日曜日のNHKの番組、朝早いのでなかなか見る機会がないのですが、今朝も最後の10分ほどを観ました。
親鸞の事をとりあげていたようです。
これまでに、宗教の教えに救われたり、気づいたりしたことはあります。
色々な教えの中から、自分に必要なものを取り入れ、自分なりに消化して、自分の中に落とし込んでいます。
阿弥陀仏は極楽にいるのではなく、南無阿弥陀仏と念仏を唱える事で、唱える人の中に入って来て、その人の中に存在する。
阿弥陀仏という仏様は、その名をもって人と交わるのだそうです。
ちょっとしか見ていないので、うまく書けませんが、それらは私が何年も前から思っていた事に通じているように思えました。
念仏を唱える時間というのは、多分自分と向き合う時間であり、仏に救いを求めるものではないのでは、と。
無宗教の人でも、念仏はなくても、自分と向き合う、自分を見つめる時間というのは作れるはずだと。
例えば、世の中のいわゆる悪人っていうのは、自分自身を見つめる時間を持たない人たちなんじゃないかな。
物や金、名声というような、自分の周りにある事柄にばかりに心を奪われている。
罪にも色々あると思うけど、自分と向き合いその罪を認めるという事自体が、まずは罪の償いになるのでは、と。
獄中から出て、すぐにまた悪事を繰り返す人もいれば、極悪死刑囚が自分を見つめ直して心を入れ替えたような話もあります。
私は、手術後88ヶ所の巡礼をして、弘法大師を心の軸としていた時期がありました。
今でも、あらゆる場所でそのお姿を見ると、涙が出ます。
弘法大師にまつわるお寺を探して旅をすることもありました。
無宗教ですが、それらの時間は、自分自身を見つめる時間でもありました。
弘法大師に支えられ、南無阿弥陀仏の事を聞いてからで申し訳ないですが、自分を救ってくれるのは、神さまでも仏さまでもないと、改めて思う。
自分自身と向き合い、己の弱さや醜さを心の底から掬い上げる事が、自分が救われる道だと。
そこに、例えば宗教や念仏があれば、なおさら確固たる支えや力になるのではないかと。
私自身は、特定の宗教や水晶玉には頼らずに、空海や親鸞をはじめ、先人たちの知恵、彼らが私たちと同じように苦しみもがきつつ、人々の心を支える教えを説いてきた事を思い、これからも生きていく予定です。
うまく書けなくてすいません。
ちょっと出かけますので、今日はこれにて失礼します。
ご訪問いただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫