チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「トラファルガーの戦勝はハミルトンの寛容さにあった/ホレイショ・ネルソン戦死205年記念」

2010年09月30日 01時12分35秒 | 歴史ーランド・邪図
英国の首都ロンドンの中心地ともいうべき場所にある
"Trafalgar Square(トラファルガー広場)"には、
"Nelson's Column(ネルスン'ズ・コラム=ネルソンの円柱)"が
高々と建ってる。英国にとっての最大の英雄が、
ネルソン提督なのである。
Horatio Nelson(ホレイショウ・ネルスン)は、
252年前の今日、1758年9月29日、
イングランドのノーフォークのバーナム・ソープに、
教区牧師の倅として生まれた。が、家庭の事情で、
少年の頃に海軍に入り、21歳で艦長になった。
歴戦の中で右目の視力を失い、右腕も亡くした。
38歳でナイト、40歳で男爵、43歳で子爵を与えられた。
ナーポリ王フェルディナンド4世からは公爵を授けられてる。ちなみに、
その公爵名のBronteにあやかって、本来の
BruntyをBronteに変えたのが、有名な
ブロンテ三姉妹の父である。ともあれ、
ネルスンは持ち前の剛胆な性格と、もともとは
ハンサムだったので、165cmのチビでしかも
船酔いしやすい体質ながら、女性にモテた。
元ナーポリ大使の外交官サー・ウィリアム・ハミルトンの若き後妻エマとは
"本気で不倫"をした。エマはウィリアム卿の妻ながら
ネルスンの娘を産む。が、
サー・ウィリアムはネルスンが祖国英国のためには
必要不可欠の人物であると認識し、
二人の"愛"を黙認したという。ちなみに、
エマは多淫の気があるようである。ネルスンとの間に娘を産んだあと、
英国王太子ジョージ(のちの英国国王ジョージ4世)と
"浮き名"を流したのである。そこでネルスンは、
コペンハーゲンの海戦が終わると司令官を辞して
エマとサー・ウィリアムと"3人仲良く"暮らしたのである。が、
英国がネルスンを放っておくわけがなかった。
ネルスンは軍務に復帰した。そして、
"その時がやってくる"のである。

「ワーテルローの戦勝はイートンの校庭にあった」
というのはウェリントン公爵ウェルズリーの言葉ではなく、
他人の作り話かもしれないが、その
アーサー・ウェルズリーはネルスンに一度だけ会ったことあった。
ネルスンの栄誉ある死の寸前のことである。
後年、ウェルズリーは回想してる。それによると、
植民地省の待合室で偶然に同席したのだという。
ウェルズリーは当時ウェリントン子爵。同じく子爵同士だったが、
ネルスンが話しかけてきて一方的にしゃべりまくったという。
それも下らない話ばかりで、ウェルズリーはうんざりしてた。が、
ネルスンは途中で席を外した。そして、戻ってくると、
まるで人が変わったように今度は真面目な話をしだした。
おそらく、退席したのは自分がタダモノではないと気づいて
誰だか他の人に訊きにいったのだろう、とウェルズリーは推測する。
ともあれ、戻ってきてからのネルスンの
英国とナポレオンが台頭してきた大陸情勢に関する話には、
深い知識と鋭い洞察が感じられたという。それにしても、
ネルスンの軽率な輩から一廉の人物への豹変ぶりに接したことは、
イートン中退とはいえ、貴族の教育を受けてきたウェルズリーには、
よほど驚く体験だったのだろう。

そんなネルスンのエピソウドからは、次のようなことも
容易になるほどと頷けるものである。
ネルスンの臨戦態勢は
"Nelson's Warfighting Style(いわゆるネルソン流)"
と呼ばれる。それは、
軍人としての勇敢さ、冷静さ、優れた配慮に、
部下各人がネルスンが何を考えどうしてほしいと思ってるのか、
阿吽の呼吸だったのである。

1805年10月21日正午、
旗艦Victory号からネルスンは味方艦に、
[253][269][863][261][471][958][220][370][4][21][19][24]
という信号を送った。
"England expects that every man will do his duty"
(英国は各自が己の義務を果たすことを期する)
という符号である。そして、
「ネルスン・タッチ」と後年呼ばれることになる、
目新しくもない2列縦隊で敵艦隊の隊列につっこむ
非常に危険な戦術でトラファルガル沖の海戦に挑んだ。
結果は、英国艦隊によるフランス・スペイン連合艦隊への大勝だった。
が、
常に甲板に立って士気を鼓舞してたネルスンは、午後1時すぎ、
敵の射撃(砲撃ではない)を受け、被弾する。
致命傷だったが、絶命するまで3時間以上ずっと意識があった。
失血死である。47歳。
"Thank God, I have done my duty."
という言葉を繰り返しながら息絶えたという。
ネルスンの遺体を乗せたVictory号は1箇月半かかって
12月5日に英国のポーツマス港に帰還した。
翌年1月に葬儀は5日間にわたって執り行われたという。
1月9日にセント・ポール寺院の地下室に安置された。
ネルスンの人生は常に命を捨てたものだった。
それは幼少の頃の何らかのトラウマによるものだろうが、
その言動の端々に、いつ死んでもかまわないという
気迫が感じられ、涙なしには触れれない。

ところで、
ネルスンの遺体は腐敗を防ぐためにラム酒の樽に漬けられた、
という咄がある。水兵らは勇猛なネルスンにあやかろうと、
血が混じった酒を飲んでしまったという。ちなみに、
当時、蒸気船のボイラーづめの兵員用にラム酒が与えられてたのである。
ストレイトで飲むものだったが、強い酒なので、トラファルガー海戦の半世紀前、
エドワード・ヴァーノン提督が水で割るようにした。が、
薄いラム酒は水兵らには不評だった。
月に替わってお仕置きはされなかったが、
grogram(グログラム)という絹と羊毛を混ぜた生地のコウトを
ヴァーノン提督が着てたことから、その薄酒が
"grog(グロッグ)"とか"groggy(グロッギー)"と蔑称されてたという。
のちに、アルコール度が低いからといって薄く割ったラムを
ガブガブ飲んでグデングデンに酩酊した者の状態を、
"groggy(グロッギー)"と形容するようになった。
いずれにせよ、
Victory号にはネルスン提督の遺体を安置しておくような
「保冷所」はなかったのである。
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