チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「波の寄る見ゆ...二上山/源実朝と小島貞博の悲しい孤独な最期」

2012年01月27日 00時08分21秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
ミホノブルボン号にタヤスツヨシ号と、ともに
ゾロメながらダービーを2勝した騎手で、現在は
調教師だった小島貞博(1951-2012)が去る23日午後に
自厩舎の二階で首を吊った。60歳だった。
家族が株に手を出し、失敗し、莫大な負債を抱え、
首が回らなくなってたという。死の翌日には
調教師免許更新の面談が待ってたが、そこでは
多額の借金と調教助手や厩務員への進上金未払いが
問いただされることは必至だったようである。
死を前にして家族に電話で、
「先に行くから」
と言い残したらしい。悲しい最期である。

小島、というと、
[箱根路を、我が(定家本では、われ)越えくれば、伊豆の海や。
沖の小島に、波の寄る見ゆ]
という悲しい歌を想起する。これは、
父頼朝が4回行った「二所詣」に倣って、
実朝が8度行った同詣のいずれかのときに詠ったもの、
とされてる。北杜夫の父斎藤茂吉は、それを
建暦3年正月22日乃至26日(西暦1213年2月)の、3度めの二所詣、
実朝(数え年)22歳のときの作、と推定してる。それはさておき、
「二所詣」とは、頼朝が"1185年"に開幕したのち、
朝廷の熊野詣に対抗すべく始めた儀式である。
伊豆山権現、箱根権現、の二所に加えて実際には
三島大社にも詣でた。というのも……
伊豆山権現への途中、頼朝は石橋山の戦いで討ち死にした
佐奈田与一の墓に立ち寄り、泣きじゃくってしまった。
このいくさで大敗した頼朝だったが、先陣を命じた
与一が奮戦しくれたおかげで自分は敗走できたのである。
ここで頼朝が討たれてたら、当然に鎌倉政権はなかった。が、
泣くなんてことは権現詣には忌避すべき行為なので、
お付きの者が三島大社の大明神も加えて、石橋山は帰路にした
……からなのである。

ともあれ、金槐和歌集によれば、
[箱根の山をうち出て見れば浪のよる小島あり。
供の者に此の浦の名は知るやと尋ねしかば、
伊豆の海となむ申すと答え侍りしをききて……
箱根路を、我が越えくれば、伊豆の海や。
沖の小島に、波のよる見ゆ]
と記されてる。この小島とは初島だとされてる。ともあれ、
実朝は供の者に「この浦の名は?」と訊いてる。が、
供の者は「伊豆の海とですね、申します」と答えてるのである。
ちぐはぐな質疑応答である。ひょっとすると、実朝は、
(「万葉集」で山部赤人が詠った(駿河湾の)田子の浦ではないか)
と思って、
「この浦の名は?」
とあえて訊いたのではなかろうか。が、
実際は相模湾だったので、供の者は
主君に恥をかかせてはいけないと思い、
曖昧に(伊豆半島の東の相模湾でも西の駿河湾でも通用する)
「伊豆の海」
と述べたのではないだろうか。それはさておき、
この歌がなぜ悲しいのか。

比企氏が後ろ盾だった兄頼家は、比企氏の敵北条氏によって
修善寺に幽閉され、ついには(愚管抄によれば)、
[修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、
えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、
ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき]
とあるように、入浴中で裸の頼家を襲ったが
激しく抵抗されたので首に紐を巻きつけて殺し、
ふぐり=陰嚢を斬り落とす、という
非常に酷い殺しかたをした。
その北条氏にかつがれてる自分もやがては兄と同じ運命なのだと、
はっきり自覚してたのである。いっぽう、
この歌は「万葉集」の[巻10-2185]、
[大坂乎 吾越来者 二上尓 黄葉流 志具礼零乍]
(大坂を、あが越え来れば、二上に、もみぢ葉流る。時雨降りつつ)
「(拙大意)急な山道を私が越えて来たら、
二上山に色づいた葉が滝を流れるように落ちてることだなあ。
おりしも、時雨が降り降りしてることだなあ。いずれにしても、
山頂には咎なき罪で殺された大津皇子の墓があると
一般に思われてるこの二上山から皇子の涙が流れ落ちてるようで、
とても胸がしめつけられることだなあ」
を本歌取りしたものなのである。ちなみに、
二上山は少しだけ高い雄岳と少しだけ低い雌岳という
2つの山頂を有する双耳峰であるために、
左右非対称となってる。

が、
そんな故事を知らずとも、歌心を解する人ならば、
[箱根路を、我が越えくれば、伊豆の海や。
沖の小島に、波のよる見ゆ]
という歌を見ただけでも、
その静かな諦観や悲しみを感じるのである。
「目の当たりにすれば波は磯も轟くほどに寄せるものだが、
高台から遠く眺めてると、何か静かで平穏な景色にしか見えない。
あの小島に寄せてる波も近くで見れば、
ものすごい力でぶつかってるのだろうが、
ここからの眺めはまったく穏やかそのものだ。
私のつらい立場も、はたからは将軍という権力を手にした
うらやましいものに映るのかもしれない」
というような万感胸につまる思いがこもってるのである。
今や鎌倉幕府成立は1185年であって、
"イイクニ作るぞ鎌倉幕府"の1192年ではない、という
研究も建久もされてるらしい。私は
"1192年と考える派"である。ともあれ、
その"1192年"に生まれた実朝は、果たせるかな、
建保7年1月27日(西暦1219年2月13日)、右大臣昇任の礼に
鶴岡八幡宮拝賀に向かったとき、北条氏にそそのかされた
甥の公暁(兄頼家の子)に斬り殺された。
数え28歳、現在の満年齢ではまだ26歳と5か月の命だった。
「吾妻鏡」によれば、当日、
[庭の梅を覧て、禁忌の和歌を詠じたまふ……
出でいなば、主なき宿と、なりぬとも、軒端の梅よ、春を忘るな]
と、死を覚悟した"辞世"を、
[世の中は、常にもがもな]
と願ってたはずの実朝は詠んだのである。
悲しい孤独な拝賀だった。また、
公暁も北条氏の追っ手に討たれ、その末弟の禅暁も、翌年、
実朝暗殺に荷担したという咎なき罪をきせられ、
北条氏の刺客に誅された。ともあれ、
鎌倉幕府の成立が1185年だろうが1192年だろうが、
"イチミサンザン北条氏"のとおり(実際は一味のごく一部は残ってるが)、
鎌倉幕府滅亡は1333年である。
「ハラキリの、つれなく見えし、別れより、高時ばかり、憂き者はなし」
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