チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「南南東に進路を取れ?/ホテル・オークラおよび大倉山ジャンプ台設立者大倉喜七郎没後50年にあたって」

2013年02月03日 19時54分57秒 | 歴史ーランド・邪図
今週末は遊山三昧だった。今朝ヘロヘロで帰宅しても、
溜まりにたまってた留守録をみまくった。その中の、
2月2日放送日テレ「ぶらり途中下車の旅」では、
世界の車窓からではなく西武池袋線からではあるが、
石丸謙二郎が大泉学園駅を降りて
「アキヤマフルート」というフルート製作工房を訪れてた。そこでは、
19世紀フランスの銀食器をリサイクルして、
"当時の音"を再現するようなフルート作りをしてる、
とのことだった。銀食器の調達を
ジャン・ヴァルジャンに頼んでるかどうかは
訊いてなかった。ともあれ、そこでは
フルートのようなベーム式キーを取り附けた金属管の尺八、という
"Okraulo(オークラウロ)"という珍楽器のメンテナンスも行ってた。
大倉喜七郎(1882-1963)が考案したものである。

この番組が放送された昨日、2013年2月2日は、その
大倉喜七郎の没後50年にあたる日である。
帝国ホテル、ホテル・オークラ、川奈ホテル、大倉山シャンツェなどで知られる
大倉財閥の2代目である。同傘下だった赤倉観光ホテルには
ガキの頃、家族で毎年のように行ってた。
喜七郎は幼稚舎からの慶應ボーイで、
車好き、運転も巧かったらしい。喜七郎の妻は、
意趣があった会津藩への仕返しの意味もある
新政府側への寝返りで知られる新発田藩最後の藩主
溝口伯耆守直正の長女である。
日米戦争敗戦で、GHQによる財閥解体、そして、
公職追放で喜七郎は帝国ホテル経営から追われた。が、
公職追放が解かれたのちに新たに自宅に
「ホテル・オークラ」を設立した。そこは現在、
オークラ本館の敷地であるが、江戸時代の中後期は、
川越藩松平家(越前・大和守)の上屋敷だった
(幕末のごく最後、川越は別の松平家になった)。
大和守家の中屋敷はすぐ近くの、現在は
サントリーホールとなってるところにあった。

ここらへんは「一等地」だったため、
明治になっても大使館や成功者の邸宅で占められた。
アメリカ大使館、スウェーデン大使館、スペイン大使館、
大倉家、松方家、越後出身の商社高田家、などである。
この高田家のご令嬢がTVタレントの
高田真由子女史である。つい数年前まで、
同家の豪邸も存在してたのである。また、
明治末期にお雇い外人として東京帝大で英語を教えてた
Walter de Havilland(ウォルター・ディ・ハヴィランド(1872-1968)
の邸宅もあった。ちなみに、
ここで生まれ育ったのが、同人の娘、
オリヴィア・デ・ハヴィランドとジョウン・フォンテイン姉妹
(ともに90代で健在、ただし、犬猿の仲)である。
30代の頃、ニューオオタニのガーデンラウンジとともに
打ち合わせでよく利用したのがこのホテル・オークラの
カメリアだった。が、
客の前で上司が部下を叱責してるのを目の当たりにして
以来、使わなくなった。その2、3年後、このホテルのロビーで、
歯科医がご近所の人妻と不倫の関係になって別れたあと、
未練から刺殺してしまった事件があってから、
それまでの「御三家」の一般的な評判も地に落ちた。

昨日、今日と2日にわたって行われた
ワールドカップ女子ジャンプ札幌大会で、
高梨沙羅嬢はどちらも表彰台を逃してしまった。
夏には99.5mも飛んだことがある宮の森で
今日は2回とも88.0m。かなり知名度があがって
期待の重圧がかかってきてしまってるのかもしれない。
ともあれ、
宮の森はノーマルヒルのジャンプ場であるが、ラージヒルの
大倉山シャンツェは大倉喜七郎が私財を投じたものである。
高梨嬢は2年前にそこで141.0mを飛んだ
(バッケンレコードは伊藤大貴の146.0m)こともある。だから、
同嬢が実力を出して成績が
フルウト、ソヂ輪でのメダルも夢ではないのである。

アメリカ大使館とオークラ本館の間の坂(霊南坂)は
オークラ別館方向に登りになってる。
オークラ別館とスウェーデン大使館のあたりから
城山タワー脇の坂を下ってくと
現在の東京メトロ神谷町駅に出る。つまり、
この一等地一帯は高台になってるのである。
城山タワー下あたりは江戸時代には
出石藩仙石家(5万8千石→途中、御家騒動で3万石に)の
上屋敷があったことから、
「仙石山」という言いかたをするむきもある。とはいえ、
ノルウェー語で「センゴク・バッケン」ということはない。また、
テレ東はあってもテレマークが入る余地はない。

今年の恵方は丙の方角だということである。それで今朝、
ホテル・オークラを出てその丙にあたる増上寺の
台徳院霊廟惣門をくぐってきた。
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