恐縮であるがサネは陰核をも意味する。だから、
サネカヅラが#025の歌でただの掛詞以上の意味を持つのである。
実朝には自分の身を引いて接岸するような綱、
よすがががなかったのである。実朝の歌には、
このように歌に昇華させた慟哭が込められてる。それが、
「かなし」く響いてるのである。古文の
「かなし」という形容詞は、
「かな」という詠嘆・感動の終助詞が
形容詞化したものである。それは、
チャイコフスキーが自ら最後の交響曲に付けた
「パチェチーチェスカヤ・スィンフォーニヤ」のパチェチーチェスキー、
パテティクに似てる感情である。
かわいいものに対して抱く感情も、
胸が掻き乱されるくらいのいとおしさからくるものだからである。
それが失われてしまったら心が張り裂けそうになるほどの
感情がわきあがるものである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます