チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「山路来て、何やらゆかし、すみれ草(芭蕉)/心臓破りの丘と逢坂関」

2013年04月21日 23時52分06秒 | 歴史ーランド・邪図
ボストン・マラソンでの爆弾テロの容疑者が射殺され、
残りのもう一人も捕まったらしい。
その報に、ボストン市民が熱狂的な歓喜の声をあげてる映像も
流されてた。この犯人兄弟は、
ロシア(プーチン)の天敵であるチェチェンの出身だということである。
NHK-BSで今年の1月から3月にかけてその
第1スィーズンが放送されてた
"Rizzoli & Isles(リゾーリ&アイルズ)"という
ボストンを舞台にした女刑事と女検察医のドラマの
第7話"Born to Run(邦題=デス・レース)"(2011年製作)は、
ボストン・マラソン開催中にランナーの連続射殺事件が起こる、
というネタだった。
検察医のアイルズ先生が刑事のリゾーリを誘って、
"Professionals for Underprivileged Kids of Excellence"
(優秀なのに金銭的に恵まれない子供たちを救うチーム)
の略という"P.U.K.E."の文字入りのユニフォームで走って
チャリティにしようということになった。その
"puke(ピューク)"とは「ゲロ」という意味でもある。ともあれ、
15年前にレイプされてその後自殺した女性の妹が
マラソンに参加してるレイプ犯らに復讐したという
状況の話だった。

貞享元年(西暦およそ1684年)の8月から翌年4月にかけて、
芭蕉は前年に死んだ母親の墓参り目的で
江戸から故郷の伊賀上野への旅をした。その往復間の紀行は、
「野ざらし紀行」あるいは「甲子吟行」と呼ばれてる。
この中の句でもっとも著名なのが、
[山路来て、何やらゆかし、すみれ草]
である。芭蕉は、この旅の帰途、
熱田の法持寺に参詣した際に催された三人連歌の会で、
[何とはなしに、何やら床し、菫草]
という発句を詠んだ。この会に参加した一人で
芭蕉の弟子だった林桐葉(はやし・とうよう)の娘で
早世した佐与(さよ)を想定して詠んだということである。
これを元にして、江戸に帰還してから芭蕉は
[山路来て、何やらゆかし、すみれ草]
としたのである。これを、
北村湖春(きたむら・こしゅん)は、
<菫は山によまず。芭蕉翁、
俳諧に巧みなりといへども、歌学なきの過ちなり>
と批判した。対して、芭蕉の弟子
向井去来(むかい・きょらい)は、
<山路に菫をよみたる証歌多し。湖春は地下の歌道者なり。
いかでかくは難じられけん。おぼつかなし>
と反論した。が、
そのような論議は不毛である。
和歌ではスミレを山と一緒に詠まなかったかもしれないが、
芭蕉は俳句である。歌の伝統を守るよりむしろ
型を破るのがその芸風ともいえる。

(以下はドシロウトの私の見解である)
この「山路でスミレ」は想像上のものである。
「幽蘭集」に収められてる
この"野ざらし紀行時の貞亨2年3月の尾張あたりでの句に、
[思ひ立つ、木曽や四月の、桜狩り]
というものがある。
桜狩りとは3月のものなのだが、"高地"である
木曽路では4月でも桜が咲いてることを期待して
こう詠んだのである。そして実際、
中山道(木曽路)に歩を進めたのである。だから、
逢阪の関を越える際の句としたことは実態とは異なるとはいえ、
[山路来て、何やらゆかし、すみれ草]
の拙大意はこうなる。
「木曽路という山路を進みたかったことである。が、
それ以前に逢うという名のごとく、人々が行き交う
逢坂の関を通った私は、母の死のみならず、
この世での出逢い、そして別れはまた、
人の定めなことであるをあらためて実感した。
桜も野なら4月には見れないが、 山路なら見れる。
世の中とはそうした巡り合わせなものである。そして、
今は山路にあるからこそ時節遅れの桜は見ることができたが、
逆に野辺に咲くスミレは見ることができない。
こうして桜を堪能しながらそのいっぽうで、
野に咲くスミレが見たいとなぜか
しみじみと思うことであるなぁ」
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