ぺるちえ覚書

兎追いしかの山… 懐かしい古里の思い出や家族のこと、日々の感想を、和文と仏文で綴ります。

マルグリット・デュラス 『絶対なる写真』 "La photo absolue" de Marguerite Duras

2021-03-31 02:43:13 | 日記/覚え書き

2021年の始め、2ヶ月滞在した東京からパリに戻ってすぐのある日のこと。「パリ市主催の文化講座の締め切りが延長になりました!」とママ友の一人、さやかさんからグループ・ラインで情報が届きました。さやかさんは普段から頼りになるしっかり者。おお、彼女はなんと向上心高く、常に行動的なことか!と感動。単純な私はすぐに感化されて昔を思い出し「私もフランス語作文が習いたいと思っていた!」と応えると、彼女はすぐに講座のリストをシェアしてくれました。ありがたいことです。


しかし、私がフランス語を真面目に習っていたのは写真学校に入る前のこと。もうン十年も前の話です。当時、確かソロボンヌ大学の外国人向け文化講座でB2クラスの証書を取ったのが最後。その後も学生時代は周りに助けられながらレポート出したり卒業論文を書いたりもしましたが、専門は語学力は二の次の写真でした。それからずっと日常生活で不便しない程度のかなりイイ加減なフランス語でなんだかんだ凌いで来てしまったのです。


ともあれシェアしてもらったパリ市文化講座のリストに目を通すと、実に様々な分野の文化講座が開かれていてビックリ。それも今はパリ市民でなくても受講でき(越境入学可=クールブヴォワ市民でもOK!)、かつ誰にでも手の届く良心的な受講料なのです。人気があるのも納得。講座リストのフランス語学習枠、外国人向け講座の中に「歴史と文化を学びフランス語力を高める」という講座と「創作フランス語書き方B2-C1レベル」というのを見つけて、取り敢えず急いで両方に申し込み手続きをしました。毎回ほとんどのクラスに定員を越える応募者数があるので選抜試験ありとのこと。数週間後、まずはサイト上の申込書に書いた数行の志望動機を元にした書類選考の結果が来ました。「歴史と文化」の講座はすでに定員いっぱいでテストも受けさせてもらえず、試験を受けても良いという返事を貰えたのは「創作フランス語」のクラスだけ。3月3日に試験を受けて合格すれば引き続き受講できるとのこと。あああ、でもフランス語の試験だなんて、もう何十年も勉強していないし、今更そんなの受けても無理だろうなあ、と。諦め半分だったのですが、当日は意を決してダメ元で試験会場へ。


コロナでマスク姿の受講希望者が二十五、六名でしょうか、年齢は二十代の学生さんから上は私とそんなに変わらないだろうと思われる姿もチラホラ。教室で担当教諭を待つことしばし。13時からのはずが先生が現れたのは20分後。3時間枠なので確かに時間はたっぷりあるのですが、何もせずに教室に座っているのは流石に。。。 にこやかに遅刻して入って来たクラスの先生は年のころ三十半ばと思われる大変チャーミングなヴィクトリアさん。ラジオ・フランスのフランス文化放送で放送作家をされているとのこと。まだ小学生の息子さんがいて、今日の授業の前は息子さんを学校に迎えに行ってサーカス・アトリエにドロップしてから来るので遅れてしまうけど申し訳ない、とのこと。その辺フランスはおおらかです。誰も文句を言わない。彼女の自己紹介を聞いている間にも、遅れてやって来た受講希望者が23人。コロナ規制で本当は椅子をひとつ置きに座らなくてはいけないのですが、教室は満杯で座る場所もないほどに。これでは無理だからと筆記試験は取りやめにして、空いている隣の教室で一人づつの面談試験に急遽変更。なんとラッキー!思わず胸を撫で下ろし、それなら受かるかも?と私にも一筋の光が。


順番を待ち隣の教室に入ると、教壇の前の席に座ったヴィクトリアさんはにっこり「どうぞ」と。勧められ彼女の前に座った途端、一気に数十年前の学生に逆戻りした感覚に襲われて一瞬、動揺。どう見ても先生の方が私よりずっとお若いのだ。そうね、年は気にしないこと。人間、幾つになってもその気があれば学べます。と自分に言い聞かせ、自分のバック・グラウンドは写真であること。結婚するまで写真作家として活動していたこと。出産を機に、不器用で一つのことしか出来ないので写真を辞めてしまったこと。辞めた時に作りかけていた作品があって、写真と文章で一冊の本にするつもりで写真は撮り終わったのだけど、どうしても文章が書けず、そのままにしてしまったこと。できればその文章を書けるようになりたいこと。。。などを一気に伝える。


「マルグリット・デュラスの『愛人』(L'Amant)は読んだ?あの小説、実は最初は写真アルバムとしての企画だったのよ。だから読むとわかるけど、すごく写真映像的な小説なの。」とヴィクトリア先生。『愛人』は元々はデュラスの少女時代の写真を集めたアルバムに彼女の文章を添えて出版する企画だった。本のタイトルは『絶対なる写真』(La photo absolue)。それは写真に写し撮られることのなかったデュラスの「運命の映像」のこと。ところが、デュラスが書き上げた自伝小説を読んだ出版社は「文章は要らない。写真だけで出版する。」と言ったそう。当然、作家デュラスがそんな話を受けるはずはなく、この出版社を断って企画をミニュイ社に持ち込む。写真アルバムと自伝小説を受け取ったミニュイは、先の出版社とは逆に写真なしの純文学として小説のみを出版することに決めます。1984年、デュラスは70歳で『愛人』によりゴンクール賞を受賞。


「写真と文章を一緒にするのは不可能なのよ。」とヴィクトリア先生。私が "Je voudrais trouver une sorte de résonance entre l'image et le texte" と言うと、彼女はちょっと「ふむ」というように微笑んで "C'est bon pour moi!"とのこと。来週も来ていいんですか?と聞くと笑顔が返ってきました。


次の日、さっそく図書館でデュラスの『愛人』を借りて一気に読み終わった私。自分にいま必要なエッセンスが全てそこに入っているような小説で、感動。実は映画でしか観たことがなかったデュラスの『愛人』。映画は至って凡庸な作品でしたが小説は別物です。監督の才能も問題なのでしょうが、いかに純文学の名作を映画にするのが難しいかが分かります。それにしても私にとっては恐ろしいほど全てがマッチしたタイミングなのです。起きるときには起きる、というアレです。すべてはお陰さまなのです。きっかけを作ってくれたさやかさん、そしてヴィクトリア先生に感謝です。


続きは多分またご報告しますね。


こちらもコロナはまだまだ衰えを見せません。

パリは来週からまたロックダウンの噂です。

皆さまもどうぞご自愛下さい。





天界の魂

2021-03-14 01:03:03 | 日記/覚え書き

夫の親友の息子さんが亡くなった。留学先のプラハで明け方に星を見ようと友達4〜5人と上った5階建てのアパートの屋根から、手から滑ったライターを取ろうとして落ちてしまったと言う。19歳だった。


お父さんに似て感受性豊かで繊細で、少年の頃から優しく物静かな微笑みが印象的なスラッと背の高い美しい青年でした。


夭折という言葉がある。語源が知りたくなって広辞苑を見ると「年が若くて死ぬこと。わかじに。夭逝。夭死。」とだけある。そこで字統で夭を引いてみる。*「夭 : ヨウ(エウ) 。くねらす、わかい、わざわい。形象: 人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形。夭屈の姿勢をいう。(中略) 若い巫女が身をくねらせながら舞い祈る形で、両手をあげ髪をふり乱している形は芺で笑の初文。その前に祝祷を収める器である口(サイ)をおく形は若。いずれも若い巫女のなすことであるから、夭若の意がある。それで若死を夭折、夭逝という。(中略) ソク(頭を傾けて舞う人の形)が祝祷を収めた器の口(サイ)を奉じて舞う形は呉で、娯の初文。神を娯しませることをいう。笑もまた神を娯しませることであり、神楽の古い形式は『笑いえらぐ』ことであった。」とのこと。若い巫女が神さまに祈り舞う姿、夭という一字に秘められた意味を知り、大いに腑に落ちる。


学生時代に好きでよく読んだ作家 三島由紀夫は「夭逝に憧れていた」と、どこかで読んだことがある。澁澤龍彦だったかも知れない。天才は夭逝するものだから、と。それで彼はあのような死に方になったのか知ら? でもあれは夭逝ではなかったけれど。


実は夭折とは、神さまの目を盗んで天界からここ人間界に遊びに来ていた純真無垢の無邪気な魂が、遊んでいる途中で神さまに見つかってしまい、「いいから早く帰っておいで」と呼び戻されてしまう事なのではないか? 


きっとそうに違いない。


そうとは知らずに彼らの受け入れ先となっていた家族や友人達は、まだこれからという彼らの天への突然の呼び戻しにただ呆然となり、意味もわからないまま早すぎるお別れを強要される。残された私たちに「呼び戻し拒否」の選択肢は与えられていないから。どのように引きとめようとしてもかぐや姫が月に帰ってしまったように。


全て今だけの神さまからの預かりものだったことを思い出す。


かぐや姫と違い、私たちはどんなに悲しくても愛しい彼らと過ごした時間を忘れない。彼らは私たちの魂に深く刻み込まれて心の中で生き続ける。ずっと一緒に。


「彼ら」の思い出は「私」がいなくなった後も、今度は「私」と共に過ごした時を忘れずに覚え続けてくれる別の誰かの記憶のどこかに、「私」の思い出と共にこっそり刻み込まれはしないだろうか? 沈黙したまま引き継がれてゆく隠れた遺伝子のように、ひとつひとつ鎖の輪が繋がれていくように、人が出会い慈しみあう限り、いつまでも。


当たりまえに過ごしている愛しい人達との今をもっと大切に生きなきゃと思う。もったいない毎日を過ごしている。


ほんの束の間でも下界に降りて来た天界の魂たちへ感謝を捧げます。


皆さま、どうぞご自愛ください。



*新訂 字統 [普及版]著作者-白川静 出版-平凡社 2007年より


家族って、なに?

2021-01-20 01:23:37 | 日記/覚え書き

新型コロナ大流行のせいで、昨年(2020年)は毎年家族で楽しみにしている夏休みの日本帰省も叶いませんでした。実家の両親にとって唯一の孫である息子も、丸々一年以上も日本の祖父母に会えずさすがに寂しがっていました。😿


息子は小6から中学2年の一昨年まで、毎年6月の半ばにフランスの学校が終わると直ぐに東京の実家に戻り、実家のそばの公立校に仮入学をして一ヶ月ちょっとの間ですが日本での学校生活を享受していました。「日本の学校給食は美味しい!」と喜んだり、期末テストを皆と一緒に受けたり、放課後のクラブ活動(陸上部!)に参加したりと、日本で同い年の友達も沢山できてとても楽しかったようです。フランスのリセでも日本語バイリンガルのクラスに通っているので、高校一年生になった今も日本の漫画やラノベが大好きです。


...実は長年闘病していた父の容態が、昨年の夏以降かなり悪くなっていました。夏は無理だったけど10月の秋休みには帰省しておいた方が良いのでは?とも言われていたのですが、新型コロナの猛威は世界中で収まる様子もなく、移動中の感染リスクや到着後2週間の隔離期間などを考えるとやはり家族での帰省は難しいものでした。常から母には「必要だったらいつでも帰るから言ってね」と伝えていたのですが、母は「帰って来てくれたら助かるけど、長時間の飛行機はコロナ感染のリスクが怖いから無理しなくていい」と言い、父からも「恨まないから帰ってこなくていい」とまで伝えられて。。。 結局、秋も泣く泣く実家に帰ることを断念していました。


そうして2週間過ごした秋休みの終わり、11月のはじめにブルターニュの家からパリに戻る途中で「実家の父、危篤」の連絡が入りました。ノルマンディの義理の母の家を経由して総距離600Km強。軽自トヨタを運転してパリに帰宅したその足で独り飛行機に飛び乗り、羽田空港へ。「長くなるけど...」と言う私に「大丈夫!」と、年明けまでの長期の予定でパリを留守にする事を夫と息子は快く引き受けてくれました。(息子はちょっと不安そうでしたが... 笑) 


その日、私が羽田空港に到着して新型コロナのPCR検査の結果を待っている最中に「いま亡くなりました」の連絡が。ああ、私が日本の地に戻るのをギリギリまで頑張って待っていてくれたのかも、と最期に会えなかった父を思いました。


この一年新型コロナのせいで帰って来れず、最後にもう一度、孫の顔を見せてあげられなかった事だけは悔やまれました。この夏、いつものように実家に帰省していれば、もう少し最期の時間を一緒に過ごすことが出来たのにね...と。実は父は我儘放題生きてきた人だったので、最期のお別れもあまり悲しいと言う気持ちは湧いて来ませんでした。でも孫とは仲良しでした。最期に高校生に成長した孫に少しでも看病して貰えていたら、きっと喜んだろうなあ、と思わずにはいられませんでした。それは、どんなに辛く大変でも、息子にとっても祖父との大切な思い出になっていたに違いありません。普段離れていても、父と娘、祖父と孫、家族は家族なのです。


ひとつ残念だったことは、実家の家族の中に何を勘違いしてか、それが分からない者がいたこと。でも、理解できない者には何を言っても仕様がないから笑って諦めるしかない。どこにも理想の家族などなく、それぞれ自分のことで精一杯。凸凹なのです。


それにしても本当に自分の好きな様に生き切ったなあ、と思う父。「まだもう少し生きていたい」という思いはあったかも知れませんが、あまり後悔は無かったはず。お葬式でも家族は母も誰も泣いておらず、なんだか不思議でした。父が亡くなったのに悲しくない、と言うのも変ですね。お悔やみにいらした父の友人の中には、オイオイと涙して下さった方もいらっしゃいまいしたが。。。


父が亡くなったことで、今さらですが「家族ってなんだろう?」と、ふと思いました。父親と母親がいて、子供がいて、それが家族の最小単位でしょうか? でも、いろいろな形の家族があります。片親でも、夫婦だけでも、おばあちゃんと孫だけでも、兄弟姉妹だけでも、家族でありえます。再婚して家族が広がることもあります。我が家の夫もバツイチですが、クリスマスには夫の長男とそのお母さん(前妻)も一緒に集まって皆で祝います。大きな意味ではみな家族です。笑


もともと夫は7人兄弟の末っ子、フランスの大家族です。いとこやはとこも沢山いますし、姪っ子や甥っ子もわんさかといます。以前、義理の母の「いとこ会」にも出席しましたが、ヨーロッパ全土から150人ほど集まっていました! 日本にも昔はこういう大家族が沢山いたように思います。大家族が普通だったその頃は「家族って、なに?」なんて思うことも無かったかも知れません。


結局は自分が「家族だ」と思えば、それが家族なのかも知れませんね。

私にとって家族は「安心して帰れる場所」、シェルターです。そしてお互いに我儘を言い合えるのも、本気で喧嘩できるのも、信頼できる家族ならでは。笑


Ma petite famille comptes pour moi.

私の小さな家族に心からありがとう。

 

皆さまどうぞご自愛下さい。



ブルターニュの潮風にふかれて

2020-09-18 00:28:41 | 日記/覚え書き
前回、今年の夏休みは日本への帰省をあきらめて(涙)、一か月半を賑やかに北ブルターニュの家で過ごしたお話をしました。今日はその続きです。

ブルターニュ地方はフランスの北西部にあり、北をイギリス海峡、西をケルト海と大西洋、南をビスケー湾に囲まれた、ヨーロッパの北の海にグッと突き出た形の半島です。歴史的にも長く独立を保ってきたケルト系民族の地方で、ブルターニュ独自の文化と言語を持っています。半島は大きく5つの県に分かれていて、私たちの家はその西端にあるフィニステール県の北、"Aber"(アベール)と呼ばれる美しいリアス式海岸のL'Aber-Benoît(ラベール・ブノワ)沿いにあります。Finistère(フィニステール)はフランス語で "fin de la terre"、つまり「地の果て」ということ。ここは本当にフランスの最西端で、日没もパリより20分ほど遅いです。

家から最寄りの駅はBrest(ブレスト)なのですが、ブレストは中世からの軍港の街で今でもフランス海軍の重要な基地があり、有名な水族館のある海洋学研究所があったり、ブレスト大学もある大きな街です。パリからおよそ600㎞西にあり、フランスの新幹線TGVでなら今では4時間ちょっと、車でなら6時間ほど掛かります。余談ですが、輪型に焼いたシュウ生地にヘーゼルナッツを効かせたバタークリームを挟んだお菓子「パリ・ブレスト」の名前の由来である自転車レースは、パリからブレスト往復の1200㎞のレースだそうです。

ブレストから家までは北に約25㎞、車で約30分かかります。ブレストの街を出て、一つ、二つ、三つ、町をこえ、教会のある村をこえ、畑をこえ、林をこえて、海へ、海へと北に向かって進んでゆくと、だんだんと空間が開けてきて、まるで大空と大地と海とが一つにくっついたような風景になり、まさに「地の果て」というにふさわしい、感動に似た感覚にとらわれます。パリから始めてきた友達などはよく「おおお、地の果て~」と車の中で思わずつぶやきます(笑)。

私たちの家のある小さなコミューン(地方自治体)は元海軍関係の家族が多く、その多くが4世代5世代前からここに家を持っているそうです。彼らの曾お祖父さん、曾お祖母さん達がブレストから出て週末を過ごすために、ここに家を建てたのが始まりとのこと。彼らのほとんどがヨットを持っていて、コミューンのヨット・クラブがひとつのソサエティーになっています。ここではヨットが生活文化の一部になっていて、特に皆が集まる夏にはヨット・クラブの主催する数々のイベントが伝統となっています。例えば、毎金曜の18時はRégate(レガット)と呼ばれるヨット・レースのスタート時間(参加は任意です)。その年に選ばれた会員家族が企画運営する「チャレンジ」と呼ばれる、ヨットで移動する家族参加の謎解き競争、などなど。「チャレンジ」は毎回、企画者からテーマが与えられ、それに沿った仮装をして参加(笑)。レースの中でチームごとにテーマに沿った絵画作品も制作して、レース終了後にはヨット・クラブでそれらをオークションにかけて、集まったお金を海軍孤児の基金に寄付します。

もともと夫が「どうしても」ブルターニュに家を持ちたかった理由が実はヨット。夫も子供のころから家族でヨットをやっていて、両親の持っていたヨットを義理兄と二人で譲り受けて続けていたのですが、ヨットは両親の持っていた南ブルターニュの家をもう一人の兄と譲り受けた義理兄の所にずっと置いてあったので、いつかは自分もブルターニュに家を持ち、そこでヨットをやりたい!と思っていたのですね。

しかし、南のモルビアン県から北ブルターニュまで何日もかけて海路ヨットを持ってくるだけでもひと仕事。義理兄と「2年ごと」と取り決めて何年かは続けていたのですが、数年前に少し早すぎる季節に友人2名とモルビアンから海路に出た夫は途中で嵐にあい、危うく難破しそうになって…(涙) そもそもこのヨットは70年代に作られたプラスチック製のアルページュという型で良い船なのですが、リアス式海岸で遠浅のこちらの海には大きすぎて合わず、こちらで皆が持っているようなもっと小型のヨットが欲しいね、それもできればCotre(コートル)がいいね、と。

コミューンには家族経営の小さな造船所があって、そこの職人技で作られる木製のCotre(コートル)と呼ばれる小型の帆船を、古くからここにいる一族はみな持っています。でも、お金を出して注文すれば誰でも作ってもらえると言うものではなく(汗)、また注文を受けてもらえても数十年待ちとのことなのです。夫は諦めて小型で乗りやすければ何でもと、インターネットで手の出しやすい中古物件などを探し始めたのですが…。

ここでは、よい風が吹いているお天気の日など「ちょっと散歩をしてくる」という感じで、熟年のマダムがひとり颯爽と陽よけ帽と救命ベストを身に着けて、シンプルで美しい木製のコートルに乗り込み、白や臙脂の帆に潮風を腹ませてヨットを出します。そんなコートルがコバルトブルーの波間を悠々と進んでゆく姿は実に優雅で、ブルターニュならではの風情があって素敵です。

去年の春、夫はインターネットで見つけた中古の小さな "Caravelle"(カラヴェル)という型のヨットを買いかけていたのですが、私はどうも気が乗らず「待った!」を。そして8月にいつものようにブルターニュの家に行ったのですが、なんと、コミューンの友人が「自分のコートルを信頼できる人に売りたい、と言う知人がいるのだが、一緒に買わないか?」という話を持って来てくれたのです。これには私もひとつ返事で「OK」を出しました! 売り手は友人が家族同様に付き合っているコミューンの旧家の娘さんで、彼女のコートルは亡くなったお父さんが作らせたものだそうです。彼女の嫁ぎ先もブルターニュの人で、そちらでもヨットを数艘持っていて、もう手が回らなくなってしまったとのこと。でも、思い出のいっぱい詰まったお父さんのコートルなので、コミューンに家のある信頼できる人に譲りたいと言う話だったのです。

コートルを譲り受けて初めての夏。遊びに来てくれた息子の同級生たちも長男もコートルで海の散歩を楽しみ、夫は金曜のレガットにも参加(いつもビリッケツ~ 笑)。8月15日の聖母マリア昇天祭には元の持ち主を誘ってコートルで海上のおミサにも参列。ご近所さんたちとの海上ピクニックにも参加して、例年にも増して潮風を満喫した夏でした。



素晴らしいご縁に感謝です。
残暑厳しい折、皆さま、どうぞご自愛ください。













あっと言う間だった夏休み

2020-07-20 08:45:29 | 日記/覚え書き
実は夏休みのはじめに「子供時代の思い出 その2」を書きはじめたのですが、唯一の手持ちの端末だったiPadが故障。 書きかけた記事の下書きにアクセスできなくなってしまい、夏休みが終わる今までそのままに…涙(7月20日は下書きを始めた日付で、実は今日は9月2日です。)

いつもなら息子の学校がお休みになる6月中旬から東京の実家に帰省して息子とひと月半ほど日本で夏休みを過ごし、8月はフランスにもどって夫の好きな北ブルターニュにある海辺の家で過ごすのが、我が家のここ10年来の夏の過ごし方だったのですが。。。

今年は新型コロナのせいで東京到着時に空港で検査をしたうえ2週間の隔離期間… 高齢でハイリスクな実家の両親のことを考えても色々と難しく、息子も私も楽しみにしていた夏の日本帰省を泣く泣く断念することに。

その代わり、やはり周りのほとんどの日仏家庭が同様に日本への帰省を諦めてパリに残っていたので、息子のクラスメート3人と日仏家庭の友人一家も誘って、総勢10人の大所帯で賑やかに7月中旬からいざ!北ブルターニュの家へ~ 15歳の男子が5人、大人5人で毎日、海に庭仕事にと賑やかに2週間過ごし(私は友人と共に毎日給食のおばさんになった気分でした~笑)その後も引き続き8月後半まで夫の旧友夫婦や、長男がガールフレンドを連れて来たりと目まぐるしく楽しく、夏は海辺の家であっと言う間に過ぎて行ってしまったのでした。 夏休みって主婦にとっては全然お休みじゃないですね。 でも7人兄弟の大家族で育った夫は家が賑やかなのが大好きなので、とても嬉しい夏休みだったみたいです。

最後の一週間はようやく静かに家族三人で、大潮にヨットで潮干狩りにいったり、ご近所さんと夏の終わりを偲ぶ夕食会をしたりと、まったりのんびり過ごし、もう肌寒いほどになった海風に吹かれてからパリに戻ってきました。

一昨日パリに戻って来てびっくりしたのは街を行く歩行者がみなマスク姿なこと! 新型コロナが流行る前までは花粉症の季節でさえもマスク姿はめったに見かけないパリだったのに! 

皆さまもどうぞ引き続きご自愛くださいませ。