今日は、江戸時代中後期の幕臣(大阪奉行所の定番)、
高橋至時(たかはし・よしとき、現行暦およそ1764-同1804)の
生誕250年にあたる日である。算術が得意だった同人は、
公儀が外してしまった宝暦年間の日食を予告的中させた
ディレッタントの天文学者麻田剛立のもとで暦学や天文学を学んだ。
折しも改暦を図ってた幕府によって、
固辞した師の推薦で江戸に呼び出され、やがて
天文方となった。そして、
「寛政暦」(現行暦およそ1798-同1844)を完成させた。この暦の特徴は、
月や太陽の位置計算を楕円軌道論に則ってることである。つまり、
西洋の暦法を採り入れたのである。
ちなみに、
至時生誕250年の今日はまた「朔旦冬至」にあたる。
冬至が11月1日(朔日)にあたることであるが、
(cf;「第62回伊勢神宮内宮遷宮、遷御の儀/持統天皇と朔旦冬至」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/ab74034105012d6dbf11c157c76cd897 )
現在の「朔旦冬至」は、上記「寛政暦」を46年後に改編した「天保暦」をさらに
現代の科学で修正したいわゆる「旧暦」で計算したものである。
高橋至時はこうして「寛政暦」のメイン編纂者として名を残すことになったが、
もうひとつ、重要なことがある。それは、
51歳の伊能忠敬を弟子にしたことである(至時は当時32歳)。
これによっていわゆる「伊能図」は誕生することになったのである。現在、
東上野の源空寺の至時の墓の向かって右隣に(燈籠を挟んで)忠敬の墓がある。
高橋至時(たかはし・よしとき、現行暦およそ1764-同1804)の
生誕250年にあたる日である。算術が得意だった同人は、
公儀が外してしまった宝暦年間の日食を予告的中させた
ディレッタントの天文学者麻田剛立のもとで暦学や天文学を学んだ。
折しも改暦を図ってた幕府によって、
固辞した師の推薦で江戸に呼び出され、やがて
天文方となった。そして、
「寛政暦」(現行暦およそ1798-同1844)を完成させた。この暦の特徴は、
月や太陽の位置計算を楕円軌道論に則ってることである。つまり、
西洋の暦法を採り入れたのである。
ちなみに、
至時生誕250年の今日はまた「朔旦冬至」にあたる。
冬至が11月1日(朔日)にあたることであるが、
(cf;「第62回伊勢神宮内宮遷宮、遷御の儀/持統天皇と朔旦冬至」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/ab74034105012d6dbf11c157c76cd897 )
現在の「朔旦冬至」は、上記「寛政暦」を46年後に改編した「天保暦」をさらに
現代の科学で修正したいわゆる「旧暦」で計算したものである。
高橋至時はこうして「寛政暦」のメイン編纂者として名を残すことになったが、
もうひとつ、重要なことがある。それは、
51歳の伊能忠敬を弟子にしたことである(至時は当時32歳)。
これによっていわゆる「伊能図」は誕生することになったのである。現在、
東上野の源空寺の至時の墓の向かって右隣に(燈籠を挟んで)忠敬の墓がある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます