日曜朝に見るようになったNHKの番組で、出生前診断の事を取り上げていました。
出生前診断で、赤ちゃんがダウン症だとわかり、それでも産んだ人と、あきらめた人。
そのような診断を受けずに、ダウン症のお子さんを産み育てている人。
彼らの相談を受けているNPOの方。
様々な立場の人たちを取材したのは、ダウン症の妹を持つディレクターの方でした。
デリケートな話題でもありますし、ここで語る事には少し躊躇してしまいます。
そのつもりがなくても、どなたかの気持ちを傷つける事になるかもしれないし、選んだ表現が自分の本当の想いを伝えられるかどうかわからないからです。
言葉の選び方、受け取り方もそれぞれです。気を付けて書こうと思います。
長くなりますが、興味のない方はスルーしてください。
私は、長男をアメリカで出産しましたが、最初の頃の検査で、出生前診断を受けたような気がします。
気がします、というのは、恥ずかしい話そう事をよくわかっていなかったから。
それがどういうものなのか、説明は受けたけど、しっかり理解はしていなかったと思います。
結果次第で出産をどうするか選択しなければならないという事はわかりました。
ただ、その時の私の中には、悪い結果が出るはずがないという根拠のない自信のようなものが在りました。
私はその時33才。当時でいう準〇高でしたが、それに対する不安もほとんどなかった。
長女を日本で産むときは37歳でしたが、妊娠が分かった時に、そもそもその診断は受けませんでした。
検査を受けないという選択も、こんなにも心配性の私の何の根拠もない自信のようなものでした。
自信という言葉も違うような気がしますが、命の選別の事など、深く考えていなかったと思います。
産みたいと思わずに赤ちゃんが生まれてしまう、健康に生まれても虐待したり果ては命まで奪う。
産みたいのに授からない方。障害を持って生まれた子から逃げる親。向き合っていく親。
今朝の番組はそのような広い話ではなく、ダウン症のお子さんに関する事がメインで、ダウン症の妹を持つこの方は、命の選別により、妹は生まれていなかったかも知れない、と思っていました。
出生前診断を受けるという選択肢のなかった親御さんは、沢山の想いを経て今に至って、いまだから言えることを話してくださいました。
カメラの前では言えない事もあるでしょう。
胸がいたみました。
私が思ったのは、「選択肢」ということ。
人間は、時代を経て沢山の選択肢を持つようになりました。
果ては、命の選別までも。
この場合は産むか産まないかのふたつにひとつ。
その選択が正しかったかどうかは、後にならないとわからない。
いえ、正しい正しくないはないし、誰れも決められるものではないでしょう。
ダウン症のお子さんとその親御さん。
私たちが目にするのは、ポジティブな部分だけを強調したものが多いと思います。
そうではない方たちもたくさんいらっしゃると思います。
いずれにしてもこの場合は、おなかの赤ちゃんに選択肢はないってことでしょうか。
人間社会で多様性を認めるという事が、いまはとても強調されています。
サイレントマジョリティー、ノイジーマイノリティーという言葉もありますが、サイレントマイノリティーというくくりもあるかもしれません。
生き物の世界の多様性は、意識せずとも他者と関わり、助け合っているものです。
彼らとはちがう人間の世界では、それぞれの個性を持つ人たちが、生まれて来れてよかったと思える社会であることが理想です。
生きててよかったと思う事と、生まれてきてよかったって思う事は、違うと思うんです。
これも言葉のあやかも知れませんけど。
沢山の選択肢があるから、人間は迷い悩むのでしょう。
周りの人がどうみるかを気にすることの多い社会ですが、大きな声を上げなくても、少数派でも、お互いが尊重しあい、少なくともその生き方の邪魔をしたり、誹謗中傷しないような社会であってほしい。
戦争など、もってのほか。
命の選別という究極の選択から、こんなようなことを考えた朝でした。
昨日描いた絵です。
こういう羽とかを一本一本描くのは、私にとって写経のような時間です。
(笑)
最後までお読みいただきありがとうございます。
不適切な表現があったとしたら、許してください。
私の表現の拙さにつきます。
感謝をこめて
つる姫