「旅に病んで、夢は枯野を、かけめぐる」
これは辞世ではなく、生前最後の句作だったまで、
というむきがある。が、芭蕉は
はっきりとこれが最期だと自覚して詠ったと感じる。
下世話な私などは、ガキの頃、
親戚の家で病になって、
イヤらしい夢想が、
涸れ脳をかけめぐったものである、が、
芭蕉の句はもちろん高尚なものである。
松尾「芭蕉」は自身を
「はせを」と表記したそうである。別段、
庵に中庭やパセオがあったわけではない。ところで、
日本人の名の多い順の30番めあたりの
「長谷川さん」の「はせ」は、
川を下った客を降ろしてまた
川を上流に遡って戻った舟の発着地である
「発つ瀬」=「泊つ瀬」のことである。
「泊瀬」→「初瀬」→「長谷」。
伊勢神宮外宮を建立した「雄略天皇」は、
「大泊瀬幼武尊」「大長谷若建命」「大長谷王」
などとも呼ばれてた。いずれにしても、
「はつせ(→はせ)」という語(地名)が
共通項である。その宮殿だった
泊瀬朝倉宮は現在の奈良県櫻井市のあたりにあった、
と推定されてる。そして、この雄略天皇の
「籠毛與、美籠母乳」で始まる長歌が、
「万葉集」巻一の第1番めの歌なのである。
芭蕉はおそらく清和天皇と関係深い
松尾一族の出なのだろうが、
「歌詠み」の「端くれ」として、この
雄略天皇に肖ったか、または、
初瀬にルーツもしくは関係もあった、
のではないかと想像する。
「旅に病んで、夢は枯野を、かけめぐる」
たしかに、芭蕉の句作はお見事である。
初句が「字余り」になってるが、これは、
語調を整えるために
「キ」の「紀伊」を「キイ」にしたり
「石」を「シ」でなく「イシ」とするなど、
二重母音もしくは撥音には許された
和歌本来の字余りの伝統に
則ったものである。よって、
芭蕉が痔による出血のあまり
(略して、痔あまり)伏せったわけではない。
芭蕉は喉がイガイガしてたかどうかは知らないが、
40代の頃から胃がシクシクしたり
伊賀痛かったりしてたようである。いっぽう、
51歳の芭蕉を死に至らしめたのは、
食中りだという説がある。が、私は、
芭蕉の死因は大腸癌による衰弱もしくは
大腸憩室からの出血による失血死だったのでは、
と推測してる。ともあれ、芭蕉は
おゼゼ作りあるいは幼名どおり金作が巧かったとは
到底思えないが、
「墓は木曽殿(源義仲)の隣に」という希望どおり、
膳所にある義仲寺の義仲の慰霊塔の脇に
埋葬されたそうである。いずれにしても、
75歳まで生きれなかったのであるから、
後期高齢者医療制度もしくは長寿医療制度の
恩恵に浴することはなかった。
ニオイは他の感覚とは別ルートで脳を
「かけめぐる」らしい。それで、
ニオイが郷愁や記憶と結びついてることが多い、
のだそうである。中学生のときの夏休みに、
両親の仕事の関係で、親戚の家に
長期滞在したことがあった。そのとき、
プールへ行って耳に水が入り、
中耳炎になった。そこで、親戚の家から
耳鼻咽喉科に通うはめになったのだが、
その医院の看護婦さんがまた図抜けて
きれいな女性だった。
診察台の患者である私を介助する際、
袖が顔の間近に迫り、また、胸が
目の前を撫でるときがあった。ほんのわずか、
かすかに漂う芳香……。それと、
当時毎日手にしてて、待合室でも読んでた全音の
「メンデルスゾーンのスコットランド交響曲」の
ポケットスコアの表紙の紙の匂いが、私の
拙脳にすり込まれたのである。だから、
そのポケットスコアをときたま手に取ると、
その美しく親切な看護婦さんの顔が
瑞々しくチュウジつに脳裏に蘇るのである……
その名札の文字とともに。
これは辞世ではなく、生前最後の句作だったまで、
というむきがある。が、芭蕉は
はっきりとこれが最期だと自覚して詠ったと感じる。
下世話な私などは、ガキの頃、
親戚の家で病になって、
イヤらしい夢想が、
涸れ脳をかけめぐったものである、が、
芭蕉の句はもちろん高尚なものである。
松尾「芭蕉」は自身を
「はせを」と表記したそうである。別段、
庵に中庭やパセオがあったわけではない。ところで、
日本人の名の多い順の30番めあたりの
「長谷川さん」の「はせ」は、
川を下った客を降ろしてまた
川を上流に遡って戻った舟の発着地である
「発つ瀬」=「泊つ瀬」のことである。
「泊瀬」→「初瀬」→「長谷」。
伊勢神宮外宮を建立した「雄略天皇」は、
「大泊瀬幼武尊」「大長谷若建命」「大長谷王」
などとも呼ばれてた。いずれにしても、
「はつせ(→はせ)」という語(地名)が
共通項である。その宮殿だった
泊瀬朝倉宮は現在の奈良県櫻井市のあたりにあった、
と推定されてる。そして、この雄略天皇の
「籠毛與、美籠母乳」で始まる長歌が、
「万葉集」巻一の第1番めの歌なのである。
芭蕉はおそらく清和天皇と関係深い
松尾一族の出なのだろうが、
「歌詠み」の「端くれ」として、この
雄略天皇に肖ったか、または、
初瀬にルーツもしくは関係もあった、
のではないかと想像する。
「旅に病んで、夢は枯野を、かけめぐる」
たしかに、芭蕉の句作はお見事である。
初句が「字余り」になってるが、これは、
語調を整えるために
「キ」の「紀伊」を「キイ」にしたり
「石」を「シ」でなく「イシ」とするなど、
二重母音もしくは撥音には許された
和歌本来の字余りの伝統に
則ったものである。よって、
芭蕉が痔による出血のあまり
(略して、痔あまり)伏せったわけではない。
芭蕉は喉がイガイガしてたかどうかは知らないが、
40代の頃から胃がシクシクしたり
伊賀痛かったりしてたようである。いっぽう、
51歳の芭蕉を死に至らしめたのは、
食中りだという説がある。が、私は、
芭蕉の死因は大腸癌による衰弱もしくは
大腸憩室からの出血による失血死だったのでは、
と推測してる。ともあれ、芭蕉は
おゼゼ作りあるいは幼名どおり金作が巧かったとは
到底思えないが、
「墓は木曽殿(源義仲)の隣に」という希望どおり、
膳所にある義仲寺の義仲の慰霊塔の脇に
埋葬されたそうである。いずれにしても、
75歳まで生きれなかったのであるから、
後期高齢者医療制度もしくは長寿医療制度の
恩恵に浴することはなかった。
ニオイは他の感覚とは別ルートで脳を
「かけめぐる」らしい。それで、
ニオイが郷愁や記憶と結びついてることが多い、
のだそうである。中学生のときの夏休みに、
両親の仕事の関係で、親戚の家に
長期滞在したことがあった。そのとき、
プールへ行って耳に水が入り、
中耳炎になった。そこで、親戚の家から
耳鼻咽喉科に通うはめになったのだが、
その医院の看護婦さんがまた図抜けて
きれいな女性だった。
診察台の患者である私を介助する際、
袖が顔の間近に迫り、また、胸が
目の前を撫でるときがあった。ほんのわずか、
かすかに漂う芳香……。それと、
当時毎日手にしてて、待合室でも読んでた全音の
「メンデルスゾーンのスコットランド交響曲」の
ポケットスコアの表紙の紙の匂いが、私の
拙脳にすり込まれたのである。だから、
そのポケットスコアをときたま手に取ると、
その美しく親切な看護婦さんの顔が
瑞々しくチュウジつに脳裏に蘇るのである……
その名札の文字とともに。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます