チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「表裏比興の者/真田昌幸没後400年にあたって」

2011年07月13日 00時45分54秒 | 歴史ーランド・邪図
あるいは、
[150 лет со дня рождения Антона Степановича Аренского]
(アントーン・シチパーナヴィチ・アリェーンスキィ生誕150年にあたって……現行暦換算1861年7月12日……生誕地は日本との時差、夏時間5時間)

故筑紫哲也がNYで所有してたマンション売却益約4000万円を遺族らが
遺産として申告せず、他にも約3000万円の申告をせず隠蔽して
税金逃れしてたのを国税庁に見つかって追徴されてたという事件報道が、
NEWS23でされたかどうかは、土筆とアンコール・ワット遺跡の区別がつかず
チクシょーと我が頭の拙脳を嘆くにスギナい私にはわからない。ちなみに、
故筑紫哲也はタバコをチェインのように吸ってたらしい。いっぽう、
諏訪内晶子女史も国税局に海外公演のギャラ約7000万円の所得隠しを
探り当てられて追徴されたという。
脱税額が1億を超えるとこまでやってたら刑事告訴事案なので、
"世界的ヴァイオリニストが逮捕"だったところである。
諏訪内女史は東京国税庁に感謝したほうがいい。

こういった輩には「重加算税」が科せられるわけであるが、
宝暦11年6月12日(西暦およそ1761年の7月13日)は、
徳川幕府第9代将軍家重が死んだ日とされてる。
前年に隠居して家治に将軍職を譲っていたとはいえ、
前将軍、大御所ともなれば死ぬ日も"吉日"を選ばなければならないので、
実際に死んだ日ではないだろう。ともあれ、
公にはこの日が命日なのである。死因は、
持病である排尿障害から腎不全を引き起こしたものと推測されてる。
さて、
家重は言語不明瞭、
江戸城から上野寛永寺までの間に23箇所も便所を設置んした、
と記録されてることから、
脳性麻痺だったといわれてる。が、
知能は高めだったらしい。ともあれ、
父の吉宗が廃した「御側御用人」を復活させた。ときに、
御側御用人といえばやはり綱吉のときの柳沢吉保である。

現在の文京区本駒込6丁目という高級住宅街の一角にある
「六義園」は、柳沢吉保の下屋敷だった。この
「六義園」を「りくぎえん」と読むことは、
さして教養がない者でもわりと知ってる。が、
その意味まで心得てる人は多くはない。
中国の「詩経」における「6つの分類」を
「古今集」において紀貫之が「仮名序」で、紀淑望が「真名序」で和歌に
「なずらえ」た「むくさ」を下敷きにしたものである。ともあれ、
その「六義」(=風・雅・頌/賦・比・興)のうち、
前3つは詩の内容による分類、後3つは詩のの表現・修辞による分類である。
後ろ3つのうち、「賦」はありのままを叙述する、
比喩によらない表現である。いっぽう、
「比(ヒ)」「興(キャウ)」は、それぞれ、
「本来心情のない物になぞらえる修辞」
「花鳥風月に喩えて心情を綴る修辞」
である。言い換えれば、
「比」または「興」は「賦(=ありのままを表す)」の否定。
これを人物評にあてはめれば、
「顔や心がありのままでない男」
「真意を態度や行動に出さない男」
「何を考えてるか判らない男」
という意味である。で、そこから、
「表裏のある男」「タヌキ野郎」「風見鶏」「洞が峠」
という意味として使われてる。ともあれ、
秀吉に「汚ねぇ野郎」と言われるとは、それはまた
「よく言うよ」という感じである。で、
「表裏比興の者」
とは、「天正14年8月3日付上杉景勝宛豊臣秀吉書状」に、
秀吉が昌幸を評して言ったと
「上杉家記」に記されてる言葉である。

真田昌幸は、天文16年(西暦およそ1547年)に生まれ(誕生日不詳)、
慶長16年6月4日(現行暦換算、1611年7月13日)に死んだ。
戦国末期から江戸時代初期の武将である。
徳川家康より5つ年下である。
我が先祖の殿様となった人物である。信濃の小領主であり、
信玄と勝頼の代に武田家に仕えた。はじめ、
母方の武藤家の養子となってたが、
長篠合戦で兄二人が討死したために、真田家の家督を嗣いだ。
天正10年(およそ西暦1582年)に勝頼が織田・徳川連合に敗れて
天目山で自害し、武田家が滅亡すると、信長に仕えた。が、
すぐに信長は死んでしまう。すると、
後北条家の傘下に入る。が、家康の思惑と一致すると
北条から離れる。しかしまた、徳川と北条が手を握りかけると、
昌幸は今度は上杉につくのである。
[豊臣・上杉vs徳川・北条]
という図式である。これで、
昌幸は対北条の砦として千曲川沿いに城を構える。それが、
現在の上田であり上田城である。このとき、
昌幸39歳。天正11年(西暦およそ1583年)のことである。そして、
案の定、翌々年、徳川・北条は対真田に討って出てくる。
第一次上田合戦である。
徳川は7000の軍を上田に差し向けた。が、
負けたために数を少なく言ってるのでおそらく
1万の大軍だったと思われる。いっぽう、
真田方は2000。
これだけの多勢に無勢の場合、
まず無勢が無事に済むことはない。が、
この合戦で徳川軍は数百から一千という多大な死傷者を出した。いっぽう、
真田方の死傷者は50にも満たなかった。
これは戦史上、類を見ない一方的な勝敗といえる。この数字だけをみれば、
徳川ってバカかアホか命知らずのドMかってくらい、
日本じゅうの笑いものになるくらいのコテンパンものである。ともあれ、
この第一次上田合戦で徳川は真田昌幸・信幸親子に苦杯をなめさせられたが、
その15年後の関ヶ原のときの第二次上田合戦でも
初陣の秀忠以下徳川の精鋭部隊が真田昌幸・幸村親子に
またしてもさんざんな目に遭う。そして、それからまた約15年後の
慶長19年乃至20年(西暦およそ1614年-1615年)の大阪の陣の、
冬の陣では真田幸村の真田丸に翻弄され、
夏の陣では幸村によって家康自身が本陣に突撃される、
というところまで攻め込まれた。

昌幸死後の大阪の陣はおいといて、
これでよく助命嘆願が叶ったものである。しかも、
配流先は高野山。金剛峯寺でも、
今後無事、でもかまわない、みたいな言葉遊びしたくなるような、
ぬるい場所である。さらに、幸村の
「妻帯したい」という希望まで叶えられて、
高野山から九度山に変更相成る、という甘さである。
徳川にしてみれば、これほどまでにやられた相手はなかったのに。とはいえ、
武士には敵でもアッパレなものは感じ入る。
お互い、殺し合いではあっても、そのときの敵対は、
成り行きである。素直に敵を賞賛する心がある。
第一次上田合戦のおりの砥石城における長男信幸の知将ぶりに目を付けた徳川は、
勇将本多忠勝の娘を家康の養女として娶せてたのである。
この信幸と岳父忠勝の助命嘆願で配流に減刑されたという。

紀州に配流となって11年。
赦免を期待しながら叶わず、昌幸は65歳で病没した。が、
その3年後に起こった大阪の陣に幸村は九度山を脱出して
大阪方につく。そして、亡き父から学んだ戦術を駆使して、
歴史に残る戦ぶりを示して死んだ。ちなみに信幸は、
関ヶ原の後、死罪となった父と弟を助命する一環として、
通り字である「幸」を将軍家に憚って
諱「信幸」を「信之」に改めたといわれてる。が、
さらに弟が徳川に刃向かったこともあり、
加増という名目で上田から松代に転封を命じられ、
江戸城外郭の中で最難関、つまり、
手間も金もかかる四谷見附から喰違見附までの区間の工事を
真田家が命ぜられる。これが四谷濠、いわゆる
真田濠である。現在、埋められて、
上智大生が暢気に運動してるグラウンドである。
東京都からイエズス会上智大学が借りてるのである。
四谷は東京におけるカトリックの総本山みたいな地であるが、
かつて四谷にはロシア正教会があった。
いわゆるアレンスキー(1861-1906)はペテルブルク音楽院で、
いわゆるリムスキー=コルサコフに学んだ。が、
和声法が無学な師の有名無実さにあきれて、
彼らが羨望と妬みで敵視するチャイコフスキーに傾倒した。
これは表裏比興の者とは言わない。
実と虚を見分ける能があった音楽家なのである。
アレンスキー自身は作曲家としては取るに足らないが、最近、
このアレンスキーの「5拍子」趣味が、
チャイコフスキーの最後の年の2つの「5拍子」への
ヒントだったのではないかと、
ロシア音楽学・ロシア語学者の高橋健一郎さんに
示唆していただいた。
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