明治2年(1869年)渡良瀬川の洪水氾濫のため、梁田郡 河南地区一帯は凶作になりました。
それを日光県庁に訴えたが役人は凶作でないと簡単に査定しました。
免租 減租を採算嘆願しましたが、聞きいられず、死活の問題になりました。
黙っていられなくなった、梁田郡二十二ヶ所村農民が蓑笠をつけて御厨田圃の1本杉に集結して直接訴願の強行に踏み切りました。
ムシロ旗を押し立てた群集は、
日光県へ向かって行動を起こしました。
この拳を憂えた9人が渡瀬川の対岸川崎村に先回りして、極めて不利な事を入れ替わり、立ち替わり時伏せました。
冷静になり、説得に従いました。
ところが、このことがどう誤り伝えられたのか、
県庁では、江川村名主斉藤源十郎を加えた十人を扇動者として、捕まえた日光県に引き立て投獄しました。
極感の中、日光という高地、雨雪が降り込み、耐えられず、
7人が獄中で病死してしまいました。
その事件を敬い、義民祭が155年開催されています。
2009年最高裁判所判事に就任した
須藤正彦氏はこの7人の中の須藤貞蔵氏の一族になります。
また、
須藤正彦氏は、地元協和中出身で
みなと協和法律事務所に所属していました。