チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「why-意図?」

2008年07月30日 01時14分51秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
>rhiltonw-tmsさん、
返事のコメントのつもりが、だいぶ長くなってしまいましたので、
こちらに載せます。

塾高が46年ぶりに甲子園出場を決めたそうですが、昭和37年の夏、
1回戦では父の母校と祖母が生まれ育った土地の高校が対戦するので、
それぞれの応援で賑やかしかった記憶があります。というように、
昭和33年生まれの私の記憶は4歳以降が残ってます。が、
それ以前から父とのキャッチボールを通じて野球に親しんでました。また、
観るほうでは、父に連れられて日本の野球を多く観覧しました。それに加えて、
NYに転勤になった隣家の、私と同世代の子との手紙を通じて
アメリカの野球の情報をもらい興味を覚えました。
私の少年時代の「アイドル」はミッキー・マントルでした。
ものすごい振りで大きなホウムランを飛ばすミッキーに魅了されました。ただ、
体がガタガタだったマントルは37歳で引退してしまいました。ちょうどその翌年に、
NY転勤になった隣家がSFに移動になって、
やはり対岸に引っ越してきたアスレティクスにすごい選手がいると教えられました。
それがレジー・ジャクスンです。豪快なスウィングのスラッガー好きな私は、以降、
レジーのファンになりました。
中学生になると、私は「大リーグ」好き仲間に恵まれました。ほとんどが、
当時最強のO’sファンで気が合いました。
甲君はキャットフィッシュ・ハンター、乙君はヴァイダ・ブルー、
その他の多くと私はレジー、のファンでした。
私以外は金持ちのボンボンや変人ばかりでしたので、
部活で真剣にスポーツをやるような者はいませんでしたが、
下手の横好きな「疑似大リーグ・ティーム」を作って硬式野球をやってました。
ゲイムの相手探しには苦労しました。たまに、
リトルリーグが対戦してくれました。控え選手ばかりで……。
それでも、ほとんど負けてました。が、
我々は「日本式野球」のリトルリーグの学童たちがまったく知らない
メイジャーリーグ・ベイスボールのスーパースターたちの
形態模写でマウンドに立ち、打席に入って、おおいに楽しみました。ちなみに、
私が得意だったのは、ベイブ・ルース、ミッキー・マントル、レジー・ジャクスン、
スティーヴ・ガーヴィー、マイク・シュミット、ジョージ・フォスター、
ピート・ロウズ、エディー・マーリー、晩年のカール・ヤストレムスキー、
ウィリー・スタージェル、ウィリー・マコウヴィー、
トム・スィーヴァー、ボブ・ギブスン、ルイス・ティーアント、
私は今年50歳のおっさんですから、ロイ・ホワイトも
それこそ“リアルタイム”でみてました。ただ、
彼の大ファンには失礼かもしれませんが(ゴメンナサイ)、当時の我々は邪気なく
クロイ・ホワイトと親しみを込めて呼んでました。
「黒い一本線」入りがトレイドマークのローリングズのバットを、
グリップエンドから1インチほどあけて握り、
ほぼ腰のベルトあたりの高さという「低い」位置で、
投手から手首が隠れるような構えから繰りだす、
重心の高い独特のバッティングフォームを上手に真似る者もいました。さて、
おっしゃるとおり、ホワイトはペリーから1スィーズンに3発放ってますね。
rhiltonw-tmsさんが教えてくださった
「They kept me Roy-al to the Yankees」
は読んだことがありませんでしたので、
見当はずれなことを申し上げるかもしれませんが……
当時(特に1970年代)は、かなりストライク・ゾウンが低いものでした。
2001年にストライク・ゾウンがみぞおちの上あたりまで高められ、しかも、
内角にも甘くなる、ということが話題になったことがありましたね。
1970年代は、膝からベルトの間、という、かなり狭いゾウン、というか、
実際には膝の下をかすめただけでもストライク、
というような、超「低い」ものでした。
これは打つほうも大変ですが、投げるほうはもっと難儀です。
ホワイトが「カモ」にしたのはペリー以外では、バート・ブライルヴン、
ミッキー・ロウリッチ、ヴァイダ・ブルー、ルイス・ティーアント、
デニー・マクレイン、など、一線級の速球+カーヴの、しかも、
ブルー以外は右投げのピッチャーばかりです。ただ、
そういった速球投手というものは、3番ホワイトの打席の前に何らかのミスをして
走者を出してたとすると、走者を抱えてることがすでにプレッシャーな上に、
ほとんど精神的にノックアウト状態で、
オン・デックには4番の左打ちマーサーが控えてますから、
走者に気を使いながら、「低い球は投げれない、かといってボールは投げれない」
という葛藤の中でセット・ポズィションから入るストライクを取るための甘い球を
「コンパクト・スウィング」のホワイトに打たれる、
という状況が容易に想像されます。実際、ホワイトの本塁打は
走者を置いてのものがかなり多かったはずです。逆に、
「軟投」のペリーは走者がいないときには、
帽子の「ツバ」に手を触れず、そのまま
気を抜いた「曲がらない」棒球を投げてしまうものです。すると、
重心が高いコンパクトなスウィングのホワイトには「球がよく見え」る、
のではないでしょうか。だから、
1スィーズン3本ものソウロウ・ホウマーと、ホワイトはペリーを
カモにできたのではないでしょうか。サットンも同じこと
カモしれませんね。1978年はレギュラー・スィーズンは
3分の2程度しか出てなかったのに、ワールドスィリーズでは
ずっと「本領の左翼手」として使われてましたね。
ビリー・マーティンがジョンストウンやトマスンではなく、
「なぜ-ホワイト」を固定して起用したか……まさに慧眼だったと思います。

追記(Aug.1):
資料にあたってみたところ、
「1スィーズンにペリーから3本の本塁打を放った」のは1973年のことでした。
そのうち2本は同ゲイム中でした。
3本ともすべてsolo home runでした。

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1 コメント

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貴重な目撃証言、ありがとうございます (rhiltonw-tms)
2008-07-31 23:56:30
私は東京出身、昭和37年生まれで10月には46歳になります(四捨五入すれば同い年です)。現在、仕事の都合にて関西在住です。

貴重な情報をありがとうございました。

お話したいことやお聞きしたいことが山ほどありますが、しばらく多忙につき、いずれまたお邪魔したいと存じます(自分のブログ更新もままならない状態です)。

ではまた宜しくお願いいたします。
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