400年前の今日、
慶長19年11月19日(現行暦換算1614年12月19日)
木津川口の戦いが勃発した。これが、
いわゆる「大阪の陣」の緒戦である。
蜂須賀、浅野、池田といった豊臣恩顧の大名らが、
将軍家に諂うために手柄をたてようと躍起だった。
「関ヶ原合戦」で外様に恩賞を与えた家康は
「征夷大将軍」となり、さらにそれを
世嗣秀忠に継がせた。いっぽう、
豊臣は神社仏閣の再建にせっせと精を出してるだけだった。
そんな状況において本来危機管理を怠ってはいけないのに、
「方広寺鐘銘事件」でみそをつけてしまった。
「国家安康」と前将軍の諱を「家」「康」と
鮟鱇のようにぶった切って吊ってしまった。
これは家康の難癖という程度のものではない。
客観的に極めて失礼なことなのである。
こうした配慮に欠ける者は滅びるべくしてほろびるのである。
いっぽう、家康は豊臣家をつぶすつもりはなかったと考えられてる。
ただの一大名として恭順の意を示せば……。
織田家が小大名として生き残ったように、とは異なるが。
歴戦の家康は大敵を追い詰めるとどうなるか、
武田家や信長が失敗した至らなさを
肌で学習してたのである。ただ、実戦の経験がほとんどない
秀忠とその側近たちの意向は家康とは違ってた。
家康にとって手強かった相手はもちろん、
第一に信長である。長男も信長に殺された。が、
それだけに恨みをかい、誰からも消したいと思われてた信長は所詮、
天下人の器ではない。「うつけ」はガチなのである。
第二に秀吉である。戦やそつなさでは家康のほうが上である。が、
勝利した小牧・長久手の戦で家康は秀吉の政治力には
とうてい叶わないと悟った。そして、
秀吉が死ぬのを待つことにしたのである。
第三に軍事面で武田である。家康は武田家から
多くを学び、また、その遺臣を受け継いだ。が、
武田の諸将の中で結局家康に従わず、もっとも
手を焼くことになったのが真田である。
昌幸の子で徳川四天王の本多忠勝の娘を正室にしてる
長男信幸(関ヶ原で父弟が徳川にたてついたため信之と改めた)は
当然に徳川についたが、
次男信繁(いわゆる幸村)は反骨の父とともに
上田城に籠もって徳川の中山道組(秀忠軍)を
さんざんな目に遭わせて関ヶ原に遅参させた。
本多忠勝や信之の助命嘆願が叶って紀伊配流となり、
父病死のあと残った幸村は豊臣の誘いを受けた。
大阪城の南(平野口)に砦を築いて、ここから、あるいは
その先の篠山から徳川方をさんざんな目に遭わせた。
この砦がいわゆる「真田丸」である。
徳川方の最前線に配された越前松平隊、前田隊、井伊隊、藤堂隊は、
突撃のたびにことごとく射られた。
「大阪冬の陣」の全戦闘の中で戦死者の八割が
この「真田丸」からの迎撃によるものといわれてる。
再来年のNHK大河ドラマ(主演=堺雅人)で扱われるようである。
ところで、
このもっとも重要な城南に家康は、
晩年に信頼を置いてた井伊、藤堂の他、
身内でもっとも動員数が多い越前松平、
外様でもっとも動員数が多い前田、伊達、
などを配してる。
豊臣家に呼応した大名は一家もなかったが、
捨て身の浪人相手に、実際、
この布陣が徳川方の戦力として最強だったといえる。
それが一方的にやられてしまったのだから、
家康はまたしても真田に苦渋を味わわされたのである。
が、
家康のすごいところは、
敵から学ぶということである。
関ヶ原で敵味方にわかれた真田家から、
家康は徳川が将軍家として将来かならずや
朝敵となることがあると見て、はじめは
九男義直(尾張徳川家祖)に、次いで、
十一男頼房(水戸徳川家祖)に、
「尊皇」の思想を植えつけた。そして、
その遠慮深謀が250年後に功を奏する。
尾張、水戸、だけでなく、紀伊も、そして、
大政は奉還しても徳川将軍家は
駿府(静岡)70万石として生き残った。
慶長19年11月19日(現行暦換算1614年12月19日)
木津川口の戦いが勃発した。これが、
いわゆる「大阪の陣」の緒戦である。
蜂須賀、浅野、池田といった豊臣恩顧の大名らが、
将軍家に諂うために手柄をたてようと躍起だった。
「関ヶ原合戦」で外様に恩賞を与えた家康は
「征夷大将軍」となり、さらにそれを
世嗣秀忠に継がせた。いっぽう、
豊臣は神社仏閣の再建にせっせと精を出してるだけだった。
そんな状況において本来危機管理を怠ってはいけないのに、
「方広寺鐘銘事件」でみそをつけてしまった。
「国家安康」と前将軍の諱を「家」「康」と
鮟鱇のようにぶった切って吊ってしまった。
これは家康の難癖という程度のものではない。
客観的に極めて失礼なことなのである。
こうした配慮に欠ける者は滅びるべくしてほろびるのである。
いっぽう、家康は豊臣家をつぶすつもりはなかったと考えられてる。
ただの一大名として恭順の意を示せば……。
織田家が小大名として生き残ったように、とは異なるが。
歴戦の家康は大敵を追い詰めるとどうなるか、
武田家や信長が失敗した至らなさを
肌で学習してたのである。ただ、実戦の経験がほとんどない
秀忠とその側近たちの意向は家康とは違ってた。
家康にとって手強かった相手はもちろん、
第一に信長である。長男も信長に殺された。が、
それだけに恨みをかい、誰からも消したいと思われてた信長は所詮、
天下人の器ではない。「うつけ」はガチなのである。
第二に秀吉である。戦やそつなさでは家康のほうが上である。が、
勝利した小牧・長久手の戦で家康は秀吉の政治力には
とうてい叶わないと悟った。そして、
秀吉が死ぬのを待つことにしたのである。
第三に軍事面で武田である。家康は武田家から
多くを学び、また、その遺臣を受け継いだ。が、
武田の諸将の中で結局家康に従わず、もっとも
手を焼くことになったのが真田である。
昌幸の子で徳川四天王の本多忠勝の娘を正室にしてる
長男信幸(関ヶ原で父弟が徳川にたてついたため信之と改めた)は
当然に徳川についたが、
次男信繁(いわゆる幸村)は反骨の父とともに
上田城に籠もって徳川の中山道組(秀忠軍)を
さんざんな目に遭わせて関ヶ原に遅参させた。
本多忠勝や信之の助命嘆願が叶って紀伊配流となり、
父病死のあと残った幸村は豊臣の誘いを受けた。
大阪城の南(平野口)に砦を築いて、ここから、あるいは
その先の篠山から徳川方をさんざんな目に遭わせた。
この砦がいわゆる「真田丸」である。
徳川方の最前線に配された越前松平隊、前田隊、井伊隊、藤堂隊は、
突撃のたびにことごとく射られた。
「大阪冬の陣」の全戦闘の中で戦死者の八割が
この「真田丸」からの迎撃によるものといわれてる。
再来年のNHK大河ドラマ(主演=堺雅人)で扱われるようである。
ところで、
このもっとも重要な城南に家康は、
晩年に信頼を置いてた井伊、藤堂の他、
身内でもっとも動員数が多い越前松平、
外様でもっとも動員数が多い前田、伊達、
などを配してる。
豊臣家に呼応した大名は一家もなかったが、
捨て身の浪人相手に、実際、
この布陣が徳川方の戦力として最強だったといえる。
それが一方的にやられてしまったのだから、
家康はまたしても真田に苦渋を味わわされたのである。
が、
家康のすごいところは、
敵から学ぶということである。
関ヶ原で敵味方にわかれた真田家から、
家康は徳川が将軍家として将来かならずや
朝敵となることがあると見て、はじめは
九男義直(尾張徳川家祖)に、次いで、
十一男頼房(水戸徳川家祖)に、
「尊皇」の思想を植えつけた。そして、
その遠慮深謀が250年後に功を奏する。
尾張、水戸、だけでなく、紀伊も、そして、
大政は奉還しても徳川将軍家は
駿府(静岡)70万石として生き残った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます