内宮の神楽殿の待合室はずいぶん広くて何セットものテーブルと椅子が並んでいます。100人くらいは簡単に入れるでしょうか。おそらく八朔参りの昨日はこの待合室も朝から満杯だったはず。それが今朝はしーんと静まり返っていて、私ひとりなのです…。
まさか一人?とやけに広い待合室に居場所なくオロオロしていると、後ろから先ほど受け付けて下さった社務所の女性が「先ほどお渡しするのを忘れました!」と色の付いた紙でできた案内カードを持ってきて下さいました。混んでいるときは案内カードの色ごとにグループになって、毎回数組が一緒に神楽殿で神さまにお取り次ぎ頂くわけです。
手渡されたカードは薄い紫色。一番上に「御神楽案内カード」その下に「※藤色でご案内をします」と書かれており、真ん中には藤の花の絵と丸の中に「藤」の字、そして一番下には「◎ご案内まで待合所でお待ちください No. 13 1名 」と書かれているではないですか!
そこに示されている、色も、数字も、実は「藤」という字さえも、すべてが祖母を表していました。ただの偶然かも知れませんが(アリエナイ~!)、私はそのとき大好きな祖母がすぐそばに居ることを確信しました。もしかしたら祖母だけでなく、その他のご先祖さまたちも多勢一緒にいらしてるのかも~ と。笑
ひろーい神楽殿の畳の上にひとりポツンと座った私だけのために、御神前の舞台の上では六人ほどの楽師さんが奏でる雅楽の調べに乗って、二人の巫女さんが舞って下さり、禰宜さまが神さまにお取り次ぎ下さいました。ただただ勿体なくて、言葉に出来ない感動で涙が溢れて止まりませんでした。。。神楽殿で私はひとりでしたが、ひとりではありませんでした。
三筋町
父方の祖母の家は浅草の三筋町にありました。都営浅草線の蔵前駅からすぐでした。祖母の家は私が7歳の時に亡くなった祖父が会社の隣に自分の趣味で建てた木造の日本家屋で、家の中には古い木材と古畳の懐かしい香りがいつも漂い、四角い細身の柱や廊下の細長い床板はツルツルと黒光りしていました。家の奥が祖父母の寝室を兼ねた大きな日本間で、襖で仕切られたその隣には掘り炬燵のある茶の間がありました。おもての通りから社屋の横にある通用口を入って細長い通路をテクテク行くと、通路の突き当りがちょっと開けて祖母の家の裏口です。そこから上がるとすぐ目の前がこの茶の間でした。親戚やお馴染みさんは皆「こんにちは」とここから家に上がってきて掘り炬燵に足を突っ込み、祖母の入れるお茶を啜りながら、ヘビースモーカーだった祖母と一緒にセブンスターをふかしたり、四方山話に興じたりするのでした。
茶の間の奥の棚には分厚い大型テレビも嵌め込まれていて、この小さな部屋が祖母の家の中心でした。祖母の家に来ると私も皆と一緒になって掘り炬燵に足を突っ込み、祖母がお客さんや叔母たちとする世間話を耳にしながら、絵を描いたり、テレビを見たり、みかんを食べたりしました。おやつには祖母の好物だったペリカン食パンのバタ・トーストを、祖母と一緒にミルクティに浸して食べたりしました。当時、結婚前でまだ家に居た父の妹の叔母たち二人も、おばあちゃんっ子だった姪の私の面倒を随分よくみてくれました。
お茶の間を出て廊下を大きな日本間とは反対方向へ行くと、まず右手にお風呂場、左手には小さな洋間?があり、そこは結婚前の父の部屋だったそうで当時はもう誰も使っておらず、父の学生時代の写真が壁に掛かっていたり、薄暗い中に沢山の物だけが置かれていたように覚えています。廊下をさらに進むと右手が台所、左手は畳敷きの上がり間になっていて、その奥が滅多に使わない正面玄関でした。畳敷きの上がり間には洋式トイレと二階に上がる階段がありました。二階は叔母の部屋でした。
その頃の三筋町は日暮れ時になると、リヤカーのおでん屋さんや夜鳴きそばが笛を吹きながらやって来ることがありました。屋台がやってきた音を聞いて、いちど下の叔母のきよえちゃんと一緒におでんを買おうと器を持って外に走ったのを覚えています。屋台の上の大きな四角いおでん鍋のお出汁の中で、もうもうと立つ湯気の奥に色々な形の具がぐつぐつと煮えていて、それをドキドキしながらのぞき込んで選び、きよえちゃんに買って貰ったことが今でも忘れられません。下町の祖母の家ならではの、子供心にワクワクした楽しい思い出です。
記憶が遠すぎてもうあまりはっきりとは思い出せませんが、祖母の家は台所にも出入り口がひとつあって、そこから外に出ると、確か長屋のような家屋が数軒建っていました。そこには会社で働いていた旧知のおじさんの家などがあり、たまにそこのおばさんに「いらっしゃいな」と呼ばれて遊びに行くと、おやつに榮久堂のソフトをご馳走になったりしました。台所口の細い通路の奥には階段で登る高い物干し台があって洗濯物が竿にひらひらと舞っていました。これらの家屋と物干し台は何年か後に、父が会社の新社屋を建て増して無くなってしまいました。今はもうその社屋も祖母の家もありません。長屋の屋根が眺められる物干し台に登って遊んだのも、リヤカーで来る屋台のおでん屋さんも、昭和の子供時代の懐かしい思い出です。
おばあちゃんっ子だった私はきってのストーリーテイラーだった母方の祖母からも色々な話を聞かされました。 母方の祖父は母が生後1ヶ月ちょっとの頃に出征して終戦後にはインドネシアで捕虜になり、日本に戻ったのは5~6年経ってからだったそうです。 祖父の留守中、幼い子供二人と残された祖母は会社も預かって随分と頑張り大変だったそうです。 とても信心深かった祖母は、祖父が戦地から無事に戻ってくるようにとまだ寒い季節に真夜中の神社にお百度を踏みに行ったのよお(プルプル~)と幼かった私に話してくれました。 そうしてようやく戦地から帰って来た祖父は、その時もう小学校に上がるほどの年になっていた母にはまるで初めて会う知らないおじさんの様だったそうです。
父と母は当時には珍しい恋愛結婚で二十代の半ばに一緒になり、翌年には私が生まれました。 そして私が二歳の時にひとり目の弟が生まれたのですが、父は若い頃から仕事で留守が多く、家のこと子供のことは全て妻に任せっぱなしの家庭に不在型、昭和の父親の典型的なタイプでした。 なので子育ては母がひとりで奮闘せねばならず、私は小さいころから幼稚園や学校のない週末やお休みには父方か母方の祖母の元によく預けられていました。 ちなみに父方の祖母のところに一番最初に預けられたのは生後数ヶ月の時だったそうで、 父と母が一緒にどこかへ旅行に行くと言うので2週間ほど預けられたそうです。私は帰って来た母を見てもすぐには誰だか分からずにキョトンとしていたとのこと。笑
私は父方母方どちらにとっても初孫だったので、両方の祖母からずいぶん可愛がって貰いました。 だから生粋のおばあちゃんっ子なのです。 無口だった明治生まれの祖父達とはあまり話しをした記憶さえ有りませんが、祖母たちとは私が遊びに行くたびに沢山のお喋りを昼に夜にしてもらいました。 特に母方の祖母からは様々な昔話や不思議な神秘的なお話をたくさん聞かせてもらいました。
幼い頃に祖母たちと過ごした沢山の時間は、今も私にとって掛け替えのない宝ものです。