第一級寒波が襲来中に、土日でセンター試験がある。自分が受験の時は、国立・私立と別れていて、国立は共通一次試験で5教科1000点満点で、偏差値低めな地方大学でも600点近く取らないと二次には進めなかったような・・・というのは、日大山形に入学したら日大はエスカレーターだと思い、受験勉強はほとんどやってなくて、2年の秋から一人暮らしをしたせいで、遊びまくっていた(不純異性交遊ではなく、クラスメートと麻雀)。厳密には、推薦試験で全国日大系付属高校の統一試験があって、偏差値が4教科で200点以上で、枠内なら推薦という流れ。理工学部の建築学科は無理そうだから、海洋建築学科に願書を出した。そしたら、そこに出した5人全員が200点に満たなくて、内申書で比べられて自分は全教科の平均が5点の中で4.1と、普通科にすれば「やや優」点でも、特進科にすれば「普通」で、敢えなく玉砕。国立はハナから無理レベルだったから推薦しか考えてなくて、年が明けてから職員室に呼ばれ「お前落ちた・・・」(大爆笑)。時期的には他の大学への推薦は無理で、一般試験しか無く、日大・東北工大・国士舘(建築学科があったから)を受験して、ことごとく落ちまくる。最後の関門だった足工大が引っ掛り、楽しい4年間はやはり勉学には励まずに遊んでばかり。当時は倍率が9.8倍だったのに、今では定員にはるかに及ばないFランク(フリーと言い、名前を書けば合格)で、それでも学生が集まらないと教授も嘆いていた。今でも年に2回は挨拶に行けば「今井君の時代は優秀な学生がたくさんいて学内も活気に溢れていた」と言ってもらえるも、130人いた建築学科の中では100番以下だったと思う。就職は東証一部の上場会社だったから、5位だったけど・・・やはり大きな会社では自己アピールも苦手で、仕事も好きじゃなかったから早期退職して良かったと思う。すぐに再就職せずに1年みっちり遊んで、入退院繰り返して出来れば働きたくはなかった・・・と知れたら、親会社のシャッチョウさんは怒りまくるだろう。そんなこんなでも、人並みに生きてやっていれます。こんな「アクの強い」「とらえどころの無い」「人の好き嫌いが激しい」「ワガママ」「マイペース」「自己チュー」な自分と付き合ってくれてる人に感謝します(笑)。もし、あの時代からセンター試験があったら・・・どの大学に進学していたのだろう?就職先も変り人生も全く違った道を進んでいただろう。帝○大学病院の先生に余命宣告を受けなければ、赤トレに通う事もなく、何もできないまま10年前には死んでいただろう。赤トレに通う→ボディビルではなくパワリフを選ぶ→試合に出る→生きていた証しを残せた→それで後悔しないで死ねる→と思ったら素晴らしい人々との出会い→それでも闘病→何回か死にかける→それでも生き残る→めでたしめでたしリハビリでのんびりやりたい事をやる→また働けるようになる→シャッチョウさんに戻される。ジェットコースター人生を楽しんでます。センター試験が受けれたとしても、地元大学は眼中になくて、関東のどこかに進学していただろうね。勉強やりたいな・・・と一瞬だけ思ったのは、就職1年目の現場で毎日泥んこと格闘していた時。大学院の土木で地中の主動土圧・受動土圧を卒業論文よりも、もう少し深くやりたいなぁとちょこっとだけ思ったぐらい。今なら何だろ?商学・経済学・経営学かな?。でも、どれも「絶対に極めたい」とは思わない。だって一番難しいのは人生学だと痛感しているから。
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