昨日はこんな絵を描きました。
白いたまを咥えて、雲から飛び出す猛禽さん。
この表情が描きたくて描いているうち、実際には魚をくわえていたのですが、たまに変更。
そのたまも、最初は珠にするつもりでしたが、ご時世を思いついて球に。
そして、描き終わってふとこの歌詞を思い出しました。
最近は、手が動いて絵を描き、その後でストーリーができることも増えました。
なぜに雲から顔を出していたかというと、写真がこの概ねこの範囲しか写っていなくて、雲で隠すしかなかったから。
あるいは画面全体に顔!もありだったかもしれませんが、縦横のバランスが悪かった。
そして、くわえたたまも、最初は水晶玉のような透明な珠にしようかと思ったのですが、ここは時事に合わせて、野球のボールに。
縫い目を入れるのはあんまりかな、と思って純白の球に。
猛禽の名前は不明ですが、たぶんオジロワシです。尾まで写ってたらわかったのでしょう。
顔周りの毛の色や模様も個体によって違うので、まあ猛禽ちゃんという事で、お願いします。
この子は、ホームランボールをキャッチして、記念に持ち帰っちゃいました。
話が変わりますが、日航機墜落事故から今日で38年だそうです。
乗客の家族や関係者以外の私が思い出すのは、坂本九さんのこと。
まだ43歳くらいだったそうですが、悪い偶然が重なってあの便に搭乗されたようです。
九さんが歌われた、見上げてごらん夜の星を、思い出さずにはいられません。
猛禽さんの咥えた球は、霊に魂にも置き換えられるかなと、今思いました。
奇しくも御巣鷹山という名前のこの山に、亡くなった命の魂は、雲を突き抜けて戻ってくるのでしょうか。
生きているものが山に登るという行為に助けられて、魂とこころをつなげる。
同じ痛み、悼みを持つ人たちが、それを共有しあえる場所で。
法要などで人が集うのは、亡くなった人のためでもあるけど、今も生きている人をつなぐため。
私は後者がより大切なことだと感じます。
だから、葬儀も墓もいらないというのは、最高の自己中だとも思いますが、世の中色々ですから、本当に悼んでくれる人が集まってくれればよいという、最高の配慮でもあるというのが弁解です。
手を合わせたその後で陰口を言いあう方々もおられますので。
お盆の帰省はできませんが、魂と語り合えるのは、お墓や仏壇の前だけではない。
お盆やお彼岸、命日ではない日にも、亡き人を思い出したり、語り掛ける機会はあります。
でも、集う場所があることは、生きているもののためですね。
友人が亡くなって、それをつくづく思う今日この頃です。
ご訪問頂きありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫