昨日、2012年10月21日は、最終的に英国に帰化した
ハンガリー生まれのユダヤ人指揮者
Stern Gyorgy(シュターン・ゲオルギ)こと
Georg Solti(ゲオーク・ショルティ、1912-1997)の
生誕100年にあたる日だった。で、
久しぶりに「魔笛」のCDを引っ張り出して
星のきれいな夜空を眺めながら聴いた。
♪ドー│<ミーーー・<ソーーー│
<ドーー>シ・>ラ>ソ>ファ>ミ│
>レ>ド>シ>ラ・>ソ>ファ>ミ>レ│
>ドーーー・●●♪
いっぽう、
今日は唐代の詩人李白(西暦およそ701-西暦およそ762)の
没後1250年にあたる日である。ちなみに、今年は
杜甫(西暦およそ712-西暦およそ770)の
生誕1300年にあたる年でもある。
李白も杜甫も、白居易とは違って
「出世できなかった」文人である。
744年に洛陽でふたりは会ったということである。
ともあれ、
李白でもっとも有名な詩は、晩年の
「秋浦歌」と称される17連作の第15番の、
白髪三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜
という五言絶句といえよう。
第1行の「髪」と第2行の「長」に共通部首、
第2行の「愁」と第4行の「秋」に共通部首、
な漢字が採られてる。とはいえ、
hairのcareが行き届かずrareどころかbareになってしまった
拙脳なる私が平仄について解るわけもない。やっと、
1,2,4行末が日本訛りで-ouという韻を踏んでることだけは解る。
秋浦というのは南京まで数百kmの
長江の南岸の地名である。つまり、
長い髪と長い長江を暗に比較してるのである。ちなみに、
「髪」は"長い友だち"ではなく、
"友"は本来は跋の旁「バツ」で、
「長(頭から抜ける長いもの)」に「彡(サン旁、毛飾り)」で
=「髟(かみがしら)、
それに「(容易に)抜ける」で、
飾りをつける簡単に抜ける長い毛、つまり「hair」なのである。
いっぽう、
杜甫の詩で有名なのが、
五言律詩「春望」の
国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻更短
渾欲不勝簪
である。こちらも安史の乱後の「嘆息」である。
李白の「秋」に対して「春」である。それでも、
「白頭」「簪」とあって、こちらも
「髪の毛」のことが引き合いに出されてる。ちなみに、
これに対して「夏」で詠んだのが、松尾芭蕉である。
夏草や。兵どもが、夢の跡
この句は、西暦およそ1689年に詠まれたものであるが、
ちょうど500年前の西暦およそ1189年に、
義経、ついで藤原泰衡が死んでるのである。
逆にいえば、
The 500th Anniversaryのこの年にこそ、幕府は
芭蕉が平泉に出かけたことにしなければならなかった、
のである。実際は、
八十村路通が芭蕉に扮し、河合曾良が随行した、
という体をとったという可能性がある。
真正なる隠密の河合曾良の「曾良旅日記」と
「おくの細道」が多々齟齬をきたす箇所があるのは、
そうしたカモフラージュが行われてたものの、
大垣で"再会"したとされてる路通が、
芭蕉にいいかげんな資料を渡したためではないだろうか。
芭蕉の随行者が当初予定の路通から、
「越後の村上にある旧主の墓参をしたい」から、
曾良になったとされてる。
久松松平家康尚は大垣藩5万石主松平忠良の三男として
大垣で生まれた。実家は兄が継ぎ大垣から小諸に転封になり、
無嗣子廃絶となったが、康尚には新たに那須1万石が与えられ、
伊勢長嶋に移封された。そこで曾良は、
康尚の4男良兼の家に仕えたのである。その良兼は、
越後村上榊原家の同族家老榊原家の養子となった。
この良兼が、曾良が言う「旧主」である。
"芭蕉&曾良一行"はこの村上で2泊した。
いっぽう、
越後には伊達騒動を起こした伊達家に縁がある
(妹が綱村の正室)稲葉正往は当時小田原から、
同じく越後でも村上からは離れてはいるが、
高田に移ってたのである。
"芭蕉&曾良一行"はこの高田では3泊もしてるのである。
李白の「答王十二寒夜獨酌有懐」というのに、
こんなのがあるらしい。
吟詩作賦北窓裏
萬言不直一杯水
世人聞此皆掉頭
有如東風射馬耳
大意はこんな感じである。
北向きの部屋で詩を吟じ賦を書き連ねてる。
が、どんな言葉も一杯の水にさえ値しない。
なぜなら、巷の一般人はこれを聞いても
気にも留めずにプイと顔を背けてしまうからだ。
まるで、馬の耳に暖かい東風が吹いても
(この風が吹いたからにはじきに春がやってくる)
とは気が回らず、意味が通じないのと同じである。
これを日本では「馬耳東風」といって、
「他人の言うことの真意を理解せず聞く耳持たない」
という意味の4字熟語としてる。
バカには何を言っても無駄、
洗脳されてる輩に真を説いても通じない、
ということである。
ハンガリー生まれのユダヤ人指揮者
Stern Gyorgy(シュターン・ゲオルギ)こと
Georg Solti(ゲオーク・ショルティ、1912-1997)の
生誕100年にあたる日だった。で、
久しぶりに「魔笛」のCDを引っ張り出して
星のきれいな夜空を眺めながら聴いた。
♪ドー│<ミーーー・<ソーーー│
<ドーー>シ・>ラ>ソ>ファ>ミ│
>レ>ド>シ>ラ・>ソ>ファ>ミ>レ│
>ドーーー・●●♪
いっぽう、
今日は唐代の詩人李白(西暦およそ701-西暦およそ762)の
没後1250年にあたる日である。ちなみに、今年は
杜甫(西暦およそ712-西暦およそ770)の
生誕1300年にあたる年でもある。
李白も杜甫も、白居易とは違って
「出世できなかった」文人である。
744年に洛陽でふたりは会ったということである。
ともあれ、
李白でもっとも有名な詩は、晩年の
「秋浦歌」と称される17連作の第15番の、
白髪三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜
という五言絶句といえよう。
第1行の「髪」と第2行の「長」に共通部首、
第2行の「愁」と第4行の「秋」に共通部首、
な漢字が採られてる。とはいえ、
hairのcareが行き届かずrareどころかbareになってしまった
拙脳なる私が平仄について解るわけもない。やっと、
1,2,4行末が日本訛りで-ouという韻を踏んでることだけは解る。
秋浦というのは南京まで数百kmの
長江の南岸の地名である。つまり、
長い髪と長い長江を暗に比較してるのである。ちなみに、
「髪」は"長い友だち"ではなく、
"友"は本来は跋の旁「バツ」で、
「長(頭から抜ける長いもの)」に「彡(サン旁、毛飾り)」で
=「髟(かみがしら)、
それに「(容易に)抜ける」で、
飾りをつける簡単に抜ける長い毛、つまり「hair」なのである。
いっぽう、
杜甫の詩で有名なのが、
五言律詩「春望」の
国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻更短
渾欲不勝簪
である。こちらも安史の乱後の「嘆息」である。
李白の「秋」に対して「春」である。それでも、
「白頭」「簪」とあって、こちらも
「髪の毛」のことが引き合いに出されてる。ちなみに、
これに対して「夏」で詠んだのが、松尾芭蕉である。
夏草や。兵どもが、夢の跡
この句は、西暦およそ1689年に詠まれたものであるが、
ちょうど500年前の西暦およそ1189年に、
義経、ついで藤原泰衡が死んでるのである。
逆にいえば、
The 500th Anniversaryのこの年にこそ、幕府は
芭蕉が平泉に出かけたことにしなければならなかった、
のである。実際は、
八十村路通が芭蕉に扮し、河合曾良が随行した、
という体をとったという可能性がある。
真正なる隠密の河合曾良の「曾良旅日記」と
「おくの細道」が多々齟齬をきたす箇所があるのは、
そうしたカモフラージュが行われてたものの、
大垣で"再会"したとされてる路通が、
芭蕉にいいかげんな資料を渡したためではないだろうか。
芭蕉の随行者が当初予定の路通から、
「越後の村上にある旧主の墓参をしたい」から、
曾良になったとされてる。
久松松平家康尚は大垣藩5万石主松平忠良の三男として
大垣で生まれた。実家は兄が継ぎ大垣から小諸に転封になり、
無嗣子廃絶となったが、康尚には新たに那須1万石が与えられ、
伊勢長嶋に移封された。そこで曾良は、
康尚の4男良兼の家に仕えたのである。その良兼は、
越後村上榊原家の同族家老榊原家の養子となった。
この良兼が、曾良が言う「旧主」である。
"芭蕉&曾良一行"はこの村上で2泊した。
いっぽう、
越後には伊達騒動を起こした伊達家に縁がある
(妹が綱村の正室)稲葉正往は当時小田原から、
同じく越後でも村上からは離れてはいるが、
高田に移ってたのである。
"芭蕉&曾良一行"はこの高田では3泊もしてるのである。
李白の「答王十二寒夜獨酌有懐」というのに、
こんなのがあるらしい。
吟詩作賦北窓裏
萬言不直一杯水
世人聞此皆掉頭
有如東風射馬耳
大意はこんな感じである。
北向きの部屋で詩を吟じ賦を書き連ねてる。
が、どんな言葉も一杯の水にさえ値しない。
なぜなら、巷の一般人はこれを聞いても
気にも留めずにプイと顔を背けてしまうからだ。
まるで、馬の耳に暖かい東風が吹いても
(この風が吹いたからにはじきに春がやってくる)
とは気が回らず、意味が通じないのと同じである。
これを日本では「馬耳東風」といって、
「他人の言うことの真意を理解せず聞く耳持たない」
という意味の4字熟語としてる。
バカには何を言っても無駄、
洗脳されてる輩に真を説いても通じない、
ということである。
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