ぺるちえ覚書

兎追いしかの山… 懐かしい古里の思い出や家族のこと、日々の感想を、和文と仏文で綴ります。

四万温泉

2022-04-13 20:30:00 | 思い出
り〜ん
り〜〜〜ん

のき先に吊るした風鈴が涼しげな音をたてている。今日は風があるから過ごしやすくなりそう。布団に寝っころかったまま大きく開けた障子窓の向こうの空を眺める。お日さまはもうすっかり上って晴れた空が白く霞むように眩しい。また目をつむって窓から入る風の匂いを嗅ぐ。祖父母と過ごす夏休みはゆうるりと心地よい。

おはあようございまあす
失礼しまあす

抑揚をつけた挨拶で番頭さんが布団を上げに入ってくる。祖母が、ひと組敷いたままにしておいて、と頼む。風呂から上がってまたゴロンと転がれるのがいい。座敷の隅にひと組残して部屋の真ん中に卓が整えられると、着物姿の中居さんが朝ごはんを運んでくる。ちょっとした焼き魚か煮魚に付け合わせ、白いご飯と汁ものにお新香。祖母がお茶を淹れてくれる。長逗留だから食事はお仕着せでなく、食べたいものを少しだけ言う。年寄りはそんなに食べないし。夕食も中居さんが朝のうちに注文を取っておき、料理長に伝える。

今夜は何がいい?石首魚の甘露煮にしようか?

たむらの品書きの中にある祖母の好物のひとつ、石首魚の甘露煮は甘あっからく煮付けてあって白いご飯とよく合う。箸で突ついて身をほぐしながら食べていくと、魚の頭から石が出てくる。だからイシモチ。後にも先にもたむらでしか食べたことがないご馳走。

うん!

祖父は朝ご飯の前にひと風呂浴びに行っている。ここではお湯に浸かることと、ご飯を食べること以外の予定はないから。お風呂に飽きたら午後はぷらぷら散歩がてら、祖父の気が向けば釣り堀に連れて行ってもらうか、畑の横の豚小屋を覗きに行くか、そうでなければ祖母と一緒に温泉街に出てスマートボールに興じるか。たむらは賑やかな街並みから少し離れた奥まった坂の上にあった。茅葺き屋根の大きな玄関が歴史を感じさせる、四万温泉でいちばん古い旅館だった。川沿いを下って橋を渡った所にあるグランドホテルは姉妹店。叔母たちが来るとバンドの入るグランドホテルに食事がてら演奏を聴きに行くこともあった。地元の子供達が楽しげに泳ぐ、川底に大小の石がごろごろと透き通って見えるひんやりとした清流に足を浸して遊ぶのも、お守りのできる叔母たちが来た時だけの楽しみだった。浅瀬とは言え雨の後には流れもずいぶん早くなるし、足元の悪い川辺に行くのは祖父母には無理だった。

祖父と釣り堀まで行く途中の道だったか、まったりと湿った土の香る畦道を踏みしめて、夏の青空と日差しに照らされ青々と輝く野菜畑の上に、モンシロチョウがひらひらと舞う横を通り抜けると、その先に大きな豚小屋があった。怖いもの見たさで自分の背丈より高い木の塀の隙間に目を貼り付け、おそるおそる中を覗き込む。囲いの中には泥まみれの淡いピンクの大きな大きな豚たちがブヒブヒ何頭も並んで寝そべっていた。

たむらにはお風呂がいっぱい何種類もあった。一番好きなのは小人(コビト)の湯。祖母と一緒にコビト風呂に行くのはいつも楽しみだった。浴場の大きな湯船の横に、木製の壁と扉で仕切られた小さな部屋がいくつも作り付けてあって、その一つ一つが蒸し風呂になっていた。大人の背丈より低い小さな扉を開けて、身を屈めてモワモワと湯気の立つサウナのような小さな部屋に入るのは一際わくわくした。

ゆっくりお湯に浸かって美味しいご飯をいただくとよい感じに眠くなってゴロン、お昼寝。夕食までの一休みと祖父母は部屋で寛いでいることも多かった。そんな時は部屋で絵を描いて過ごしたり、祖父の友人もたむらに逗留していたから、時には一人で館内のお使いに出されることもあった。本館や新館やいくつもの大浴場が繋がって、大きな旅館はまるで迷路のようだった。

ちょっとお使いに行っておいで
これを多賀之丞さんのところに持って行ってちょうだい

祖父母が泊まる部屋はいつも同じ、本館の次の間のある奥の角部屋。祖母から包みを持たされて、ちょっと離れた新館に逗留している祖父の旧知の歌舞伎役者、多賀之丞さんのお部屋までお使い物を届けに行かなくてはならない。前に何度か一緒に連れて行かれたから、道順はなんとなく覚えている。きっと大丈夫。たぶん行けると思う。。。

はい、行ってきます

不安を隠して包みを受け取ると、館内履きの子供用スリッパをつっかけて出掛ける。部屋を出て廊下を右へ。階段を降りて新館に通じる渡り廊下へと向かう。共同手洗いや水場の前を通り越して、古い木造りで趣のある本館から新建材の使われた新館への渡り廊下を渡ると、何やら扉に張り紙がしてある。半紙に毛筆の大きな黒い字で何かが書いてある。注意書きに違いない。でも分からない。読めないのである。まだ習っていないから。

「どうしよう?どうしよう?どうしよう?」

その扉を開けて入って行っても良いのだろうか?いけないのだろうか?あまりにも不安である。でも読めないから分からない。どうしよう?白い半紙に威勢よく描かれた文字からはどちらかというと「拒否」の姿勢が感じ取られた。

「もどろう」

小心者である。でも、お使いの包みを手にしたまま部屋に戻って来た私を祖母は理解してくれた。

あら、そう?なんて書いてあったのかしらね?

もしかしたらお昼寝中だから起こさないでくださいって書いてあったのかも。。。

そうかもしれないわね、もう少ししたらお部屋にお電話してみるわ

頃合いを見計らって部屋から電話をした祖母。先方の奥さまと笑いながら話しているのが分かる。なんだか恥ずかしい。。。

あの張り紙ね、ここはお便所じゃありません、って書いてあったんですって!多賀之丞さんのお部屋、渡り廊下の扉のすぐ横にあるからおトイレと間違える人がずい分いるんですって!

祖母は笑いながら教えてくれた。なんだあ、入ってもよかったんだ。張り紙に怖気付いてしまった自分がちょっと恥ずかしかった。でも読めなかったんだから仕様がない。初めてのひとりでお使いだったし。

風がよく通るように大きく開けっぱなしの部屋の障子窓から、カネに太鼓やラッパに三味線まじりの賑やかな音が聞こえてきた。川沿いを流して歩くチンドン屋だ。今夜、グランドホテルにバンドが入る宣伝だった。

あら、今晩はバンドさんが入るのね、聴きに行こうか?

うん、行きたい!

さっき窓の外を通った売り子から祖母が買っておいてくれた、氷水でよく冷やしたスモモを齧りながら頷いた。

昭和の四万、夏の思い出。







子供時代の思い出 その3

2021-01-30 00:30:02 | 思い出
岩本町

母方の実家は神田川沿いの岩本町にありました。今はもう現代的なビルに建て替えられてしまいましたが、当時はこじんまりとした屋上のある二階建てのビルで、確か下が会社の倉庫と車庫、2階が会社の事務所と祖父母の住居になっていました。おもてから会社のシャッターの横にある小さな扉を入って急勾配の細い階段をトントンと登って行くと踊り場に出ます。踊り場の右手には事務所に入るドアがあり、左奥には祖父母の家の玄関がありました。ビルの中はいつも会社独特の紙とインクと機械油の混ざった匂いが漂っていました。 

祖父母は本宅が湘南にあったのですが、母方の家族はみな東京住まいでしたし、祖母は季節ごとのお芝居や文楽を何よりも楽しみにしていて、歌舞伎座や国立劇場に行くのにも便利な岩本町の家に祖父と共に居ることがほとんどでした。ちなみに祖母は七代目菊五郎さんの大ファンでした。

どちらかと言うと湘南の家の方が別荘のようでした。湘南には私達もよくお休みの時に遊びに行きました。そんな時は母も祖母たちと共に潮風の香る家でゆっくりと休暇を楽しみ過ごしていたようです。海岸沿いをぶらぶら江ノ島まで散歩したり、建て替わる前の昭和のサザエさん水族館や、マリンパークに連れて行ってもらってオットセイに一皿10円のイワシの餌をやるのが楽しみでした。真夜中、湘南の家で眠っているとマリンパークのオットセイの鳴き声が海風に乗ってコダマして「オイ、オイ、オイ」と布団の中まで聞こえて来ました。

母の実家の祖父母はなかなかのお洒落で新しいもの好きの大正モボとモガだったそうです。祖父は大学では大会に出場する乗馬部の選手、祖母は学生時代は水泳が得意で確か江ノ島沖?の遠泳に選手として参加もしたそうです。祖母はおばあちゃんっ子だった私に、乗馬服姿で馬にまたがり颯爽と障害を越える若い祖父の写真や、祖父と二人で白いテニスウエアに身を包みコートでラケットを手にした写真を見せてくれたり、学友達との遠泳の思い出話しなどを面白おかしくしてくれました。また祖父は動物が大好きだったそうで、秋田犬やコリーなどの大型犬を飼って犬の品評会に出場したり、一時期は小さなお猿まで飼っていたそうです。 

祖母は源氏物語や枕草子をこよなく愛する元・文学少女でもありました。前にもお話ししましたが祖母は一族きってのストーリーテイラーで、子供時代の思い出から、私たち孫も含めた晩年の家族の思い出まで、その時々のさまざまな思い出を書き綴って残してくれました。それが素人の筆ながら気取らず、時には真摯に想いを綴り、時にはコミカルに軽妙なリズムで、なかなかどうして引き込まれてしまう文体なのです。子供の頃の思い出など、少女だった祖母の目を通した当時の様子が活き活きと描かれており、読むとまるで映画でも観るように幼い祖母や祖母の家族の姿が心に思い浮かび動き出します。

とても信心深くご先祖さまを大切にしていた祖母。祖母が書き残してくれた文章には彩り深い日本文化のDNAが流れています。遠い異国で暮らすおばあちゃんっ子だった孫の私にはひとしおの嬉しさです。私や息子の中にも祖父母から受け継いだ日本文化のDNAのカケラがきっとキラキラと流れているんだ!と。

そんな祖母は小さい頃から私の一番近くにいる憧れの女性でもありました。武家育ちの江戸っ子で気前よく、お洒落でカッコイイ祖母でした。孫達にはともかく優しくて、いつもお小遣いを用意して待っていてくれました 笑。私はたまに祖母の元にお泊りに行くのが本当に楽しみでした。そのような祖母の、孫達を目に入れても痛くない様子を見て母はよく「私にはとても厳しいお母さんだったのよお~」と、ちょっと厳しい目で遠くを見ながら私に言ったものでした… 汗。祖母は幼い頃、ご実家にいらした大叔母様から大変厳しく躾けられたそうなのですが(祖母の本による)、母も祖母から同じように厳しく躾けられたのだと思います。祖母はよく母のことを「とても我慢強い子だったのよ」と私に言っていました。身長約140cmと小柄な母は兄と二人兄妹のしっかり者。若い頃、母の兄の友人達からは「小粒でピリリと辛い!」と評されながら、皆の妹のようにとても可愛いがられていたそうです。そんな母は昔から天性のお転婆ジャジャ馬な私にも、いつもとってもピリリと辛口でした~  

岩本町の家はビルの中にくねくねと迷路のように作られた感がありました。玄関を上がって廊下に出ると、正面に洗面所とお風呂場のドア。廊下を左に行くとお茶の間と台所があり、そこを越えてさらに奥に行くと、茶室とおじの部屋だった和室があって向かいのビルの見える縁側も付いていました。玄関から廊下を右に行くと、コンクリートに黒石を嵌め込んだ三和土のような土間があり、そこには地下の倉庫に続いているという重々しい扉と屋上に上がる階段がありました。三和土には小さな手洗い用の洗面台が付いていて、その横には神田川を下に覗ける小さな細長い引窓もありました。この小さな引窓から黒々とした神田川の川面に向かって食べ残しのご飯粒を投げて、フナのような魚たちが水面を割ってたくさん寄ってくるのを祖母と一緒に眺めた記憶があります。

三和土を越えて右手の廊下をさらに進むと、会社側と繋がった応接間の扉がすぐにあり、廊下をさらに進んで行くと一番奥は祖父母の寝室でお仏壇と大きな神棚のある日本間と祖父の書斎の和室が二部屋続きでありました。大きな神棚には大黒さまがお祭りされていて、私が泊りに行く時はいつも大きな幕が引かれていました。孫たちは大黒さまの神棚の前では静かにするようにと教えられていました。騒ぐと母から叱られたものです。 

祖母は美しい木像の観音さまも大切にお祀りしていました。この観音さまは祖母がお嫁入りの時にご実家から頂いて来たものだそうで、いちど祖母の夢に出て来て「足が痛い」と訴えられたことがあり、確かめると木像の観音さまのお御足が痛々しく虫に喰われていたそうです。祖母から聞いた不思議話のひとつです~  

祖母の好きな花は梅雨に咲く紫陽花で、好きな色は紫色、藤色でした。そう言えば湘南の家には見事な藤棚もありました。そして好きな数字は13、十と三で「とみ」だからと教えてくれました。だから私もラッキー7や末広がりの8と並んで13が大好きな数字になりました。キリスト教文化圏では「13日の金曜日」で一見あまり印象の良くない数字ですが、こちらでも「ラッキーな日」という解釈もあるようで、この日に宝くじを沢山買う人もいるそうです。  

祖父は30年ほど前に、そして大好きだった祖母も2003年に他界しました。私め、オバケは怖くて大嫌いなのですが(私は見たことありませんが、祖母は霊感があったらしく、幽霊を見た話や不思議な話をよく聞かせてくれました)、でもご先祖さま方はあちら側から私たちのことをずっと見守って下さっていると、かなり本気で信じています。 

ちょっと不思議な後日談をひとつ。

5年ほど前の夏休み、東京の実家に帰省していた折のこと。 その頃まだ今よりずいぶん元気だった母が当時小6だった息子を預かってくれるというので、ひとりサクッと新幹線に乗って一泊二日のプチ旅行へ。大好きなお伊勢さんにお参りに行ったことがありました。

八朔参り当日(8月1日)の夕方に伊勢市に到着。参拝は明朝と決めて、その日は散歩がてら夕涼みの似合う浴衣姿の参拝客で賑わう外宮までぷらぷら歩き、参道から神さまへのご挨拶を簡単に済ませて伊勢名物「豚捨」へ。夕食にひとり牛丼した後は、ホテルへ帰って早寝。翌日、早朝の爽やかな澄んだ空気を吸い込みながら参道をテクテク歩き、昨晩の賑わいとは打って変わった静けさの外宮でまずはお参り。それから巡回バスに乗って内宮へ。内宮参拝の後、せっかく伊勢まで来ることが出来たのだから御神楽を奉納させて頂こう!と思い立ち、神楽殿の社務所で申し込みを済ませて待合所へ入りました。


内宮の神楽殿の待合室はずいぶん広くて何セットものテーブルと椅子が並んでいます。100人くらいは簡単に入れるでしょうか。おそらく八朔参りの昨日はこの待合室も朝から満杯だったはず。それが今朝はしーんと静まり返っていて、私ひとりなのです


まさか一人?とやけに広い待合室に居場所なくオロオロしていると、後ろから先ほど受け付けて下さった社務所の女性が「先ほどお渡しするのを忘れました!」と色の付いた紙でできた案内カードを持ってきて下さいました。混んでいるときは案内カードの色ごとにグループになって、毎回数組が一緒に神楽殿で神さまにお取り次ぎ頂くわけです。 


手渡されたカードは薄い紫色。一番上に「御神楽案内カード」その下に「※藤色でご案内をします」と書かれており、真ん中には藤の花の絵と丸の中に「藤」の字、そして一番下には「◎ご案内まで待合所でお待ちください     No. 13     1名 」と書かれているではないですか! 


そこに示されている、色も、数字も、実は「藤」という字さえも、すべてが祖母を表していました。ただの偶然かも知れませんが(アリエナイ~!)、私はそのとき大好きな祖母がすぐそばに居ることを確信しました。もしかしたら祖母だけでなく、その他のご先祖さまたちも多勢一緒にいらしてるのかも~ と。笑 


ひろーい神楽殿の畳の上にひとりポツンと座った私だけのために、御神前の舞台の上では六人ほどの楽師さんが奏でる雅楽の調べに乗って、二人の巫女さんが舞って下さり、禰宜さまが神さまにお取り次ぎ下さいました。ただただ勿体なくて、言葉に出来ない感動で涙が溢れて止まりませんでした。。。神楽殿で私はひとりでしたが、ひとりではありませんでした。


皆さま、どうぞご自愛下さい。


子供時代の思い出 その2

2020-12-21 23:51:00 | 思い出

三筋町


父方の祖母の家は浅草の三筋町にありました。都営浅草線の蔵前駅からすぐでした。祖母の家は私が7歳の時に亡くなった祖父が会社の隣に自分の趣味で建てた木造の日本家屋で、家の中には古い木材と古畳の懐かしい香りがいつも漂い、四角い細身の柱や廊下の細長い床板はツルツルと黒光りしていました。家の奥が祖父母の寝室を兼ねた大きな日本間で、襖で仕切られたその隣には掘り炬燵のある茶の間がありました。おもての通りから社屋の横にある通用口を入って細長い通路をテクテク行くと、通路の突き当りがちょっと開けて祖母の家の裏口です。そこから上がるとすぐ目の前がこの茶の間でした。親戚やお馴染みさんは皆「こんにちは」とここから家に上がってきて掘り炬燵に足を突っ込み、祖母の入れるお茶を啜りながら、ヘビースモーカーだった祖母と一緒にセブンスターをふかしたり、四方山話に興じたりするのでした。


茶の間の奥の棚には分厚い大型テレビも嵌め込まれていて、この小さな部屋が祖母の家の中心でした。祖母の家に来ると私も皆と一緒になって掘り炬燵に足を突っ込み、祖母がお客さんや叔母たちとする世間話を耳にしながら、絵を描いたり、テレビを見たり、みかんを食べたりしました。おやつには祖母の好物だったペリカン食パンのバタ・トーストを、祖母と一緒にミルクティに浸して食べたりしました。当時、結婚前でまだ家に居た父の妹の叔母たち二人も、おばあちゃんっ子だった姪の私の面倒を随分よくみてくれました。


お茶の間を出て廊下を大きな日本間とは反対方向へ行くと、まず右手にお風呂場、左手には小さな洋間?があり、そこは結婚前の父の部屋だったそうで当時はもう誰も使っておらず、父の学生時代の写真が壁に掛かっていたり、薄暗い中に沢山の物だけが置かれていたように覚えています。廊下をさらに進むと右手が台所、左手は畳敷きの上がり間になっていて、その奥が滅多に使わない正面玄関でした。畳敷きの上がり間には洋式トイレと二階に上がる階段がありました。二階は叔母の部屋でした。


その頃の三筋町は日暮れ時になると、リヤカーのおでん屋さんや夜鳴きそばが笛を吹きながらやって来ることがありました。屋台がやってきた音を聞いて、いちど下の叔母のきよえちゃんと一緒におでんを買おうと器を持って外に走ったのを覚えています。屋台の上の大きな四角いおでん鍋のお出汁の中で、もうもうと立つ湯気の奥に色々な形の具がぐつぐつと煮えていて、それをドキドキしながらのぞき込んで選び、きよえちゃんに買って貰ったことが今でも忘れられません。下町の祖母の家ならではの、子供心にワクワクした楽しい思い出です。


記憶が遠すぎてもうあまりはっきりとは思い出せませんが、祖母の家は台所にも出入り口がひとつあって、そこから外に出ると、確か長屋のような家屋が数軒建っていました。そこには会社で働いていた旧知のおじさんの家などがあり、たまにそこのおばさんに「いらっしゃいな」と呼ばれて遊びに行くと、おやつに榮久堂のソフトをご馳走になったりしました。台所口の細い通路の奥には階段で登る高い物干し台があって洗濯物が竿にひらひらと舞っていました。これらの家屋と物干し台は何年か後に、父が会社の新社屋を建て増して無くなってしまいました。今はもうその社屋も祖母の家もありません。長屋の屋根が眺められる物干し台に登って遊んだのも、リヤカーで来る屋台のおでん屋さんも、昭和の子供時代の懐かしい思い出です。







子供時代の思い出 その1

2020-06-18 07:17:45 | 思い出
久しぶりのブログ。
今日は子供の頃の思い出を書いてみたいと思います。

私は昭和の後半の東京に生まれ育ちました。 戦後のベビーブームも高度経済成長も終わってバブル経済が弾けるまでの、平和で豊かな時代の日本でした。。。

父のこと、母のこと、祖母のこと、

私の両親は戦中戦後に子供時代を過ごした世代なので東京の空襲を避けての疎開生活も経験しています。 駒形の父方の実家には大きな御蔵があったのだけど空襲ですっかり焼けてしまったそうです。 江戸時代からの家宝がずいぶんあったのに全部焼けてしまった~と、父はむかし残念そうにこぼしていました。 笑

私たちが子供だったころは母もたまに、疎開先の親戚の田舎で真っ暗な夜道をタヌキかキツネにばかされていつまでたっても家に帰り着けなかった話や、畑の大きな穴に落ちて出られなくなってしまった話、戦後すぐは白いご飯にバターを乗っけてお醤油をちょっと掛けて食べるのがこの上もない贅沢なご馳走だったことなど、当時の様々な思い出を話して聞かせてくれました。

おばあちゃんっ子だった私はきってのストーリーテイラーだった母方の祖母からも色々な話を聞かされました。 母方の祖父は母が生後1ヶ月ちょっとの頃に出征して終戦後にはインドネシアで捕虜になり、日本に戻ったのは5~6年経ってからだったそうです。 祖父の留守中、幼い子供二人と残された祖母は会社も預かって随分と頑張り大変だったそうです。 とても信心深かった祖母は、祖父が戦地から無事に戻ってくるようにとまだ寒い季節に真夜中の神社にお百度を踏みに行ったのよお(プルプル~)と幼かった私に話してくれました。 そうしてようやく戦地から帰って来た祖父は、その時もう小学校に上がるほどの年になっていた母にはまるで初めて会う知らないおじさんの様だったそうです。


そんな父母が子供だった時代や、新型コロナの世界的流行でますます将来への不安の多い現在と比べると、私の世代が育った昭和の後半は本当に平和で豊かでのんびりとした特別な時代だったのだなあと感じます。

父と母は当時には珍しい恋愛結婚で二十代の半ばに一緒になり、翌年には私が生まれました。 そして私が二歳の時にひとり目の弟が生まれたのですが、父は若い頃から仕事で留守が多く、家のこと子供のことは全て妻に任せっぱなしの家庭に不在型、昭和の父親の典型的なタイプでした。 なので子育ては母がひとりで奮闘せねばならず、私は小さいころから幼稚園や学校のない週末やお休みには父方か母方の祖母の元によく預けられていました。 ちなみに父方の祖母のところに一番最初に預けられたのは生後数ヶ月の時だったそうで、 父と母が一緒にどこかへ旅行に行くと言うので2週間ほど預けられたそうです。私は帰って来た母を見てもすぐには誰だか分からずにキョトンとしていたとのこと。


私は父方母方どちらにとっても初孫だったので、両方の祖母からずいぶん可愛がって貰いました。 だから生粋のおばあちゃんっ子なのです。 無口だった明治生まれの祖父達とはあまり話しをした記憶さえ有りませんが、祖母たちとは私が遊びに行くたびに沢山のお喋りを昼に夜にしてもらいました。 特に母方の祖母からは様々な昔話や不思議な神秘的なお話をたくさん聞かせてもらいました。


幼い頃に祖母たちと過ごした沢山の時間は、今も私にとって掛け替えのない宝ものです。