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祈願の意義

日本心霊主義運動の父と呼ばれる浅野和三郎(あさの わさぶろう1874~1937)は若くして新進気鋭の英文学者として多くの知識人に評価され、旧海軍の幹部養成学校の教授であった。三男の病気快癒の心霊体験をきっかけに、霊的研究にのめりこみ、その後大本教に入信。教団内では有力な信者であり、論客として活躍した。大正10年の第一次大本事件による大弾圧の後、教団を離れ、大正12年、「心霊科学研究会」を創設した。日本における心霊研究の先駆者であった。

今回から、数回に分けて浅野和三郎についてふれてみたい。
まずは浅野和三郎の講演「神社と祈願」から、祈願の本質に関するお話をご紹介する。講演は少し古めかしい口語なので、文語体に要約した。

●浅野和三郎の講演「神社と祈願」

(引用開始)

祈願または祈祷の起源は、人間が人間を超えた存在を認めてこれに依存せんとする心持の表れで、非常に古い歴史をもっている。そしてそれはおそらく思索の結果というよりは寧ろ感情または本能の所産であって、ある程度、理屈抜きで自然に始められたものである。

さて、祈願にもいろんな種類があるが、中でも原始的なのは、恐らく一つの哀願、つまり困った時の神頼みである。俗にこれを現世利益やご利益信心と言う。これもある程度は仕方が無いが、困るのは、それがあまりにも私利私欲の色彩を帯びることである。こんな祈願は神には通じないどころか、茶目っ気たっぷりの動物霊などに通じるから、気をつけなければならない。

もう一つ祈願で困るのは、口癖の文句の行列になることである。どこの神社に詣でてもいつもオウムのように決まり文句を並び立てることである。これでは本人の耳には届くかもしれないが、到底神には通じるはずがない。

祈願には熱と力が必要である。つまりそれが已むに止まれぬ衷心の思想・感情の勃発したものでなければならない。つまるところ祈願は、それが単独の私的祈願であろうが多数合同の公的祈願であろうが、いずれにしてもまず動的であり、また積極的であることを要し、さもなければ祈願の甲斐がない。

(中略)

フランスの神経専門家のバラダック博士は先年多くの実験を行い、人間の放射線を写真に収めた。それは、特別に調整された種板を用いて空間を写すのだが、ある大勢による祈祷会でそれを試してみると、大衆の頭上に飛竜のような大円柱が現れた。

また、熱心なカトリック信者のローカス大佐の身辺を写してみると、その種板には頭上約一メートルのあたりまで上昇しているシダ状の光体が現れた。これらの実験が何を物語るか甚だ明白である。熱情を込めて祈願すれば、その人の体内から一筋のエネルギーの流れが放射されるのだ。口から出る言葉は空気に振動を与えるだけである。

私が今ここで如何なる祈願がいけないかを判で押したように決めることは出来ない。人間の発達程度には一人一人差があって、ある人にとって適当な祈願が別の人にも適当とは言えないのである。日本国内に色々な種類・性質の神社が必要視されているのもそのためであろう。

(引用終了)

続く

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