チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「通算打率3割6分6厘/Ty Cobb(タイ・カッブ)没後50年にあたって」

2011年07月17日 22時16分00秒 | 野球新陰流(上泉偐勢守のホウボウ剣
日本では今年AXNで放送されたTVドラマ
"November Conspiracy(ノウヴェンバー・コンスピラスィ=11月の陰謀)"は、
1963年11月に起きたケネディ暗殺を下敷きにしたものである。
主人公はその暗殺犯に巻き込まれた。
デトロイト川を国境として挟まれたデトロイトと
カナダのオンタリオ州ウィンザーという隣町が舞台になってる。
デトロイトは、スーズィー・クワトロ、マドンナ、エミネムといった
ポップス歌手が幼少期に関係した町である。
工場労働に従事するために100年前から
南部の黒人が移り住んできたために、
現在では治安が悪く、白人は郊外に出てしまった。ために、
白人が10パーセント強、という、
平均的な米国の諸都市の黒人10パーセントとは、
まったく対称的である。そんな町に100年少し前、
黒人嫌いなメイジャーリーガー(当時は白人のみ)が「南部」からやってきた。

Tyrus Raymond Cobb(タイラス・レイモンド・カッブ、1886-1961)は、
1905-1928(デトロイト・タイガーズで22年、フィラデルフィア・アスレティクスで2年)に
プレイしたメイジャー・リーガーである。
左打ち・右投げの外野手でおもに中堅手だったが、
捕手と遊撃手以外は守備についたことがあるし、
登板したこともある。
長打狙いはせずに短打と機動力で点を獲得するタイプの
いわゆるスモール・ベイスボールの代表的選手である。
本塁打が売り物だったベイブ・ルースと好対照な存在である。また、
愛嬌があり気前がよかったルースに対して、
気難しく人をよせつけず吝嗇だったうえに、
いわゆるラフ・プレイや乱闘が多かったカッブは、
ベイスボール・ファンからもティーム・メイトからも嫌われ者だった。

なぜ、
そのように粗暴だったのかといえば、
もともとの資質もあっただろうが、カッブは
母親が15歳のときの子だった。その母親は
カッブがマイナー・リーガーだった18歳のときに、
父親を銃殺した。父親がわざと家をあけてる間、
あんのじょう、間男とラヴ・アフェア中だった母親が、
浮気現場を押さえようと寝室に侵入してきた父親を
"強盗だと"思って"誤射"したのである。
その間男は黒人だったという話もある。
リー・ジェイ・コッブとタイ・カッブの違いも聞き分けれない
拙脳なる私にはその真偽のほどは確かめれないが、
カッブが黒人を毛嫌いするようになったのは、ジョージア州生まれで、
かつそんな体験をしたからだったとのことである。ちなみに、
オンデ・デック・サークル(いわゆるネクスト・バッターズ・サークル)で、
マルティプル・バットを使った最初の選手である。それは、
いわゆるマスコット・バットと現在日本で呼ばれるもので、
打席直前の素振り用の重いバットで、
実際に使うバットが軽く感じれるようにするためのものである。
カッブはこれを黒い色にして見極めやすくしてた。が、それは
川上の赤バット、大下の青バットというよりは、藤村の物干し竿……
黒人の間男というPTSD克服のための色づかいだったと思われる。

そんなカッブのもっとも有名な暴力沙汰は、
1912年5月15日、NYのヒルトップ・パークでのハイランダーズ戦である。
タイガーズのダッグアウトのうしろに陣取ってたクロード・ルーカーというハイランダーズ・ファンは
カッブが守備についたり打席に立つためにダッグアウトから出ると悪態をついてきた。
カッブはもちろん口で応戦した。が、
カッブは不測の事態を避けるために、打席が回ってこない2回表には
センターうしろのフェンス裏にいた。そして、
3回表にはNY側のダッグアウトに行って、
「あの客を退場させてくれ」と要求した。そして、
タイガーズのダッグアウトに戻ると、ルーカーを挑発するようなことを叫んだ。すると、
有名だった上記のカッブの母親の不貞の噂をネタにして、ルーカーは、
"half-nigger(ハーフ・ニガー=半クロ野郎)!"とヤジったのである。これには
さすがにカッブはキレてしまった。
ダッグアウトから観客席に飛び乗って12列も座席を飛び越え、
ルーカーめがけて殴りかかった。そのとき、周りの客が
ルーカーの障害のことを注意しようとした。そのヤジ野郎ルーカーは
工場の事故で片腕がなく、もういっぽうの手の指も3本なかった。が、
カッブは容赦なかった。
「喧嘩を売る」ということは、障害者であることを盾にはできず、
そのような結果になることもあるという覚悟をしてからにしろ、
障害者だからといって何でも許されると思い上がったら大間違いだぞ、
という教訓をその卑怯な観客に与えたまでのことである、カッブにとっては。
タイ・カッブとノウラン・ライアンの顔の区別がつけれない拙脳なる私には、
その是非はどうとも言えない。ともあれ、
警官がカッブを引き離し、暴行事件はやっと収まった。結果、
カッブには10試合の出場停止と50ドルの罰金が科せられた。

教訓といえば、よく、
「キレても何の益もない」
としたり顔でいうむきがある。が、
そんなことはない。このカッブのようなタイプにとっては、
「あいつは何をする奴かわからない。起こらせたら本当に殺されかねない」
と思わせることで、いろいろな意味で抑止力となるのである。
カッブにけっしてヤジをとばさない選手が多かったという。
とはいえ、
人気がなく、友人もなかったのは事実である。そのいっぽうで、
引退時に残した百近い記録、そして何より
未だに大リーグ記録として破られてない「通算打率.366」は、
カッブが卓越した野球の才能の持ち主だったことを
はっきりと物語ってる。そして、
不祥事や不人気選手が選ばれない傾向が強い
「ホール・オヴ・フェイム(殿堂)」入り資格投票の第一回(1936年)では、
ルースを上回る得票数で殿堂入りしたのである。それにしても、
残ってる映像を見ると、そのスライディング・フォームは
スライディングのお手本のような美しさである。いっぽう、
その左打ちのバットの握りは、左右の手を離すという、
現在はほとんど採る者がない握りをしてた。これだと、
たしかに飛距離は出ないが、ボールに当てやすい。
バットの軸がブレにくいからである。
ルースが登場するまでの「飛ばないボール時代」には
適合したスタイルだったといえる。というように、
カッブはいわゆる頭脳プレイに徹した選手だった。そのカッブの
優れた情報収集・分析能力は別の分野でも発揮された。
カブ(Cobb)という名にし負う株への投資である。
投機家のお株を奪うほどの才能だった。
所属球団タイガーズの地元は「自動車産業」の町デトロイトである。
GMに合併される前の会社の株やGM株、
出身地ジョージア州のコカ・コーラの株で、
億万(ドル)長者となったのである。
カッブはジョージア州アトランタで亡くなった。が、
1995年にカッブの伝記が映画化された"Cobb"では、
「ジョージア」ではなく「サントリーBoss」のCMで億万長者になった
トミー・リー・ジョウンズがタイ・カッブ役を演じた。ともあれ、カッブは
大金持ちでケチだったが、自分が意気に感じたことや人には
サポートを惜しまなかった人物らしい。ちなみに、
cobbもчайкаもカモメという意味である。
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