明治11年、つまり、西南戦争の翌年、
当時の新富座で河竹黙阿弥が作った
「西南雲晴朝東風(おきげのくもはらうあさごち)」
という芝居が上演され、大盛況だったという。
西郷隆盛役を演じたのが9世市川團十郎だった。
3日に死んだ12世は9世と血縁はないが、ともに
梨園の老舗ともいうべき市川宗家を継承した役者である。
いわゆる「代官山」の一角に、かつて、
"トレンディ・ドラマ"のロケに使われて、私のような
みーはーがこぞって"ムードづくり"に女の子を連れて出かけた
「西郷山公園」がある。
夜景の見晴らしもいいので、それなりの賑わいだったが、
夏場は蚊に食われるのがオチだった。
昨今は犬連れがウヨウヨしてるが、
「ミケランジェロ」のようなシャレた店に不釣り合いな私は
今もたまに、この公園の売店カフェで買い食いしたりする。ただし、
西郷丼というメニューはないので悪しからず。が、
この公園はやはり木々の葉が枯れ落ちて地面が
柿色に染まる季節がいい。それはともあれ、江戸時代、
豊後国岡藩中川家(京阪電鉄の車掌ではない)の
抱え屋敷(自前の屋敷)だったところを、明治になって
西郷隆盛の弟従道が下野した兄の再起を願って
そこらへん一帯の土地を購入した。が、
西南戦争で兄は自刃して果てたため、結局、
従道自身が別邸としたので、西郷山と言ったのである。現在は、
目黒区管理の公園となってる(住居表示は目黒区青葉台2丁目)。
2010年5月に歌舞伎座が建てなおしのために解体して以来、
一昨年には中村富十郎、中村芝翫、
昨年には中村勘三郎と、
このたびの市川團十郎と、
主役級があいついで死に、また、
一昨年に海老蔵の殴打事件、
昨年に染五郎の奈落転落事故、
というように、
梨園に不幸があいついだことに、
なにかしらの"祟り"、
"オカルト"的なことを言うむきが湧きだす。が、
人は遅かれ早かれ死ぬものである。
富十郎も中村芝翫も歳だったし、
20代、30代で死んだなら早すぎるが、
50代、60代で死ぬのもそれほど不思議ではない。
高級住宅地のひとつとされる青葉台に住んだ芸能人は、
美空ひばりに代表されるように、やはり
壮年で不本意な死を遂げた大スターもいた。とはいえ、
美空女史は祟りというよりは酒飲みがたたったものだった。
団十郎の白血病は不可抗力なのだろうが、
父親の借金と妻の実家の莫大な負債を
松竹に肩代わりしてもらってるから、
その重圧がのしかかってたことは確かである。
海老蔵のヤンチャぶりも借金返済がものすごいプレッシャーで
憂さでもはらさずにはいれなかったのだろう。ところで、
初代團十郎は自身あるいは父祖が
甲斐国市川村の出身だという説がある。
そこから、甲州枡(江戸時代の他の枡より大きい)を
家紋にした「三枡」を定紋にした、ともいう。
酒飲みだったからというわけではないようである。
初代歌川国政のもっとも著名な錦絵である
「(碓井荒太郎のほうの)暫の市川鰕蔵」(寛政8年≒1796年)
は、この「三枡」と「柿色」が特徴的である。甲州では、
渋柿を干して渋を減衰させる方法で食してたのである。
当時の新富座で河竹黙阿弥が作った
「西南雲晴朝東風(おきげのくもはらうあさごち)」
という芝居が上演され、大盛況だったという。
西郷隆盛役を演じたのが9世市川團十郎だった。
3日に死んだ12世は9世と血縁はないが、ともに
梨園の老舗ともいうべき市川宗家を継承した役者である。
いわゆる「代官山」の一角に、かつて、
"トレンディ・ドラマ"のロケに使われて、私のような
みーはーがこぞって"ムードづくり"に女の子を連れて出かけた
「西郷山公園」がある。
夜景の見晴らしもいいので、それなりの賑わいだったが、
夏場は蚊に食われるのがオチだった。
昨今は犬連れがウヨウヨしてるが、
「ミケランジェロ」のようなシャレた店に不釣り合いな私は
今もたまに、この公園の売店カフェで買い食いしたりする。ただし、
西郷丼というメニューはないので悪しからず。が、
この公園はやはり木々の葉が枯れ落ちて地面が
柿色に染まる季節がいい。それはともあれ、江戸時代、
豊後国岡藩中川家(京阪電鉄の車掌ではない)の
抱え屋敷(自前の屋敷)だったところを、明治になって
西郷隆盛の弟従道が下野した兄の再起を願って
そこらへん一帯の土地を購入した。が、
西南戦争で兄は自刃して果てたため、結局、
従道自身が別邸としたので、西郷山と言ったのである。現在は、
目黒区管理の公園となってる(住居表示は目黒区青葉台2丁目)。
2010年5月に歌舞伎座が建てなおしのために解体して以来、
一昨年には中村富十郎、中村芝翫、
昨年には中村勘三郎と、
このたびの市川團十郎と、
主役級があいついで死に、また、
一昨年に海老蔵の殴打事件、
昨年に染五郎の奈落転落事故、
というように、
梨園に不幸があいついだことに、
なにかしらの"祟り"、
"オカルト"的なことを言うむきが湧きだす。が、
人は遅かれ早かれ死ぬものである。
富十郎も中村芝翫も歳だったし、
20代、30代で死んだなら早すぎるが、
50代、60代で死ぬのもそれほど不思議ではない。
高級住宅地のひとつとされる青葉台に住んだ芸能人は、
美空ひばりに代表されるように、やはり
壮年で不本意な死を遂げた大スターもいた。とはいえ、
美空女史は祟りというよりは酒飲みがたたったものだった。
団十郎の白血病は不可抗力なのだろうが、
父親の借金と妻の実家の莫大な負債を
松竹に肩代わりしてもらってるから、
その重圧がのしかかってたことは確かである。
海老蔵のヤンチャぶりも借金返済がものすごいプレッシャーで
憂さでもはらさずにはいれなかったのだろう。ところで、
初代團十郎は自身あるいは父祖が
甲斐国市川村の出身だという説がある。
そこから、甲州枡(江戸時代の他の枡より大きい)を
家紋にした「三枡」を定紋にした、ともいう。
酒飲みだったからというわけではないようである。
初代歌川国政のもっとも著名な錦絵である
「(碓井荒太郎のほうの)暫の市川鰕蔵」(寛政8年≒1796年)
は、この「三枡」と「柿色」が特徴的である。甲州では、
渋柿を干して渋を減衰させる方法で食してたのである。
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