スミレの花咲く頃 宝塚 阪急
今日はなんだかずいぶんと"清々した"日である。
なにかイヤなものがひとつ消え失せたとか、
遠ざかったとか、そんな晴ればれしい気分である。
先日、六本木の母のマンションに立ち寄ったとき、途中の道で
ジローラモ・パンツェッタを見た。意外にちっちゃかった。
素足にモカシンという出で立ちで歩いてた。
こうしたシャレもののイタリア野郎を真似たのが、最近は、
タレントのすみれ女史の父親としてTVに出ることも多い
石田純一である。ちなみに、
すみれ女史の母方は、元女優の松原千明女史である。
その父は俳優の原健策で、母は宝塚少女歌劇団卒業生である。
だから、娘に「すみれ」と名づけたのかどうかは、
元宝塚の女優檀れい女史と元フジTVアナの高橋真麻女史の
しゃべりを聞き分けれない拙脳なる私には解る由もない。
子供の頃、土日を過ごした横浜の家の庭には、
母が植えさせまた自ら植えた樹木草花で溢れてた。
竹の垣根で分かたれた庭の半分は
鹿威しのあたりに石が置かれて日本庭園ふうに整えられ、
もう半分はブランコとすべり台と鉄棒と砂場があり、
バラを中心とした西洋庭園ふうにしつらえられてた。
何かのことで調べたいと思ったとき、
「うちの庭に○○ってある?」
と母に尋ねると、かならず、
「あるわよ」
という答えがかえってきたくらい、
ほとんどの植物があった。もちろん、
ヴィオラもライラックも植わってた。
ガキの頃の私は庭いじりに興味はなかった。が、
月一度、銀座や有楽町に映画を観にいく以外の土曜は、
午後から母と東京から横浜に向かい、着いたその足で
庭の手入れを手伝わされたものだった。当時、
土曜日は休みではなく半日学校があったが、他の平日と違って
午後の授業がなく、あるいは企業や官公庁も
"半ドン"といって、午後から閉まって
"半休"となったものだった。
舞台ものが好きな私ではある。
阪神競馬場へ行くついでに宝塚を大劇場で観たり、
帝国ホテルの間近にある東京の宝塚劇場にも、
それなりの回数は足を運んできた。とはいえ、
宝塚といえばこの歌が"宝塚の歌"だと
誤認してる程度にしか理解してない。
♪すみれのはーーーなーーーーーーーー、
さーくーーーーーこーろーーーーーーーー、
はじめてきーーーみーーーをーーー、
しーーーーーりぬーーーーーーー♪
これは、ドイツの軍楽隊長あがりの作曲家
Franz Doelle(フランツ・デッレ、1883-1965)が
1928年に作曲したダンス用軽音楽
"Wenn der weise Flieder wieder blueht"
(ヴェン・デル・ヴァイゼ・フリーデル・ヴィーデル・ブリュート)
「白いライラック(あるいはニワトコ)がまた咲いたら」
が流行歌となり、隣国フランスでもフリーデル→リラとして
フランス語の歌詞が附けられてシャンソンとしてヒットしたのだが、
パリにいてそれを聴いた宝塚演出家の
白井鐵造(しらい・てつぞう、1900-1983)が気に入って、
日本語の歌詞を附けて1930年に宝塚での出し物、
「パリ・ゼット」のテーマ曲としたことが始まりだということである。
当時は日本ではなじみがうすかったライラック(リラ)に替えて
スミレ(ヴァイオレット、ヴィオラ)を詠ったのである。
♪ミ>レ・>ド<ミ│
<ソー・ーー・<ラー・ーー│ーー・ラー・・<シー・ー>ソ│
>ミー・ーー・・ーー・ーー│ーー・ーー、・・ミ>レ・>ド<ミ│
<ソー・ーー・<ラー・ーー│ーー・ラー・・<シー・ー>ソ│
>ファー・ーー・・ーー・ーー│ーー・ーー♪
清々しい歌である。ライラックよりもむしろ
スミレのほうがふさわしいほどに。
この節を思い浮かべると、
エスツェットを思いながら東京宝塚劇場附近の
日比谷映画、有楽座、みゆき座などに
映画を観にいった中学生の頃が
脳裡にありありと蘇ってくる。
この歌の著名な箇所を"ヴィオラ"とハープにアレンジして
http://twitsound.jp/musics/tsBq1k1G6
にアップしておきました。蛇足ながら、
前奏レチタティーヴォ的な
[春すみれ咲き 春を告げる
春何ゆえ人は 汝(なれ)を待つ
楽しく悩ましき 春の夢 甘き恋
人の心酔わす そは汝
すみれ咲く春]
の部分は省略してあります。
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