アメリカの秀でたとこのひとつに、見せ物(エンタメ)がある。
プロウ・スポーツもしかり。ただ、たとえば、
NYではある程度富裕な黒人の観客はいても、他の都市では、
ボールパークに足を運ぶのは、ほとんどが白人である。
白人を楽しませ、希望を与えるのが職業野球なのである。とはいっても、
そもそもUS全体の人口に占める黒人の割合は約10%であるからして、
通常でも観客の1割しか黒人でないことになる。が、現実の
ボールパークでは黒人は全観客の1%程度もいないかもしれない。
人口比百分の一以下で漢民族を支配した
満州女直族の大清帝国は例外中の例外である。それはどうでも、
メイジャーリーグ・ベイスボールはあらゆる意味で魅力的な娯楽である。
今年のMBLオールスター・ゲイムは、
1923年来の球場が今スィーズン限り、という
ヤンキー・ステイディアムの「特別」な年ゆえ、
往年の名選手(殿堂入り)が多数、招待されてた。中に、
かつてのオウクランドの「リリーフ投手」、
ロウリー・フィンガーズがいた。同人とおなじく、
「クロウザー創成期」の頃の「抑え」だった
左腕スパーキー・ライル投手が現役のときに著した
「the bronx zoo」というタイトルが
気の利いた暗喩だった本が懐かしい。当時、
監督のビリー・マーティンと外野手のレジー・ジャクスンが
ベンチの中で胸ぐらをつかみあってる場面が中継されてしまったり、
オウナーであるスタインブレナー対マーティン、
スタインブレナー対ジャクスン、
ジャクスン対三塁手ネトルズ、
マーティン対捕手マンスン、
などの諍い相関図など、
肝腎のゲイム以外でも客を呼べたのである。それにしても、
NHKのアナウンサーは、
「ルーイング(現在は監督として有名な、代打屋ルー・ピネラに対する声援)」も
「グーイング(高速救援屋グース・ガッスィッジに送る歓声)」も知らないばかりか、
アール・ウィーヴァー元監督をアル・ウィーヴァーと誤呼したり、
レジー・ジャクスンのオウクランドでの永久欠番を「4」と嘘ついたり(実際は「9」)、
受信料でけっこうたいそうなメシを喰ってるわりには、
無知・不勉強にもほどがある、というものである。それにしても、
ゲイロード・ペリーとドン・サットンが並んでた、というのが、エンタメに長けた
「アメリカン・ジョウク」である。ふたりが握手をしたときに、
互いの掌に紙ヤスリとグリースを交換したかどうかは、
当人らのみぞ知ることである。さて、おもにヤンキーズで活躍した
ボビー・マーサー(bobby murcer/右投げ左打ちの外野手)は、
思い出のヤンキー・ステイディアム最後の年のオールスター・ゲイムの解説をできずに、
7月12日に脳腫瘍の合併症のために亡くなった。62歳。5月、死を前にして、
「yankee for life……
my 40-year journey in pinstripes」
という、選手人生や闘病を綴った自伝が出版された。高校時代からの伴侶である
ケイ夫人をはじめとする家族、友人やファンへの愛に満ちた本である。
その最終章である第22章の題は「play ball!」。そこでマーサーは、
来年2009年4月の新球場での開幕試合の始球式が自分の終着点だと綴ってる。が、
その思いは叶わなかった。同人は品のある外見の人格者だった。
かつての西武ライオンズの助っ人外人スティーヴ・オンティヴェロスは、
「もっとも尊敬する選手は?」と問われて「ボビー・マーサー」と答えた。が、
インタヴィュアーはその「答え」が誰だかわからなかった。マーサーは
徴兵制時代で選手生活を中断されてヴィエトナムにも従軍した。
オールスター・ゲイムの開幕に花を添えた殿堂入り選手らほどの
輝かしい成績は残さなかったものの、入団時は
ミッキー・マントルの後継者と目されてたのである。実際、
「低迷期」のヤンキーズをロイ・ホワイトとともに支えた、
地味な選手だった。が、シカゴ・カブズ時代の
「アダとなった白血病の少年への約束の2ホウマー」や、古巣ヤンキーズに戻った直後の
「親友マンスンの葬儀の夜の劇的な逆転サヨナラ打」など、
メイジャーリーグ・ファンだったら、おそらく、どのスーパースター選手よりも
深く心に残ってる選手なはずである。また、通算252本塁打は、
殿堂入り選手として列席してたロビン・ヤントより多い。加えて、
全盛期には肩もよく、同世代のレジー・スミス、レジー・ジャクスン、そして、
バリーの親父ボビー・ボンズなどよりも華麗に走者をさした。そして、
足も速かった。
「左打者走者が一塁方向に『引きずる』」という意味の
「drag bunt」の名人でもあったのである。
スウィッチヒッターの大スター、やはり俊足だったホウムラン打者の
ミッキー・マントルが左打席のときにしばしばやったように。ちなみに、
「右打者が一塁方向に『押しだす』」というバントが
「push bunt」である。左打者が三塁方向に転がすのは、
「ただの」バント。いっぽう、右打者が三塁方向に転がすのも、
「ただの」バント、であって、これを
「ドラッグ・バント」とは言わないのである。つまり、
「バント」とは元来、三塁側に転がして三塁手または投手に
時間がかかる捕球をさせて一塁への送球を遅らせてセイフを狙う
「グラウンダー」である。NHKのアナウンサー氏はおそらく
そんなことすら知らないだろう。それはともかくも、、
あの不遜なディマッジョやそれとは正反対な気配り屋のマントルなどと
一緒にプレイした83歳の元捕手ベラが始球式で他の3人とボールを投げたとき、
私の頭の中を過去のゲイムが一瞬のうちにヨギった。さて、
ゲイム終了後には、ホウムのアメリカン・リーグが勝ったからか、
ライザ・ミネリではなく、マンハッタン島の(ハドスン川の)対岸
ニュージャーズィー州ホウボウケン(初めて野球の試合が行われた)生まれの
フランク・スィナトラの「ニューヨーク、ニューヨーク」が球場内に流れた。
プロウ・スポーツもしかり。ただ、たとえば、
NYではある程度富裕な黒人の観客はいても、他の都市では、
ボールパークに足を運ぶのは、ほとんどが白人である。
白人を楽しませ、希望を与えるのが職業野球なのである。とはいっても、
そもそもUS全体の人口に占める黒人の割合は約10%であるからして、
通常でも観客の1割しか黒人でないことになる。が、現実の
ボールパークでは黒人は全観客の1%程度もいないかもしれない。
人口比百分の一以下で漢民族を支配した
満州女直族の大清帝国は例外中の例外である。それはどうでも、
メイジャーリーグ・ベイスボールはあらゆる意味で魅力的な娯楽である。
今年のMBLオールスター・ゲイムは、
1923年来の球場が今スィーズン限り、という
ヤンキー・ステイディアムの「特別」な年ゆえ、
往年の名選手(殿堂入り)が多数、招待されてた。中に、
かつてのオウクランドの「リリーフ投手」、
ロウリー・フィンガーズがいた。同人とおなじく、
「クロウザー創成期」の頃の「抑え」だった
左腕スパーキー・ライル投手が現役のときに著した
「the bronx zoo」というタイトルが
気の利いた暗喩だった本が懐かしい。当時、
監督のビリー・マーティンと外野手のレジー・ジャクスンが
ベンチの中で胸ぐらをつかみあってる場面が中継されてしまったり、
オウナーであるスタインブレナー対マーティン、
スタインブレナー対ジャクスン、
ジャクスン対三塁手ネトルズ、
マーティン対捕手マンスン、
などの諍い相関図など、
肝腎のゲイム以外でも客を呼べたのである。それにしても、
NHKのアナウンサーは、
「ルーイング(現在は監督として有名な、代打屋ルー・ピネラに対する声援)」も
「グーイング(高速救援屋グース・ガッスィッジに送る歓声)」も知らないばかりか、
アール・ウィーヴァー元監督をアル・ウィーヴァーと誤呼したり、
レジー・ジャクスンのオウクランドでの永久欠番を「4」と嘘ついたり(実際は「9」)、
受信料でけっこうたいそうなメシを喰ってるわりには、
無知・不勉強にもほどがある、というものである。それにしても、
ゲイロード・ペリーとドン・サットンが並んでた、というのが、エンタメに長けた
「アメリカン・ジョウク」である。ふたりが握手をしたときに、
互いの掌に紙ヤスリとグリースを交換したかどうかは、
当人らのみぞ知ることである。さて、おもにヤンキーズで活躍した
ボビー・マーサー(bobby murcer/右投げ左打ちの外野手)は、
思い出のヤンキー・ステイディアム最後の年のオールスター・ゲイムの解説をできずに、
7月12日に脳腫瘍の合併症のために亡くなった。62歳。5月、死を前にして、
「yankee for life……
my 40-year journey in pinstripes」
という、選手人生や闘病を綴った自伝が出版された。高校時代からの伴侶である
ケイ夫人をはじめとする家族、友人やファンへの愛に満ちた本である。
その最終章である第22章の題は「play ball!」。そこでマーサーは、
来年2009年4月の新球場での開幕試合の始球式が自分の終着点だと綴ってる。が、
その思いは叶わなかった。同人は品のある外見の人格者だった。
かつての西武ライオンズの助っ人外人スティーヴ・オンティヴェロスは、
「もっとも尊敬する選手は?」と問われて「ボビー・マーサー」と答えた。が、
インタヴィュアーはその「答え」が誰だかわからなかった。マーサーは
徴兵制時代で選手生活を中断されてヴィエトナムにも従軍した。
オールスター・ゲイムの開幕に花を添えた殿堂入り選手らほどの
輝かしい成績は残さなかったものの、入団時は
ミッキー・マントルの後継者と目されてたのである。実際、
「低迷期」のヤンキーズをロイ・ホワイトとともに支えた、
地味な選手だった。が、シカゴ・カブズ時代の
「アダとなった白血病の少年への約束の2ホウマー」や、古巣ヤンキーズに戻った直後の
「親友マンスンの葬儀の夜の劇的な逆転サヨナラ打」など、
メイジャーリーグ・ファンだったら、おそらく、どのスーパースター選手よりも
深く心に残ってる選手なはずである。また、通算252本塁打は、
殿堂入り選手として列席してたロビン・ヤントより多い。加えて、
全盛期には肩もよく、同世代のレジー・スミス、レジー・ジャクスン、そして、
バリーの親父ボビー・ボンズなどよりも華麗に走者をさした。そして、
足も速かった。
「左打者走者が一塁方向に『引きずる』」という意味の
「drag bunt」の名人でもあったのである。
スウィッチヒッターの大スター、やはり俊足だったホウムラン打者の
ミッキー・マントルが左打席のときにしばしばやったように。ちなみに、
「右打者が一塁方向に『押しだす』」というバントが
「push bunt」である。左打者が三塁方向に転がすのは、
「ただの」バント。いっぽう、右打者が三塁方向に転がすのも、
「ただの」バント、であって、これを
「ドラッグ・バント」とは言わないのである。つまり、
「バント」とは元来、三塁側に転がして三塁手または投手に
時間がかかる捕球をさせて一塁への送球を遅らせてセイフを狙う
「グラウンダー」である。NHKのアナウンサー氏はおそらく
そんなことすら知らないだろう。それはともかくも、、
あの不遜なディマッジョやそれとは正反対な気配り屋のマントルなどと
一緒にプレイした83歳の元捕手ベラが始球式で他の3人とボールを投げたとき、
私の頭の中を過去のゲイムが一瞬のうちにヨギった。さて、
ゲイム終了後には、ホウムのアメリカン・リーグが勝ったからか、
ライザ・ミネリではなく、マンハッタン島の(ハドスン川の)対岸
ニュージャーズィー州ホウボウケン(初めて野球の試合が行われた)生まれの
フランク・スィナトラの「ニューヨーク、ニューヨーク」が球場内に流れた。
私はロイ・ホワイトの大ファンで、Bronx zooの日本語版の「ロッカールーム」を読みましたので、この記事を楽しく読ませていただきました。
また、カタカナ英語を実際の発音に近い綴りにされていることに納得です。日本のカタカナ英語は、英語理解の妨げになっていると、日頃から思っていたもので・・・
ご存じかもしれませんが、「They kept me loyal to the yankees 」も面白いですよ。
私は巨人時代しか知らず、メイジャーリーグ時代については、ワールド・スィリーズのビデオを購入して見たり、ネットで詳細なstatisticsを確認して楽しんでいます。
ゲイロード・ペリーを、ホワイトはカモにしていた時期があり、1スィーズンで3ホーマー打ったこともあったようですね(違っていたらすいません)。ペリー攻略の秘訣を語るホワイトについて、「They kept me・・・」に記述されていました。ドン・サットンからは、78年ワールド・スィリーズで貴重な先制ホーマーを放ち、ヤンキーズに勝利をもたらしましたね。
実は、私は「思い出のメジャーリーガー、ロイ・ホワイト」と題したブログを投稿しています。ぜひお立ち寄り下さい。また、ネットで知り合ったもう一人の「ロイファン」、K・ogawa氏の「ロイさん情報」も宜しくお願いいたします。