今年のワールド・スィリーズが終わって3日後に、
かつてのスィンスィナティ・レッズの名監督
スパーキー・アンダースンが亡くなったのだが、今期8月、
そのスィンスィナティ・レッズで、
Aroldis Chapman(アロルディス・チャプマン)という、
キューバ野球遠征先のオランダで3年前に
アンドラに亡命した左腕がMLBにデビューした。
最高時速105マイル(169km)という、"弾丸よりも速く"
一般人には目にもとまらぬ速球を投げる。
私のようなドシロウトに野球の硬球は恐ろしい。
時速100kmほどののろまな球でも、
気を抜いてキャッチ・ボールしたら大怪我のもとである。
怖くて私は硬式野球の捕手など絶対にできない。
"4回戦ボーイ"とファイトするほうを選ぶ。ともあれ、
速球投手にありがちなように、
アロルディス・チャプマンはコントロウルがよろしくない。
15試合13+1/3イニングで2勝2敗、防御率2.03、19奪三振。
ところが、
5四球、2暴投、である(が、死球はない)。
ポウスト・スィーズンはナショル・リーグ・ディヴィジョナル・スィリーズで、
2試合1+2/3イニングを投げ、うち1試合で敗戦投手となった。
ところで今年は、
MLBで唯一、死球による死亡事故が起きてから
90年である。死球はアメリカでは、
"Hit by Pitch"もしくは"Hit by a Pitch"という。
Ray Chapman(レイ・チャプマン/1891-1920)は、
クリーヴランド・インディアンズのショートストップだった。
1920年8月16日(月曜)、NYのザ・ポウロウ・グラウンズで行われた
デイ・ゲイム、ヤンキーズ戦の5回表、クリーヴランドの2番打者
レイ・チャプマンは、クラウチング・スタイルで構えた頭部にヤンキーズの
"サブマリン"投手Carl Mays(カール・メイズ/1891-1971)の
ビーンボールを受けて昏倒した。チャプマンは
"SH(sacrifice hit =犠打"の名手だった。
この日もスィーズン41個めの犠打を記録してた。そして、
スィーズン2個めの被死球が文字通り死球になってしまった。
メイズ投手はスピット・ボール
(文字どおり、ツバをボールにつけて変化させる)
使いとして悪名高かった。この日、チャプマンに与えたのが、
スィーズン6つめの死球だった。
試合は続行された。そして、
クリーヴランドがヤンキーズに4対3で勝った。
メイズは敗戦投手となり、スィーズン18勝9敗となった。が、
チャプマンは収容先のセント・ローレンス病院で開頭手術を受けたが、
翌朝死亡した。その日のザ・NY・タイムズはこう伝えてる。
"Beaned by a Pitch, Ray Chapman Dies"
殺したほうのメイズも強いショックを受けたようである。
そりゃそうだ。とはいえ、死んだチャプマンが、
ホウム・プレイトに被さるほど前傾姿勢で構える打者だったこともまた、
事故に繋がったのである。
この1920年は、ベイブ・ルースがボストンからNYに売り渡された年でもある。
もちろん、ルースは当該試合に3番右翼手として出場してた。当日、
本塁打こそなかったが、4打数1安打だった。この年、ルースは
メイジャーリーグで初めて50本を越すホウムランを記録した。
54本である(次点はジョージ・スィスラーの19本)。そして、
翌1921年、1927年、1928年、と計4度、50本以上を記録する。が、
余人は1930年のハック・ウィルスンの56本まで出ない。その後も、
ジミー・フォックス、ハンク・グリーンバーグ、ジョニー・マイズ、ラルフ・カイナー、
ウィリー・メイズ、ミッキー・マントル、ロジャー・マリス、と、1960年代までは、
たった9人しか50本以上を放ってない。
マグワイアやソウサやボンズやA・ロドリゲスのような
筋肉増強剤野郎が現れてからのここ15年は、
50本以上本塁打の大安売り時代になってしまったが、
ジョージ・フォスターが1977年に放った52本塁打は、その前には、
1965年のウィリー・メイズの52本、その後には、
1990年のセスィル・フィールダーの51本、というように、
その前後の23年間にただ一人の50本以上のホウムラン記録だった。
これにはストライク・ゾウンの上下の範囲も関係してる。その頃は、
下限は打者の膝(ボールがかすめるだけでもok)、そして、
上限は打者のパンツのベルト(ボールがかすめるだけでok)、
という、極めて狭く、かつ低い設定だったのである。だから、
打者はクラウチング・スタイルで構えてた。あるいは、
まるでゴルフのティー・ショットのようなスウィングをしてたのである。
ともあれ、
ルースはレッドソックス時代にメイズ投手と同じく投手としてティーム・メイトだった。
結局、この死亡事故を起こした1920年、メイズは
26勝11敗という好成績でスィーズンを終える。
アメリカン・リーグを制したのはクリーヴランドだった。そして、
ワールド・スィリーズにも優勝する。この死亡事故の翌年、
メイズは27勝9敗で最多勝利投手となる。その後も
1929年までメイジャー・リーガーでありつづけ、
15スィーズンで208勝(126敗)をあげた。が、
評判の悪さと死亡事故の当事者であることなどから、
1958年の殿堂入り可否投票では、たった6票、
得票率2.3%で資格を得れず、
79歳の生涯を終える前に殿堂には入れてもらえなかった。
29歳で死んだチャプマンより50年も多く
のうのうと生きれたのだから、文句はないだろう。
というのは甘い考えで、メイズははじかれたことに
不平をもらしてたという。図々しい人間とは
いつどこの世でもそうしたものである。
ちなみに、
2003年、NYでMLBデビューした松井秀喜が、
4月8日の対ミネソウタ・トゥインズ戦の5回裏、
満塁の場面でMLB初本塁打を放ったときの対戦投手、
Joe Mays(ジョウ・メイズ/1975-/2006年スィーズンがMLB最後)は、
カール・メイズの縁戚なのだという。
かつてのスィンスィナティ・レッズの名監督
スパーキー・アンダースンが亡くなったのだが、今期8月、
そのスィンスィナティ・レッズで、
Aroldis Chapman(アロルディス・チャプマン)という、
キューバ野球遠征先のオランダで3年前に
アンドラに亡命した左腕がMLBにデビューした。
最高時速105マイル(169km)という、"弾丸よりも速く"
一般人には目にもとまらぬ速球を投げる。
私のようなドシロウトに野球の硬球は恐ろしい。
時速100kmほどののろまな球でも、
気を抜いてキャッチ・ボールしたら大怪我のもとである。
怖くて私は硬式野球の捕手など絶対にできない。
"4回戦ボーイ"とファイトするほうを選ぶ。ともあれ、
速球投手にありがちなように、
アロルディス・チャプマンはコントロウルがよろしくない。
15試合13+1/3イニングで2勝2敗、防御率2.03、19奪三振。
ところが、
5四球、2暴投、である(が、死球はない)。
ポウスト・スィーズンはナショル・リーグ・ディヴィジョナル・スィリーズで、
2試合1+2/3イニングを投げ、うち1試合で敗戦投手となった。
ところで今年は、
MLBで唯一、死球による死亡事故が起きてから
90年である。死球はアメリカでは、
"Hit by Pitch"もしくは"Hit by a Pitch"という。
Ray Chapman(レイ・チャプマン/1891-1920)は、
クリーヴランド・インディアンズのショートストップだった。
1920年8月16日(月曜)、NYのザ・ポウロウ・グラウンズで行われた
デイ・ゲイム、ヤンキーズ戦の5回表、クリーヴランドの2番打者
レイ・チャプマンは、クラウチング・スタイルで構えた頭部にヤンキーズの
"サブマリン"投手Carl Mays(カール・メイズ/1891-1971)の
ビーンボールを受けて昏倒した。チャプマンは
"SH(sacrifice hit =犠打"の名手だった。
この日もスィーズン41個めの犠打を記録してた。そして、
スィーズン2個めの被死球が文字通り死球になってしまった。
メイズ投手はスピット・ボール
(文字どおり、ツバをボールにつけて変化させる)
使いとして悪名高かった。この日、チャプマンに与えたのが、
スィーズン6つめの死球だった。
試合は続行された。そして、
クリーヴランドがヤンキーズに4対3で勝った。
メイズは敗戦投手となり、スィーズン18勝9敗となった。が、
チャプマンは収容先のセント・ローレンス病院で開頭手術を受けたが、
翌朝死亡した。その日のザ・NY・タイムズはこう伝えてる。
"Beaned by a Pitch, Ray Chapman Dies"
殺したほうのメイズも強いショックを受けたようである。
そりゃそうだ。とはいえ、死んだチャプマンが、
ホウム・プレイトに被さるほど前傾姿勢で構える打者だったこともまた、
事故に繋がったのである。
この1920年は、ベイブ・ルースがボストンからNYに売り渡された年でもある。
もちろん、ルースは当該試合に3番右翼手として出場してた。当日、
本塁打こそなかったが、4打数1安打だった。この年、ルースは
メイジャーリーグで初めて50本を越すホウムランを記録した。
54本である(次点はジョージ・スィスラーの19本)。そして、
翌1921年、1927年、1928年、と計4度、50本以上を記録する。が、
余人は1930年のハック・ウィルスンの56本まで出ない。その後も、
ジミー・フォックス、ハンク・グリーンバーグ、ジョニー・マイズ、ラルフ・カイナー、
ウィリー・メイズ、ミッキー・マントル、ロジャー・マリス、と、1960年代までは、
たった9人しか50本以上を放ってない。
マグワイアやソウサやボンズやA・ロドリゲスのような
筋肉増強剤野郎が現れてからのここ15年は、
50本以上本塁打の大安売り時代になってしまったが、
ジョージ・フォスターが1977年に放った52本塁打は、その前には、
1965年のウィリー・メイズの52本、その後には、
1990年のセスィル・フィールダーの51本、というように、
その前後の23年間にただ一人の50本以上のホウムラン記録だった。
これにはストライク・ゾウンの上下の範囲も関係してる。その頃は、
下限は打者の膝(ボールがかすめるだけでもok)、そして、
上限は打者のパンツのベルト(ボールがかすめるだけでok)、
という、極めて狭く、かつ低い設定だったのである。だから、
打者はクラウチング・スタイルで構えてた。あるいは、
まるでゴルフのティー・ショットのようなスウィングをしてたのである。
ともあれ、
ルースはレッドソックス時代にメイズ投手と同じく投手としてティーム・メイトだった。
結局、この死亡事故を起こした1920年、メイズは
26勝11敗という好成績でスィーズンを終える。
アメリカン・リーグを制したのはクリーヴランドだった。そして、
ワールド・スィリーズにも優勝する。この死亡事故の翌年、
メイズは27勝9敗で最多勝利投手となる。その後も
1929年までメイジャー・リーガーでありつづけ、
15スィーズンで208勝(126敗)をあげた。が、
評判の悪さと死亡事故の当事者であることなどから、
1958年の殿堂入り可否投票では、たった6票、
得票率2.3%で資格を得れず、
79歳の生涯を終える前に殿堂には入れてもらえなかった。
29歳で死んだチャプマンより50年も多く
のうのうと生きれたのだから、文句はないだろう。
というのは甘い考えで、メイズははじかれたことに
不平をもらしてたという。図々しい人間とは
いつどこの世でもそうしたものである。
ちなみに、
2003年、NYでMLBデビューした松井秀喜が、
4月8日の対ミネソウタ・トゥインズ戦の5回裏、
満塁の場面でMLB初本塁打を放ったときの対戦投手、
Joe Mays(ジョウ・メイズ/1975-/2006年スィーズンがMLB最後)は、
カール・メイズの縁戚なのだという。
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